徳川吉宗像 平成19年4月13日

徳川吉宗 とくがわ・よしむね

貞享元年10月21日(1684年11月27日)〜寛延4年6月20日(1751年7月12日)

和歌山県和歌山市・県庁前交差点でお会いしました。


父は和歌山藩主・徳川光貞、母は側室・浄円院。
幼名は源六・新之助、はじめ頼方。
元禄10年(1697年)越前国丹生にう郡に3万石を与えられたが、宝永2年(1705年)和歌山藩主となり、将軍綱吉の一字をもらって吉宗と改めた。
質素倹約・財政安定などの藩政改革を推進。
享保元年(1716年)将軍家継の死後、老中らに推されて将軍職に就任。
幕府政治の再建を目指す享保の改革を行ない、在職30年に及んだ。
表面上は門閥譜代層を尊重したが、実際は紀州時代の御用役有馬氏倫うじのり・同加納久通を新設の側御用取次に抜擢、政事・人事の重要政策を相談した。
役人間の調整役である小納戸頭取や情報収集にあたるお庭番を新設、庶民にも情報提供を求め目安箱を設置。
延享(1745年)将軍職を長男家重に譲り、西丸に移って大御所として家重政治を支えた。


徳川吉宗公の像



徳川吉宗公之像
(和歌山市・県庁前交差点)





(平成19年4月13日)

徳川吉宗年表

1684年 貞享元年
紀州(和歌山県)藩藩主徳川光貞の四男として生まれる
幼名「源六」「新之助」
元服して「頼方」と名のる
1697年 元禄10年
5代将軍綱吉より越前(福井県)丹生の藩主の位を与えられる
1700年 元禄13年
越前丹生に向かう
1705年 宝永2年
第5代紀州藩主となり名前も「吉宗」と改める
1716年 貞享元年
8代将軍となる
32〜61歳迄の将軍職の間 権現様(家康)の治世を理想とする享保の改革を断行 文武奨励 洋書の一部輸入許可 法令整備 新田開発等を推進 米価対策にも腐心し米将軍とも呼ばれる
幕府中興の英主といわれ その功績は高く評価されている
1745年 延享2年
61歳にて将軍職を退く
長男家重が9代将軍となる
1751年 宝暦元年
67歳にて生涯を閉じる
有徳院と諡す

(銘板より)

吉宗公ブロンズ製作に当たって

享保年間に吉宗が西洋より馬を輸入との史実があり その西洋馬と人物像(革新的アイディアと積極的行動)の情熱と強い意志を年令40歳位にて想定 台座は大きな視野で物事を考えた将軍にちなみ丸い部分にて 広い世界即ち地球を表現いたしました

贈 和歌山伏虎ライオンズクラブ
1994年11月23日 チャーター・ナイト30周年記念事業
原形製作 田畑 功 氏
ブロンズ鋳造製作 株式会社織田幸銅器
協力 島津建築設計事務所

(銘板より)


徳川吉宗公誕生地



徳川吉宗公誕生地
(和歌山市吹上2丁目4)





(平成19年4月13日)

徳川吉宗生誕の地

徳川吉宗は貞享元年(1684)10月、城下吹上邸で生まれたとされている。
父は紀州徳川家2代藩主の徳川光貞で、母はその側室お由利である。
元禄10年(1697)4月、葛野藩(現福井県朝日町)3万石の大名に取り立てられ、宝永2年(1705)2人の兄の相次ぐ死によって5代藩主となる。
その後享保元年(1716)8代将軍に襲職し、享保の改革を進める。
幕府支配体制の強化を図り、「徳川中興の英主」といわれる。

(説明板より)


【御庭番】

御庭番というのは、8代将軍吉宗が始めたもの。
江戸城庭園の管理人という名目ながら、実質的には隠密(スパイ)だった。

(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)

(令和元年9月14日 追記)


飛鳥山碑
(東京都北区王子・飛鳥山公園内)

(平成26年8月24日)

東京都指定有形文化財(古文書)
飛鳥山碑(あすかやまのひ) 

所在地 北区王子1−1−3
指定   大正15年4月

8代将軍徳川吉宗は飛鳥山を整備し、遊園として一般庶民に開放した。
これを記念して、王子権現社別当金輪寺の住職宥衛が、元文2年(1737)に碑を建立した。
石材は、紀州から献上されて江戸城内滝見亭にあったものである。
碑文は、幕府の儒臣成島道筑(錦江)によるものである。
篆額は、尾張の医者山田宗純の書である。
建立にいたる経緯については、道筑の子和鼎(かずさだ)(龍洲)の「飛鳥山碑始末」に詳しい。
碑文の文体は、中国の五経の一つである尚書の文体を意識して格調高く書かれている。
吉宗の治政が行き届いて太平の世であることを喧伝したものと考えられる。
碑は、総高218.5cm、幅215cm、厚さ34.5cm。
元享年中(1321〜24)に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことが記されている。
続いて、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来や、土地の人々が王子権現を祀り続けてきたことが記される。
最後に、吉宗が飛鳥山に花木の植樹を行い、王子権現社に寄進した経緯などが記される。
異体字や古字を用い、石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解であるが、飛鳥山の変遷を理解する上で重要な資料である。

平成23年3月 建設
東京都教育委員会

(説明板より)

飛鳥山の碑 

この碑には、熊野の神々のこと、平安時代の末頃よりこの地方を開拓した豊島氏が熊野の神を迎え、地名を熊野に模して飛鳥山とか王子或は音無川と呼ぶようになり、土地の人々が年経ても変わりなくお祭りしたこと、花鎮めの祭りのさま、星霜遥かに移り寛永11年(1634)将軍家光公が王子権現の社を新たにし飛鳥の社をそこに遷したこと、更に103年経た元文2年(1737)将軍吉宗公が飛鳥山を王子権現に給わり、此の地の整備を命じ音無川を浚い流れをよくし、山には花木を植え江戸庶民の行楽の地となし、付近の道路を良くし農耕の便を計るなどした為に豊年続き神栄え人々吉宗公の徳を慕ったことを千年の後まで鑑としてこの石に録したと刻まれている

この文並びに書は儒臣成島道筑の手になり、篆額は尾張の医者山田宗純の書で、石工は細井源太夫知慎より唐刻の法を伝え、受けた佐平治と云う人が精手十人を名立てて刻んだと云う。
石は江戸城吹上御苑の滝見亭にあった紀州家献上の名石で、元文2年(1737)閏11月2日、王子権現別当金輪寺住持権大僧都宥衛によって建てられた。
この碑は、都文化財に指定されている。

森正識す

東京都北区役所

(説明板より)


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徳川吉宗



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