水戸城 みとじょう

茨城県水戸市三の丸


水戸城大手門跡 平成20年10月12日

水戸城の始まりは建久年間(1190年〜1198年)に大掾だいじょう(馬場)資幹により築かれたものと伝わる。
大掾氏は、常陸国大掾であった平国香より出、資幹は8代目にあたる。
馬場氏と称した同氏はその後、源頼朝に従い、常陸大掾職を継いだといわれる。
室町期に入り、応永23年(1416年)、当主・馬場満幹は、上杉弾正の乱に加担。
幕府軍により敗れ、馬場氏の当城支配は終わる。
新城主には江戸氏がなった。
江戸氏は、弾正の乱の折、当城を改め、陥れた功により新城主となるが、入城するとすぐに市を設けて7代に及ぶ支配の基礎を築いた。
7代続いた江戸氏は度々、主家である佐竹氏と対立。
通雅の代には、佐竹氏と同格となった。
天正18年(1590年)の小田原役の折、佐竹氏は、豊臣秀吉の勢に参じ、江戸氏は秀吉に従わなかった。
やがて、小田原開城となると、常陸一国は佐竹氏の領地となる。
佐竹氏は水戸城の要衝を重視、ここを本拠と決めたが、江戸重通は城に籠り攻防戦となった。
のちに重通は力尽き、城を開け、江戸氏の支配は終わる。
佐竹義宣は入城後まもなく城を大改修、城名を「水戸城」と改め、ほぼ現在現在見られる規模のものとなした。
しかし、関ヶ原合戦後、佐竹氏は、会津上杉景勝と意を通じた嫌疑がもとで、羽州久保田(秋田)城に転封となった。
そこで徳川家康は、江戸城の北方防備を重視し、水戸城主に松平一生、松平康重、由良国繁らを城代に置いたが、まもなく家康の七男・武田信吉を下妻城より水戸城に移したが、信吉は早世。
慶長11年(1606年)下妻城主に家康の11男・徳川頼房を任じ、同14年、頼房は下妻城より水戸城に入り、25万石(のちに35万石)をもって水戸徳川家(藩)を起こした。
頼房は寛文元年(1660年)に没したが、水戸徳川家は徳川御三家として10代・徳川慶篤の明治に至るまで続く。
2代・徳川光圀が「水戸黄門」。
光圀と並ぶ名君が9代・徳川斉昭である。
斉昭は現存する弘道館、水戸偕楽園を開いた。

水戸城は徳川将軍家と御三家の中で、もっとも質素な城郭である。
水戸地方は良質の石材地がないため、石塁の使用がなく、土塁をもって塁壁となしていた。
また、名古屋城和歌山城が大小天守閣をあげたのに対し、水戸城は天守が建てられず終わった。
ただ明和元年(1764年)に三層の破風のない三階櫓をあげ、天守に相当させている。
櫓の数も少なく、多聞の利用もわずかで、多くが塀であったようである。
これらの質素さは何といっても光圀の人格をよく現わしていたと思われる。
城の構造は本丸、二の丸、三の丸と一線上に丘陵上に連なる連郭式縄張で、その曲輪の間に堀切りを設け、北に那珂川、南に千波沼を臨む要害であった。
幕末の折、弘道館の内で佐幕、攘夷両論の激しい対立が生じる。
維新の時には、改革派が水戸城に籠り、保守流に攻められるに及び、戦火により多くの建物が焼失した。
なお、天守にあった三階櫓だけは存していたが、昭和20年の空襲によって類焼した。

(参考:大類伸監修『日本城郭辞典』より)

水戸市三の丸・大手橋 古写真(説明板より)

大手橋

佐竹氏の城郭拡張によって二の丸・三の丸が築かれた時、慶長元年(1596)にこの堀に掛けられた橋で、徳川初代藩主頼房が修築してから大手橋と称せられた。
明治元年(1868)10月佐幕派が弘道館を占拠した時は、この橋をはさんで主力軍との間に内戦が起った。
橋は何度か修築され、昭和10年(1935)コンクリート造りとなった。

(説明板より)

水戸市三の丸・大手橋 古写真(説明板より)

大手門跡

大手橋に接してここにあった二階造りの大手門は、佐竹義宣が慶長6年(1601)に建てたものであったが、徳川氏の代になっても水戸城の入口の門で、前に下乗の札、後ろに番所があった。
楼上では太鼓、または鐘を打って知らせたこともあったが、明治初年に取り壊された。

(説明板より)

茨城県指定史跡
水戸城跡(塁及び濠)
指定年月日 昭和42年11月24日

水戸城は平安時代の末期頃、常陸大掾国香の子孫馬場資幹がこの地(現水戸一高)に館を構えたことにはじまり、後に常陸大掾となって府中(現石岡市)に本拠を持ったことから、水戸地方も馬場氏のほかに吉田氏、石川氏など大掾氏の族が栄えたのである。
15世紀のはじめ(応永年間)、藤原氏の族河和田城主江戸通房が馬場氏を追放し、代わって居城した。
それまでの本城の外に宿城(のち二の丸、現在茨城大学付属小、水戸二中、水戸三高)を築くなど、城郭を拡張して約160余年間水戸地方を支配したが、太田地方を本拠地として常陸北半を領した源氏の族佐竹氏は、天正18年(1590)秀吉の小田原城攻めに功績を認められると一気に江戸氏を攻め、水戸城を占拠した。
こうして54万余石を領する佐竹義宣の本城となり、城郭も一段と拡張され城下町も太田から移された商人によって栄えた。
ところが秀吉の死後義宣は石田三成と結んで家康に抗したため、慶長7年(1602)秋田へ国替えを命ぜられ、僅か13年間で水戸を去った。
その後は家康の子信吉、頼宣が一時封ぜられたが、慶長14年(1609)に第11子頼房が藩主(25万石、第3代綱條の時から35万石)となってから代々その子孫が継いだ。
頼房は二の丸に居館を築き、三の丸を造り三重の濠と土塁を巡らして武家屋敷や町人街を整える一方、徳川御三家として幕府を助けたが、第2代光圀以来尊王の学風を興して天下の大勢を導き、明治維新の源流を開いたのである。

水戸市教育委員会

(説明板より)

水戸市三の丸二丁目・水戸第三高等学校 古写真(説明板より)

水戸城三階櫓跡

水戸城は、徳川頼房が寛永2年(1625)に大整備を行った際、この二の丸に広い殿館に付属して三階の物見を南崖近くに建てた。
はじめは素朴なものであったが、明和元年(1764)12月の火災で殿館とともに全焼し、ほどなく再建した時、屋根を瓦葺として天守閣らしく鯱を飾り三階櫓と呼んだ。
明治5年(1872)の火災では残ったが、昭和20年(1945)8月の戦災で焼失した。

(説明板より)

水戸市三の丸2−7−27・水戸第三高等学校

水戸城御殿・中門跡

この地には、四間三尺の中門があり、中に入ると水戸城御殿に通じていた。
御殿は五十間四方の平屋造りで、大廊下を間にした五列の部屋と、御座の間を中心とした部屋との六区分になっていた。

(説明板より)

水戸彰考館跡



水戸彰考館跡
(茨城県水戸市三の丸2−9−22・水戸市立第二中学校)





(平成20年10月12日)

水戸彰考館跡

水戸光圀(義公)が大日本史を編集した彰考館は、はじめ江戸の藩邸内にあったが、光圀が西山に隠居したため元禄11年(1698)この地に移された。
しかし光圀が没した後130年間は、江戸・水戸の両館に分かれて分担編集し、幕末に再びここにもどり、明治維新後は、偕楽園南隅に移って明治39年(1906)全てを完成した。

(説明板より)

祠堂跡



祠堂跡
(水戸市三の丸・水戸市立第二中学校)





(平成20年10月12日)

祠堂跡

この地は、朱舜水の祠堂があった所で、朱舜水の没後江戸駒込邸内に建てられたが、正徳2年(1712)城下の田見小路に移し、その後城内に祀られた。

(説明板より)

水戸城跡の大シイ



水戸城跡の大シイ
(水戸市三の丸2−9−22・水戸市立第二中学校)





(平成20年10月12日)

水戸市指定記念物
天然記念物 水戸城跡の大シイ 2株
指定年月日 平成10年8月5日

水戸城旧城郭の中に位置するこの大シイは、戦国時代から自生していたと伝えられ、その樹齢は約4百年と推定される。
2株のうち、1株は根回り4.1メートル、目通り3.3メートル、樹高18.6メートルで、もう一方は根回り6.8メートル、目通り4.3メートル、樹高20.0メートルである。
一般にシイノキ(椎の木)と呼ばれる植物には2種類あり、ツブラジイとスダジイに分類され、ツブラジイは、葉が薄く小型で果実は球形で小さいのに対し、スダジイは、葉が大きく、葉質が厚く、果実は長いので区別される。
ツブラジイは、主として関東南部以西、四国、九州の内陸部に分布し、スダジイは、福島県、新潟県以南の主として沿岸地域に自生しているが、この大シイは2株いずれもスダジイである。
茨城県のスダジイは、日本列島の北限に近い地域であることから、各地で天然記念物に指定されているが、一般には四方に枝を広げ、傘状になっている巨木がその対象である。
それらの指定物と比較した場合、樹高においてはこの大シイは優れているが、四方に枝を張るような樹冠にはなっていない。
しかし、樹木の活力は現在でも旺盛であり、他の地域のものと比較して幹囲、樹高ともに大きく、大木と言える。
この大シイについては、平成3年に環境庁により刊行された「日本の巨樹・巨木林」にも掲載され、わが国の森林・樹木の象徴的存在として、かけがえのない価値を有する巨樹のひとつに位置づけられている。
さらに、この大シイは、水戸城旧城郭の中に存在することから、その樹齢とともに歴史的にも意義ある樹木であり、且つ古くから水戸市立第二中学校のシンボルとして伝えられてきた重要な樹木である。

水戸市教育委員会

(説明板より)

杉山門跡



杉山門跡

(水戸市立第二中学校脇あたり)





(平成20年10月12日)

杉山門跡

二之丸から杉山通りへ出る門で、四間一尺あった。
このあたりの杉は光圀の時代、熊野杉を植えたものという。

(説明板より)

本丸跡(水戸市三の丸3−10−1・県立水戸第一高等学校)

水戸城

水戸城は、建久4年(1193)、源頼朝から地頭馬場資幹ばばすけもとがこの地を賜り、大掾に任ぜられたのに始まる。
以後、馬場大掾氏は9代約240年間、下の丸(現本校運動場)の辺りに居館を構えた。
次いで那珂道辰みちときの子孫、河和田かわだ城主江戸道房みちふさが大掾満幹みきもとの留守に水戸城を占拠。
それ以来7代、165年間、江戸氏が支配した。
当時は内城うちじょう、宿城しゅくじょうと浄光寺の三つの曲輪くるわより成っていた。
天正18年(1590)太田城の佐竹義宣が江戸氏を討伐、本拠とした。
佐竹氏の時代は、慶長7年(1602)義宣の秋田移封まで僅かに13年。
この間、内城を古実城こみじょうと称して本丸化し、宿城を二の丸(現水戸三高、水戸二中、茨大付属小)とするなど曲輪を整えた。
城の出入口も東側から西側に移し、橋詰門はしづめもんを建て、また二の丸に大手門などを造った。
17世紀初め、甲府の武田信吉のぶよしや徳川頼宣よりのぶが一時封ほうぜられたが、慶長14年(1609)、家康の11子頼房よりふさが城主となり、その後、徳川氏は江戸定府じょうふながら光圀(第2代)、斉昭(第9代)を経て昭武あきたけ(第11代)まで約260年間、35万石の水戸領を治めた。
明治4年(1871)廃城。
徳川期の本丸には兵器庫、二の丸には三階櫓さんがいろがあった。
本校の前身茨城県尋常中学校がこの地、本丸の城址に新築、移転したのは明治29年(1896)9月、後に水戸中学校となり、昭和20年(1945)空襲で全焼、同23年に現在の水戸第一高校となる。
空堀からぼりと土塁の一部と復元された橋詰門が城址の名残をとどめている。

昭和56年4月1日
茨城県立水戸第一高等学校

(説明板より)

薬医門



薬医門

(水戸市三の丸・水戸第一高等学校)





(平成20年10月12日)

茨城県指定有形文化財 建造物第66号
旧水戸城薬医門 一棟
昭和58年3月18日指定

この城門は、旧水戸城の現存するただ一つの建造物で、形式は正面の柱が三つ、出入口は中央だけの三間一戸さんげんいっこの薬医門やくいもん、二つの脇扉わきとびらがついている。
薬医門とは、扉を支えている本柱ほんばしらとその後にある柱(控柱ひかえばしら)で支えられた屋根の棟の位置を、中心からずらす形式で、側面の姿は対称形ではない。
正面から見ると、軒が深いため門はゆったりとして威厳があり、大名の城門にふさわしいので、多くつくられた。
建立の時期は、構造や技法からみて安土・桃山期と推定される。
建物の各部分に用いてある木材の大きさの割合、すなわち木割きわりは太く、屋根面の相交わる部分に用いてある木材(棟木むなぎ)は見えるようになっている化粧棟木で、棟木を支えるとともに装飾となっている板蟇股いたかえるまたは雄大、また化粧垂木たるきの端はしの反り増しの技法、柱の上にあって軒桁のきげたを支えている横木(実肘木さねひじき)やえぐって曲面にした板蟇股の部分(繰形くりがた)の形状などからみると、おそらく佐竹氏の時代(1591〜1602)に創建され、徳川氏に引き継がれたものといえよう。
城門のあった位置には諸説があるが、城門の風格からみて橋詰門、すなわち本丸の表門と考えられる。
永らく城外に移されていたが、昭和45年4月17日、水戸市指定建造物となる。
昭和56年9月、この城門にふさわしい旧本丸の入口に近いこの場所に移築、復元した。
その際部分補修をするとともに、切妻造の屋根をもとの茅葺かやぶきにかえて銅板葺とした。

茨城県教育委員会

(説明板より)




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