平成21年5月15日

佐々宗淳 さっさ・むねきよ

寛永17年(1640年)〜元禄11年6月3日(1698年7月10日)

茨城県水戸市・JR水戸駅前でお会いしました。


常陸国水戸藩士。
通称は介三郎。
字は子朴、号は十竹・十竹斎。宗淳は諱いみな
瀬戸内の一小島で生まれ、京都妙心寺の僧となり祖淳と号した。
34歳頃、還俗して江戸に出て、水戸藩に仕える。
藩主・徳川光圀に近侍し、『大日本史』編纂のため諸方へ史料収集に行き、文書・諸記録を採集した。
彰考館総裁を勤め、光圀の隠居後は西山で近侍。
著書に『立志論』『十竹遺稿』などがある。





水戸黄門 助さん格さん像

(茨城県水戸市・JR水戸駅前)

左:助さん(佐々木助三郎=佐々介三郎=佐々宗淳)
中央:黄門様(水戸黄門=徳川光圀)
右:格さん(渥美格之進=安積覚兵衛=安積澹泊


(平成21年5月15日)





JR水戸駅






(平成21年5月15日)

水戸黄門と助さん格さん

水戸黄門で知られる徳川光圀は江戸幕府を開いた徳川家康の孫にあたり御三家水戸藩の第二代藩主である
藩政では人間尊重の立場に立ち 常に庶民に対する思いやりの心を忘れず また大日本史の編さんや文化財の保護に意を用いるなど大胆な文化行政によって平和時の英雄とも評された
明治以後光圀を主役とする諸国漫遊記の類が創作されたのはこうした光圀の心を汲みとったものであろう
黄門というのは昔朝廷から任命された中納言のことである
その中納言は他に何人もいるのに水戸黄門といえば光圀を指すようになったのはそれだけ光圀が天下に有名だったからである
お供の助さん格さんは佐々介三郎 安積覚兵衛がそのモデルといわれ共に大日本史編さんに尽力した学者である
三人がそろって旅したことはないが光圀の命で介三郎らが史料収集のため全国を旅しているのでそれが漫遊物語に発展したのであろう
この度水戸駅北口再開発事業を記念して光圀誕生の地に隣接する水戸駅前にこの像を建立するものである
中央が水戸黄門左が助さん右が格さんをイメージしている

制作 小森邦夫
撰文 瀬谷義彦
題字 北條蘭徑

平成5年(1993年)2月 建立 水戸市

水戸黄門ゆかりの主な史跡案内  距離は当地からの概算です

(説明碑・碑文より)

佐々介三郎像 平成20年6月30日

茨城県水戸市・桂岸寺でお会いしました。

水戸黄門諸国漫遊旅姿像

水戸黄門諸国漫遊旅姿像
(茨城県水戸市・桂岸寺)

右:助さん(佐々 介三郎)
中央:水戸黄門(徳川 光圀)
左:格さん(安積 覚兵衛)

(説明板より)

(平成20年6月30日)
水戸黄門諸国漫遊旅姿像



水戸黄門諸国漫遊旅姿像
(茨城県水戸市松本町13−19・桂岸寺)





(平成20年6月30日)

【佐々宗淳】 

彼の先祖・家系は、桓武天皇の皇子・良岑よしみねの(峰)安世やすよの孫・玄理げんりに始まり、その子孫の尾張国の住人・前野まえの加賀守が曾祖父に当たる。
加賀守は武将・佐々成政の姉と結婚して宗能むねよしと直勝なおかつが生れた。
弟の佐々直勝が、宗淳の祖父で、佐々本家を継いで肥後熊本の加藤清正、その子の忠広に仕えた。
直勝の子が宗淳の父・直尚なおひさ
はじめ加藤家に仕え、次いで讃岐高松の生駒高俊いこまたかとしに仕えていたが、寛永17年、生駒家のお家騒動に遭遇した際、讃岐を去って大和宇陀うだの織田高長のもとに身を寄せた。
直尚一家が舟で瀬戸内海を渡る途中、ある一小島(島の名前は不明)に宿泊した際に生まれたのが介三郎宗淳であった。
寛永17年(1640年)5月5日の誕生で、幼名を島介といった。
宗淳は、七男一女兄弟の五男に生まれた。
15歳の時に父の命令で京都の臨済宗妙心寺みょうしんじに入り、禅僧としての道を歩み始めた。
しかし、30歳ごろから、当時の仏教界の風潮や、『梵網経ぼんもうきょう』の仏戒ぶっかいなどに疑問を持ち始めるとともに、儒教に対する傾倒を強め、ついに延宝元年(1673年)、34歳の時に還俗げんぞくを決意して妙心寺を出て、同年11月に江戸に出てきた。

そして翌延宝2年9月、紹介者は不明だが、水戸第2代藩主徳川光圀(義公)に仕官することになる。
職務は進物番しんもつばん兼史館編修(彰考館の史臣)である。
この時、宗淳は35歳。
彰考館の史臣となって4年後の、延宝6年ころから宗淳が主として担当するようになった仕事は、紀伝きでん編修のための、ことに南朝(後醍醐天皇の吉野朝廷)に関する史料の採訪蒐集さいほうしゅうしゅうの旅であった。
光圀の伝記逸話集である『桃源遺事とうげんいじ』には、光圀が命じた史料採訪の第一人者として、佐々宗淳の名が挙げられている。
宗淳の史料採訪は、主要なものだけでも6回実施されている。
宗淳は延宝6年に小納戸役兼史館編修・200石。
天和元年に300石に加増。
元禄元年には同僚の吉弘左介元常よしひろさすけもとつねとともに、第2代目の彰考館総裁に任ぜられた。

元禄3年(1690年)10月に隠居した藩主・光圀から二大事業の実施監督を命じられる。
一つは、那須国造碑なすのくにのみやつこのひ(栃木県)の修復と侍塚さむらいづか古墳の発掘。
もう一つは、湊川みなとがわ(兵庫県神戸市)へ行き、楠公なんこう楠木正成)の墓碑を建立することであった。
この時、宗淳は53歳。
この元禄5年〜6年の湊川・京都方面の旅が、宗淳の最後の長旅となった。

彰考館総裁としては、大日本史の記述方針を示す元禄2年の『修史義例しゅうしぎれい』、および元禄9年の『重修紀伝義例じゅうしゅうきでんぎれい』の策定を行ない、歴史的見識の深さを存分に発揮している。
元禄9年7月に彰考館総裁を辞任し、小姓頭こしょうがしらとして西山荘(光圀の隠棲場所)に勤務し近くの不老沢おいぬさわに住んだ。
宗淳は所用のために水戸城を訪れることはあっても、水戸の地に居住することはなかった。
元禄11年(1698年)6月3日、59歳で不老沢の宅で死去する。

(参考:水戸市教育委員会発行 『水戸の先人たち』 平成22年3月発行)

(平成29年6月20日 追記)


住居跡



住居跡
(茨城県常陸太田市新宿町あらじゅくちょう不老沢おいぬさわ





(平成18年7月7日)

水戸黄門漫遊記でおなじみの「助さん」の住居跡
(常陸太田市新宿町不老沢)

助さん(本名、佐々さっさ介三郎すけさぶろう宗淳むねきよ)は延宝2年(1674)、35歳のとき、黄門さん(水戸藩二代藩主徳川光圀)に招かれ、彰考館の史臣となりました。
全国各地を訪ね、貴重な古文書を収集して『大日本史』の編さんに力を尽しました。
元禄元年(1688)彰考館総裁に任命され、同9年7月、総裁をやめ、小姓頭こしょうがしらとして西山荘の黄門さんに仕えました。
元禄11年6月初めに59歳で亡くなりました。
この辺が助さんの住んでいたところで、この井戸(深さ4メートルほど)は当時使用されたものです。
助さんの墓は、市内増井町の正宗寺にあります。

(説明板より)






左:墓碑(十竹居士佐佐君之墓)
右:供養塔
(茨城県常陸太田市・正宗寺)




(平成21年6月7日)





佐々宗淳の墓所

(茨城県常陸太田市・正宗寺)




(平成21年6月7日)

佐々宗淳の墓
市指定史跡

水戸黄門漫遊記で親しまれている「助さん」は本名は佐佐宗淳さっさむねきよといい、字あざなを子朴しぼく、通称を介三郎、十竹と号した。
本姓は良峰よしみね氏であったが、その祖が佐佐成政の妹を妻とした縁で佐佐氏を名乗った。
15歳で京都妙心寺の僧となり、祖淳と号した。
僧として約20年つとめたが、感ずるところあって還俗げんぞく、江戸に出て延宝2年(1674)徳川光圀に仕え、進物番兼史館勤務となり、義公修史のことに従事した。
彼の業績は史料の採訪収集でその史跡は畿内は勿論もちろん北陸・中国・九州などまでも及び貴重な文書記録を集めたことである。
また義公の命で下野の那須国造碑の修復、同所の上下侍塚の発掘調査とその復原等に当ったことは特筆されよう。
元禄9年(1696)彰考館総裁をやめ、小姓頭として西山荘の光圀に仕えたが、元禄11年6月3日59歳で没しこの地に葬られた。
墓碑は養子の藤蔵宗立が建て、撰文は格さんこと安積覚澹泊である。

常陸太田市教育委員会

(説明板より)





『佐佐介三郎宗淳畧伝』碑

(墓所内)





(平成21年6月7日)

佐佐介三郎宗淳畧伝

碑銘
君姓ハ良岑大納言安世ヨリ出■■孫玄理 尾張ノ丹羽郡ヲ典ル 十三世ノ孫 時綱 郡ノ前野■■リ邑ヲ以テ氏トス 曽祖加賀 織田信安ニ仕フ 妻ハ佐佐成政ノ妹ニシテ 祖備前ハ其ノ生ムトコロナリ 因テ佐佐氏ヲ冒ス 成政卒 加藤清正ニ仕フ 皆勇敢ヲ以テ聞ユ 朝鮮ノ役 備前蔚山ヲ守リ 名著ハル 考直尚忠廣 ニ事ワルニ逮ヒ封除セラル 生駒高俊ニ事ヘテ又封除セラル 織田高長之ヲ客遇ス 莵田ニ居リ 義齋ト号ス 七子有リ 君■■ニ於テ五ト為ス 妣ハ大木氏 寛永十七年 義齋讃岐ニ去リ五月五日舟一小島ニ泊シテ君生ル ■字島介 十五ニシテ妙心寺ニ投シ僧トナリ祖淳ト名スケ 黄檗 隠元禅師ニ参ス 更ニ超格去■テ多武峰ニ隠レ 特■精苦教祖ヲ講究シ六物■■ヲ著■世ニ行ハル 一日梵網経ヲ読ミ 父母兄弟ヲ殺サルルモ亦■ヲ報ユルコトヲ得ストイフニ至リ 概シテ曰ク 是レ豈人理ナラン哉 我世々 武ヲ業トス モシ不幸ニシテ讐アラバ忍ンデコレニ報イサランヤト 又論語ノ子路鬼神問フハ章ヲ■ 生死ノ理忽然直アリ 遂ニ立志論ヲ著シ衣鉢ヲ毀シ髪ヲ養ヒ 名を宗淳ト更ム 字ハ子朴 介三郎ト称ス ■■江戸ニ遊フ 水戸義公聞テコレヲ壮トシ藩府ニ辟シテ近侍ニ居ル 彰考館編修ノ事ヲ総裁シ四方ニ奉使シテ遺書ヲ求メ得ル所最多シ 義公致仕スルニ及ヒ参議公■ンヂテ小姓頭トナシ西山ニ侍セシメ看過益々隆ナリ 疾ヲ以テ元禄十一年六月三日ニ終ル 年五十九 久慈郡増井村勝楽禅寺(正宗寺)ニ葬ル 志村氏ヲ娶ル 先ニ歿ス 後淡河氏ヲ娶ル 子無シ二女ヲ生ム 参議公 姪藤蔵宗ニ命ジ立テ 嗣ト為ス 君夷昿ニシテ耽直 細瑾ニ拘ラス人ト接シテ表裏洞■シ■チ敢テ書スベカラザルモノアリ 其ノ顧問ニ侍スルモ亦然リ 強記博洽 譜■ニ精シク史筆ヲ■リテ能ク疑義ヲ決シ今古ニ■貫ス 議論風ヲ生ジ好ンデ後進ヲ■達シ其ハ■引ニ出■ルモノ十餘人知名ノ士多シ 善ク酒ヲ飲ミ 家貧シクモ■如タリ 晩年十竹先生ト■ス 自ラ傳ヲ著ス 職ニ編削ニ在リト雖モ功ヲ物ニ被セズ法磊落■■ 然レドモ奪フベカラザルモノ風アリ 覚之交タリ 宗■碑ヲ立テ陰ニ■センコトヲ請フ ■スルヲ■ス (以下判読不明)

(碑文より)





正宗寺・総門

(茨城県常陸太田市増井町1514)





(平成21年6月7日)

正宗寺しょうじゅうじ

臨済宗円覚寺派の寺で萬秀山正宗寺という。
この寺は、夢窓国師が中興開山した正法寺の塔頭として、佐竹貞義の庶長子月山周枢が寺内に正宗庵を営んだことに始まる。
佐竹氏の保護の下南北朝時代には関東十刹の一つに数えられ、当時の寺領は4万石といわれたが、佐竹氏の国替えによって勢力は次第に衰えた。
江戸時代には将軍家光から朱印100石を与えられ保護され、水戸藩歴代藩主の尊崇も厚かった。
天保9年正月総門を残して焼失し、今の庫裡は天保10年、本堂は明治3年に再建されたが老朽化のため、昭和63年に現本堂が建てられた。
現在、県・市指定の文化財が数多く残っている。

常陸太田市教育委員会

(説明板より)

正宗寺の周辺

勝楽寺しょうらくじ
延長元年(923)に平良将が創建した律宗の増井寺を、永承6年(1051)に源義家が朝敵調伏の祈願したのを期に大瑞山勝楽寺と改称した。
慶長元年(1596)に火災で焼失している。

正法寺しょうほうじ
貞応2年(1223)に佐竹4代秀義が勝楽寺内に子院正法院を開設したが火災で焼失し、弘安8年(1285)に8代行義があらためて南明山正法寺を建立した。

盤陀石ばんだいし
勝楽寺が残す唯一の遺跡で、宇治平等院鳳凰堂や岩手県の毛越寺などに見られる苑池式伽藍の配石の一つである。

那珂通辰なかみちときの墓
那珂通辰は南朝方の武将で、瓜連城陥落の際に勝楽寺境内へ逃れ、裏山の一本松の峰で自害したと伝えられている。

佐竹一族さたけいちぞくの墓
正宗寺の裏山にある数多くの宝篋印塔は、佐竹氏代々の墓塔と伝えられているが、銘がわからず誰の墓であるかは分からない。

佐々宗淳の墓
佐々宗淳は徳川光圀に招かれて彰考館の総裁を努めた後、小姓頭として西山荘の光圀に仕えたが、元禄11年(1698)に59歳で病没し、この地に葬られた。

常陸太田市教育委員会

(説明板より)


水戸黄門漫遊記  彰考館



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