徳川斉昭銅像 平成16年1月12日

徳川斉昭 とくがわ・なりあき

寛永12年3月11日(1800年4月4日)~万延元年8月15日(1860年9月29日)

茨城県水戸市 千波湖でお会いしました。


父親は水戸藩7代藩主・治紀はるとしです。
号は景山、謚は烈公。
文政12年(1829年)兄の斉脩なりのぶの養子となり遺領を相続しました。
改革派の藤田東湖、戸田蓬軒らを登用し、全領地の検地、弘道館・郷校の設置、梵鐘没収と大砲鋳造、軍事調練など天保の藩政改革を行いました。
極端な排仏など政策の過激さにより、弘化元年(1844年)幕府から謹慎・隠居を命じられたが、老中の阿部正弘や宇和島藩主の伊達宗城むねなりらと書簡を交し、ペリー来航後は幕府海防参与となり、大船建造や軍制改革に参画しました。
将軍・徳川家定の継嗣問題では七男である徳川慶喜を推しましたが、大老の井伊直弼により和歌山藩主・徳川慶福(家茂)が継嗣に内定、条約調印の決定に及び、安政5年(1858年)6月24日、名古屋藩主・徳川慶勝らと不時登城して井伊を詰問しました。
翌月謹慎を命じられ、翌年安政の大獄に連座して国元永蟄居となりました。

(引用・参考:『日本史人物辞典』日本史広辞典編集委員会編 山川出版社)


徳川斉昭と七郎麿の像



「徳川斉昭公・七郎麻呂(慶喜公)銅像」

茨城県水戸市 千波湖




(平成16年1月12日)

碑文

水戸藩第9代藩主斉昭公(烈公)は、弘道館、偕楽園を建設するなど、第2代藩主光圀(義公)とともに義烈両公と称され、その事績は枚挙にいとまのない藩主として知られております。
その斉昭公の七男、七郎麻呂様(慶喜公)は、水戸の地において父斉昭公の薫陶を受け、後に徳川幕府第15代将軍として、自ら近代日本の幕を開けた近世と近代の架け橋ともなった方であります。
『徳川斉昭公・七郎麻呂(慶喜公)像』の建立は、21世紀に向けて、家族の原点、やさしさと厳しさを併せ持つ親子の絆を、水戸の歴史から全国に発信するものです。
斉昭公45歳、七郎麻呂様7歳を想定し、斉昭公が七郎麻呂様に世の正しい道を指し示し、七郎麻呂様がそれに応え、斉昭公を仰ぎ見るという、現代でも通じる親から子への愛情と厳しい指導を示す姿を表現しています。
近くにある「徳川光圀公像」は、日本の進むべき正しい道を見つめている姿であり、光圀公、斉昭公、そして慶喜公と先祖から代々引き継ぐ志の一貫性を表現するものであります。
今回の像の建立については、茨城県と共同で開催した大河ドラマ「徳川慶喜」展示館の収益を活用したものであり、この地を訪れる多くの方々が「徳川光圀公像」と共に水戸の三名君の像に接し、多くの感動、感激を得られますことを祈願するものであります。

平成11年11月1日
大河ドラマ「徳川慶喜」記念事業実行委員会
会長 水戸市長 岡田広
題字揮毫 茨城県知事 橋本昌
銅像製作 日展評議員 能島征ニ

 平成20年10月12日

茨城県水戸市三の丸・大手橋の近くでお会いしました。

徳川斉昭像


徳川斉昭公像

(水戸市三の丸・大手橋)


日本芸術院会員 小森邦夫作
茨城談書会代表 関南沖書


(平成20年10月12日)

碑文

第9代水戸藩主。
文政12年(1829)30歳まで文武の道に励んだが、兄斉脩が没すると跡を受けて藩主となり、藤田東湖らの助けを受け水戸学による藩政の大改革を行った。
それは長年の堕落を破って勤倹尚武の風を起し、天保の飢饉に際しては農民を救済し人材を育てるため藩校弘道館を創立し、西洋の侵略に備えて富国強兵に勉めるなど数々の治績があった。
また、光圀の遺志を継ぎ朝廷の復興に尽力したが度々幕府の嫌疑を受け、井伊大老の安政大獄の弾圧の下で病没した。
諡を烈公といい義公(光圀)と並び称せられている。

平成2年12月
水戸市教育委員会

徳川斉昭像



徳川斉昭公像

(水戸市三の丸・大手橋)





(平成20年10月12日)
弘道館



弘道館
(茨城県水戸市三の丸1-6)

水戸藩の藩校



(平成20年10月12日)

【徳川斉昭】

斉昭は、寛政10年(1800年)、7代藩主・治紀はるとしの三男として、江戸の小石川藩邸(東京都文京区後楽)に生まれた。
徳川光圀が没してからちょうど100年目に当たる。
長く部屋住みの身であった斉昭は、病弱の兄・斉脩なりのぶが30歳で死去したあとを受けて藩主に就任したが、その就任までに大きな波乱があった。
当時、苦しい財政を再建するには幕府との関係強化こそ重要とみて、将軍家から養子を迎えるのが得策とする門閥派と、水戸家の血統を守るべしとして斉昭を推す一派(改革派)とが対立。
藤田東湖、会沢正志斎ら40人余による懸命な擁立運動と斉脩の遺書によって、ようやく事態の終結をみたのである。

斉昭は、藩主就任直後から藩政の改革に着手し、倹約の徹底、軍制の改革と追鳥狩おいとりがりの実施、藩内総検地、藩校・弘道館の建設、偕楽園の造成、郷校ごうこうの増設、藩士の定府制じょうふせいの廃止、社寺の改革と氏子うじこ制の確立などの諸政策を次々と推進していった。
しかし、その過程で改革政治を憎む門閥派や急激な改革に反対の立場を取る反改革派との溝を深めた。
弘化元年(1844)5月、斉昭は改革の行き過ぎを幕府から咎められて藩主の辞職と謹慎を命じられ、江戸駒込の中屋敷(東京都文京区弥生)に幽居の身となる。
このため、改革派の士民は、斉昭の冤罪を主張してその罪を晴らす運動を起こした。
これが功を奏して11月には謹慎が解かれたが、藩政への関与は許されず、これが実現するのは嘉永2年(1849年)3月のことであつ。

嘉永6年6月、ペリー提督率いる「黒船」来航による対外関係の緊迫化に伴い、老中・阿部正弘は、天保期の藩政改革に多くの実績を持ち、かねてから強硬な攘夷主義の立場に立つ斉昭を幕府の海防参与に起用した。

安政4年(1857年)から、日米修好通商条約の調印問題に加え、病弱な将軍・家定の後継をめぐる争いが表面化すると、斉昭は一方の旗頭と目された。
すなわち、和歌山(紀州)藩主・徳川慶福よしとみ(のちの14代将軍家茂いえもち)を家定の後継に推すとともに、条約に調印することで、我が国外交の活路を見出そうとする彦根藩主・井伊直弼ら南紀派と、斉昭の七男、徳川(一橋)慶喜を後継とし、井伊直弼主導の幕政を一新すべしとする一橋派との、幕府・水戸藩のみならず、朝廷・諸大名・尊攘志士らをも巻き込んだ全国規模の政争において、斉昭は一橋派の重鎮とみられるようになる。
しかし、その後の事態は、南紀派の思惑通りに進み、翌安政5年、大老に就任した井伊直弼の決断で条約が調印され、将軍・家茂が実現する。
斉昭ら一橋派の大名は、押しかけ登城して直弼に強く抗議したが容れられず、斉昭は駒込の中屋敷に謹慎、他の大名も処罰された。

このため、一橋派の尊攘志士は、起死回生を狙って密かに朝廷工作を行い、まもなく功を奏して、条約調印は軽率な取り計らいであったと幕府首脳を批判する勅書ちょくしょ(天皇の意思を伝える公文書)が水戸藩と幕府に下された。
これに激怒した井伊直弼は、勅書降下を裏で画策したのは斉昭に違いないと信じ、その確証をつかもうと尊攘志士への弾圧を開始した。
これが世に言う「安政の大獄」である。
この過程で井伊直弼は斉昭にも更なる処罰を加え、水戸城に永蟄居えいちっきょ(終身刑)を命じた。

こうした一連の一橋派への弾圧に激昂した水戸浪士らが、万延元年(1860年)3月に「桜田門外の変」(井伊直弼暗殺事件)を起こし、その5か月後の8月に斉昭は急死する。
享年60歳。
死因は持病の心臓発作によるものと考えられている。

(参考:水戸市教育委員会発行 『水戸の先人たち』 平成22年3月発行)

(平成29年7月5日 追記)


徳川斉昭像 平成20年10月12日

茨城県水戸市南町2丁目・ショッピングセンターMIMO前でお会いしました。

徳川斉昭公像



徳川斉昭公像
(水戸市南町2-4-52・ショッピングセンターMIMO)





(平成20年10月12日)

碑文

徳川斉昭公(烈公)は文政12年(1829)に30歳で第9代水戸藩主となり、弘道館創設や偕楽園の造園に情熱を傾ける一方、蝦夷開拓の計画を幕府に訴えるなど斬新的な藩主であった。
ペリー来航という事件が起き、幕府は斉昭公を海防参与に抜擢したが、「安政の大獄」により水戸城に永蟄居を命ぜられたまま、城中で61歳で没した。


お家騒動

11代将軍徳川家斉は子供を53人ももうけた。(二十六男二十七女)
このうち成人して婚姻を結んだのは、後の12代将軍家慶いえよしを含めて26人だった。
だが、一口に婚姻といっても、幕府は大変難渋した。
一つは、将軍の子女である以上、なまなかな家へ送り出せないという面子めんつの問題があった。
もう一つは、名家であっても養子先に外様大名は選びにくかったことだ。
男子を押しつけると家を徳川家が奪うことになり、御家騒動の種になると懸念したのである。
そのため、20人が徳川家の親類に行った。
だが、これほどの配慮をしても、諸藩には深刻な影響を与えた。
その典型例は水戸家だった。

水戸家7代治紀はるとしには男子が3人あり、長男が家督を継いだ斉脩なりのぶ、次男が支藩の高松松平家を継いだ昶之助、三男が敬三郎といった。
そして、長男斉脩に将軍家斉の第13子美子よしこ(峰姫)が入輿じゅよした。
この婚姻は幕府のゴリ押しではなく、水戸家が江戸家老の榊原さかきばら淡路守を介して幕府に運動した結果だった。
というのは、将軍の子女を引き受ければ金銭的な特典がついたからである。
これは、藩財政の窮乏に悩む水戸家にとってありがたい条件だった。
化粧料として1万両、御手当として毎年1万両が下賜され、幕府からの借入金2万2千両も全額免除された。
おかげで経済的にかなり潤った。
しかし、文政12年に斉脩が死ぬと、事態は一変する。
跡目は弟の敬三郎のはずだったが榊原らは美子入輿の際に得た巨額の補助金に魅せられたのか、将軍家斉の子を養子に迎えようと画策したのである。
その候補者は、すでに御三卿の清水家を継いでいた家斉の第47子である清水斉彊なりかつだった。

だが、この筋の通らない養子縁組構想は、家臣間の対立と水戸家奥向き内の抗争も招いた。
斉脩の母は幕府御家人の松永氏の娘で、敬三郎の母は公家の外山とやま氏の娘だった。
となると、敬三郎が跡目を継ぐと、松永氏出の母は全くの邪魔者。
しかし、斉彊を迎えた場合は、斉脩の母は前藩主の母として厚く遇される。
こんな思惑から斉脩の母は斉彊派についた。
こうした複雑な事情もあって、水戸家には激烈な御家騒動が生じた。
後年、尊王攘夷運動の草分けとなった藤田東湖は、生涯に三度死を決したというが、その最初の事件がこの水戸家騒動だった。

結局、斉彊の相続は沙汰やみとなって騒動は決着し、敬三郎が水戸家を継いだ。
この敬三郎こそが水戸烈公こと徳川斉昭、最後の将軍慶喜の父である。

この騒動は後々まで禍根を残し、「俗論・天狗の党争」などの御家騒動も招いた。
家斉の子女をめぐる婚姻は補助金や家格のアップを餌にしたものの、かえって藩内の対立を招いた。
さらに、これらの子孫は長じて諸藩の当主になると、その権威を盾に幕府に対して強圧な態度に出るようになり、幕末の徳川政権を悩ます要因になった。

(参考:山本博文著 『旗本たちの昇進競争』 角川ソフィア文庫 平成20年再版)

(平成22年1月12日・記)


義烈館 常磐神社・義烈館
(茨城県水戸市常磐町1-3-1)

JR水戸駅北口より偕楽園行きバス、偕楽園又は常磐神社前バス停下車徒歩3分
常磐自動車道水戸I.Cより約20分
JR水戸駅北口よりタクシーで5分

開館時間:午前9時~午後4時
入館料:大人300円 小人(高校生以下)100円

(平成16年1月12日)

義烈館ぎれつかん

光圀公・斉昭公の遺品遺墨をはじめ、水戸史学・水戸学関係の資料と、両公の御功績を助けた家臣の書画・関係品を多数展示。
館の名称は両公のおくり名、義公・烈公からつけられた。
昭和32年、両公の御遺徳の景仰を目的として開館、昭和33年博物館相当施設に指定された。

(主な展示品)
大陣太鼓
斉昭公(烈公)が追鳥狩(機動演習)の際、戦陣の合図に使う為に作らせた。
直径114センチ、長さ188センチ、陣太鼓としては、日本一といわれる。
農人形(お百姓)
斉昭公(烈公)は常に農を尊び奨励された。
又農民の労苦をしのび、農人形(お百姓)をつくって朝夕感謝をこめて初の一箸をこの人形に供えてから食事をとられた。
お子様にも皆これに習わせられたという。
「朝な夕な 飯くふごと 忘れじな めぐまぬ民に まぐまるるみは」
後に水戸の伝統工芸品としてつくられ一般の家庭にもおかれるようになった。

(義烈館のリーフレットより)

徳川斉昭公

水戸藩第九代藩主。
斉昭公は光圀公の志を継ぎ、藩政改革につとめて新進気鋭の人材を任用し、国難に際しては、皇室を中心に国民が一致団結すべきを説かれた。
幕末未曾有の緊迫した国際情勢下にあっては、海防の為、那珂湊に反射炉を築造し、大砲を鋳造して幕府に献上したり、大艦「旭丸」を建造したり、国防の充実を計る為に、毎年追鳥狩と称して大演習を行なった。
北防警備のために自ら北海道開拓を願い出たこともあった。
今日の総合大学である藩校「弘道館」は、国家有為の人材養成を図る為に創立され、「弘道館記」には「忠孝無二 文武不岐 敬神宗儒」を唱えて従来の藩校とは違った大構想のもとに建てられたことが述べられている。
梅の公園で知られる「偕楽園かいらくえん」は、民たみと偕ともに楽しみ、また人としての健全育成に必要な心身の保養地として開設された。

(義烈館のリーフレットより)

溶解炉

鎔解爐ようかいろ

茨城県水戸市・義烈館脇に屋外展示

水戸九代藩主徳川斉昭(烈公)が市内神崎に大砲製造所を設け、太田村の鋳物を召して大砲を鋳造した際使用したもの。

(説明板より)


(平成16年1月12日)
太極砲



太極砲

茨城県水戸市・常磐神社





(平成16年1月12日)

水戸市指定文化財太極砲一門
昭和37年2月24日指定

第九代藩主徳川斉昭公(烈公)は欧米の侵略がやがて我が国にも迫って来るのを察して、尊皇攘夷を唱え、思想統一と武備の充実に邁進された。
その一環として、領内の梵鐘や仏像仏具を集め、天保13年(1842)から翌年にかけて、型式の違う75門の各種の大砲を鋳造された。
この太極砲は、その一つで型式は臼砲に属し、「天砲」と言った。
口径36センチ、口辺の厚さ9センチ、砲身127センチあり、斉昭公筆の「太極」の銘がある。
これにケヤキ材の径58センチ、厚さ32センチの四輪の車架がつけてある。
なお鉄製の弾丸2発がそえてあるが、これは戦艦や堡塁などを破壊する破裂弾である。
嘉永6年(1853)米艦(ペリー)渡来により東京湾の防備充実のため、この砲一門を残して他の74門は弾薬をそえて幕府に献上した。
当時すでに水戸藩には、この外に多くの大砲が備えられていたからである。
この後、斉昭公は城東の細谷に神勢館を創設し、五町矢場を築いて、大砲射撃の演習をさせ、さらに館に付属した鋳砲所を設けて、青銅砲を鋳させ、那珂湊には反射炉を築いて鉄製の大砲を鋳造させ武備の充実をはかった。

水戸市教育委員会

(説明板より)


好文亭



好文亭こうぶんてい

茨城県水戸市・偕楽園内





(平成16年1月12日)

好文亭

好文亭は水戸藩第九代藩主徳川斉昭(烈公)の別墅べっしょであるが、そこは己ひとり楽しむところではなく、衆と偕ともに楽しむところであった。
好文亭は太鼓橋でつながる付属の奥殿から成り、三階を「楽寿楼」と呼ぶ。
亭は柿こけら葺き奥殿は茅葺で、その造形は、調和のとれた素朴清雅な格調高い数寄屋である。

(『好文亭』のチラシより)

東広縁


東広縁

この塗縁の間は、烈公が80歳以上の家臣、90歳以上の庶民の老人を時々招き慰安したり、家臣と共に作歌作詩などして楽しんだところです。



(説明板より)
お膳運搬装置


お膳運搬装置

お膳を運ぶのに階段を上下しなくてもすむように、この装置が利用されていました。
今日のエレベーターの先駆ともいうべきもので、烈公の創意によるものと伝えられています。


(説明板より)
待合
待合

この待合は茶席に招かれた客が席の準備ができるまで控え待っていたところです。
室内は、茶説、茶対、巧詐不如拙誠の3つの刻版が掲げてあって、これはいづれも烈公の茶技に対する教訓のことばが彫ってあります。
「巧詐不如拙誠」とは、たくみにいつわるよりは拙くとも誠であることがよい、という茶道における戒めです。
なおこの腰掛待合というのは、全国的にも極めて珍しいものです。

(説明板より)

手植えの梅




烈公手植えの梅
(茨城県日立市諏訪町・諏訪梅林)

「諏訪梅林」は徳川斉昭(烈公)が天保初年に造園させたことにはじまるといわれています。





(平成18年7月27日)

【徳川斉昭の藩政改革】

藩主に就任した斉昭がまず行なったことは「三雑穀さんざっこく切り返しの法」という農民に不利な年貢をやめることであった。
そして、精炭せいたん、梅の接木つぎき、茶や山椒さんしょうの栽培、養蜂ようほうなどを奨励した。
また、「常平倉じょうへいそう」(災害対策用の備蓄倉庫)を積極的に設ける。
おかげで天保7年(1836年)の大飢饉の際にも、水戸藩はほとんど餓死者を出さなかった。
また、これらに併行して長らく水戸藩の懸案事項だった「武備の充実」にも力を入れる。
太平洋に面して長い海岸線を持つ水戸藩ででは、文化文政年間から、たびたび異国船が目撃されるようになっていた。
西洋列強の脅威を前に、聖なる天皇の住まうこの神州しんしゅう日本を外敵の手から護るために「攘夷」を実践しなければならないと唱えた。
斉昭は洋書にも目を通しており、現状では西洋列強軍事力に日本がとうてい抗し得ないことを理解していた。
とはいえ、西洋列強の武力に屈して唯々諾々いいだくだくと「開国」してしまえば、それは隷従れいじゅうの道を歩むことになると、斉昭は危惧していた。
そこで外敵に備えるため、早くも天保7年に藩内に鋳砲場ちゅうほうじょうを設け、青銅製の大砲の鋳造を行なった。
ペリーが来航した際には、それらの74門が江戸湾防備のために幕府に献上された。
一方で、いくら武器が優れていても、それを用いる武士に「国を護る」覚悟と気概がなければ意味がない。
藩主に就任した直後、軍事教練を行なうと、満足な武具を持っていたのは、わずか数人しかいなかったという。
そこで、追鳥狩おいとりがりと銘打った大規模な軍事教練をたびたび行ない、士風の引き締めを行なった。

(参考:『歴史街道 2010年11月号』)

(平成22年11月7日追記)


斉昭と「天保の改革」

斉昭は、今から200年ほど前の寛政12年(1800年)に生まれました。
11代将軍家斉いえなりから「斉」の字を与えられています。
文政12年(1829年)に藩主になると、藤田東湖や会沢正志斎あいざわせいしさいなどの学者をはじめ、多くの藩士を今までの身分にとらわれず重要な役につけて、大きな改革を始めました。
10数年後に始まる幕府の「天保の改革」にもヒントを与えたといわれています。
改革は、いろいろな分野にわたりましたが、その一つが藩士の教育のために「弘道館こうどうかん」という学校をつくったことです。
ここでは、『大日本史』編さんのなかから生まれた「水戸学」という学問などが教えられました。
「水戸学」は尊王攘夷そんのうじょうい(天皇を尊重し外国勢力をしりぞけるという考え)を中心とする学問で、影響をうけた人々によって、のちに幕府が倒されることになります。
なお、ほぼ同時に「偕楽園かいらくえん」も斉昭によってつくられました。
こちらは藩士の休養のための施設です。

(茨城県立歴史館「常設展解説シート」より)
(平成18年8月23日追記)






山上門
(茨城県ひたちなか市・あづまが丘公園)




(平成22年8月15日)

山上門

ひたちなか市指定建造物
平成4年6月25日指定
ひたちなか市栄町1丁目10番

この門は、水戸藩江戸小石川邸(現在の東京都文京区小石川町)正門右側の門で、江戸時代後期に勅使奉迎のために特に設けられた門である。
小石川邸の建物はこの門のほかは全て失われており、今日残存する邸唯一の建築物である。
名前の由来は、後に小石川邸内の山上に移築されたことによるという。
幕末動乱期には佐久間象山(兵学者)、横井小楠(政治家)、西郷隆盛(政治家)、江川英龍(兵学者)、橋本左内(思想家)ら幕末・維新史上重要な役割を担った諸藩の志士たちもこの門をくぐり、小石川邸に出入りしたといわれる。
形態的には薬医門である。
薬医門は本柱と控柱を結ぶ梁の中間に束をおき切妻屋根をのせた門で、江戸時代後期の典型的な屋敷門である。
昭和11年に那珂湊出身の深作貞治氏が、当時の陸軍省から払い下げを受け、那珂湊の当地に移築し保存したもので、昭和32年に那珂湊市へ寄贈されている。

ひたちなか市教育委員会

(説明板より)





山上門建設之由来碑
(茨城県ひたちなか市・あづまが丘公園)




(平成22年8月15日)

【碑文】

遺芳

山上門建設之由来

斯門ハ舊水戸藩小石川邸ノ正門右側ニ在リ曾テ勅使奉迎ノ爲ニ特ニ設ケラレタルモノナリト謂フ
藤田東湖先生ノ回天詩史ハ先生カ此處ニ近ク住居セル事ヲ明叙セリ
佐久間象山 横井小楠 西郷南洲 江川太郎左衛門 橋本左内等ノ天下多數ノ志士當時窃ニ斯門ヲ出入ス
此意味ニ於テ維新回天ノ偉業ニ聯關スル同邸趾唯一ノ残存建物ナリ 
後之ヲ同邸ノ山上ニ移ス
仍テ山上門ト稱ス
不肖夙に此堙滅ヲ慨シ昭和十一年九月二十二日陸軍省ヨリ拂下ヲ受ケ原形ノ儘當所ニ移轉シ反射鑪ト共ニ茲ニ永久ニ保存スルモノナリ
昭和十二年六月吉日    深作貞治





那珂湊反射炉
(茨城県ひたちなか市・あづまが丘公園)




(平成22年8月15日)

茨城県指定史跡
那珂湊反射炉跡

幕末、那珂湊沖にも異国船が出没するようになり、水戸藩第9代藩主徳川斉昭が、海防の要を唱えて領内各地に砲台を築くため、大砲鋳造を目的として当吾妻台に建設したのが反射炉(大型の金属溶解炉)である。
建設にあたっては、薩摩藩士竹下矩方、三春藩士熊田宗弘、南部藩士大島高任らの協力を得て、那珂湊の大工飛田与七や瓦職人福井仙吉が尽力した。
安政2年(1855年)に1号炉(西炉)、同4年に2号炉(東炉)が完成した。
高さ約15m、使用された耐火煉瓦は約4万枚といわれている。
元治元年(1864年)の元治甲子の乱で破壊され、昭和12年に現在の模型が、ほぼ原型どおりに復元された。

指定日 平成16年11月25日
設置者 ひたちなか市教育委員会

(説明板より)





反射炉遺跡碑
(茨城県ひたちなか市・あづまが丘公園)




(平成22年8月15日)

【碑文】

反射鑪遺趾碑

反射鑪遺趾碑     侯爵徳川圀順題額
水戸烈公嘗築反射鑪于那珂湊吾妻臺以鑄造大砲此地則為其遺趾盖反射鑪者所以熾烈火力鎔鐡製砲也而當時事属創始構造極難公特留意召聘南部人大島高任等擔任工事且命諸臣十董督経理以安政甲寅起業二年乙卯第一基先成又同時設鑚錘場于柳澤用水力鑚開砲心至四年丁巳第二基亦成於是全部竣工實為當時一大事業也抑烈公夙鋭意防海先是天保年間鑄造大砲業已甚多而擧世恬熙人戒異之幕府亦猜阻至有弘化甲辰之禍其後十年至嘉永癸丑有浦賀之警防海之議驟起公乃獻其嘗所造大砲七十四門於幕府人初服其先見然我沿海防備更須大砲者多且急也而當時銅價騰貴砲材不給於是更有以銕製砲之議然鎔鐡之法非反射火力則不能完之此公所以築此鑪益大鑄造也爾後十數年國事多難造砲之事盛衰變遷亦不一延及明治維新世局一變廢藩置県反射鑪之用亦止竟歸廢壊云湊町人飛田君與七以其先人曾以梓匠預反射鑪之事私歎其鑪既廢而人不復知其遺趾後卒堙滅也頃者與同志謀欲醵金建碑以記念焉町長安藤君俊章嘉其擧需余文因記梗概繋以辭曰

 維昔烈公 精誠憂國 擧世倫安 公夙嚴飭 尊王攘夷 顕章先徳
 奮武修文 振張鵬翼 經營施設 固匪一端 鑄造巨■ 亦為偉觀
 反射洪鑪 白熱震眩 以鎔以鑄 堅緻優便 倏忽風霜 世事變易
 荒草寒烟 忍没舊跡 以余揆古 難易何儔 興國隆運 須知攸由
 彰往考来 遺範久悠 建碑記念 庶傳千秋

大正五年十二月      水戸 名越時孝撰 栗橋保孝書





レンガ焼成窯
(茨城県ひたちなか市・あづまが丘公園)




(平成22年8月15日)

レンガ焼成窯(復元模型)

反射炉建設には、高熱に耐えるレンガの製造が必要で、この窯は、ここの反射炉に使用した白色耐火レンガを焼成するために築かれた窯の復元模型です。
レンガを製造するには幾多の困難がありましたが、当時は水戸藩領であった栃木県馬頭町小砂の陶土や、水戸笠原の粘土、久慈郡のヒウチ石の原料を用い、名人といわれた瓦職人「福井仙吉」の製陶技術と、建設関係者の苦心の末製造することができました。
製造されたレンガは約4万枚といわれており、約1200度~1600度の高熱にも耐えられ、現代の耐火レンガに近いものです。

ひたちなか市教育委員会

(説明板より)





あづまが丘公園

(茨城県ひたちなか市栄町1-10)




(平成22年8月15日)






観濤所
(茨城県ひたちなか市磯崎町3602)




(平成22年8月15日)

観濤所かんとうじょ

市文化財指定 昭和46年9月21日 名勝・工芸品
所在地 ひたちなか市磯崎町3602

江戸時代の天保4年(1833)頃、第9代水戸藩主徳川斉昭(烈公)がこの地を訪れ、聞きしにまさる雄大な景観に感動し、水戸藩内随一の波浪の見どころとして「観濤所」と命名し、水戸八景の番外景勝地として碑を建てさせたといわれています。
碑は、江戸時代から磯崎石として広く知られた海岸の自然石を用い、碑面には斉昭公自筆の隷書が刻まれています。
昭和10年に、この碑を風化から保護するために、当時の平磯町で大谷石の碑覆堂ひふくどうを造りました。
当地を訪れた多くの文学者達もこの観濤所を高く評価し、明治時代の文豪大町桂月おおまちけいげつの紀行文「水戸の山水」や、菊池幽芳きくちゆうほうの小説「乳姉妹ちきょうだい」などの作品にも描写されています。

(説明板より)





観濤所から見た景色





(平成22年8月15日)

烈公御涼所の碑


「烈公御涼所」碑
(茨城県水戸市・水戸八幡宮)

徳川斉昭公がお涼みになった場所




(平成20年6月30日)
烈公御涼所跡



烈公御涼所

(茨城県水戸市・水戸八幡宮)





(平成20年6月30日)

【水戸八景

水戸八景とは、水戸徳川家第9代藩主斉昭公が、天保4年(1833年)に領内を巡視し8つの景勝地を選定したものである。
斉昭が、藩主を継いだ頃の世情は、決して無事安穏ではなかった。
英明で覇気に富んでいた公であっても、心をわずらわすことが多かったであろうから、八景の風景は公の憂いを散らすに役だったに相違ない。
しかし、八景設定の大きな目的は、藩内の子弟に八景巡りをすすめて、自然鑑賞と健脚鍛錬とを図ることにあったのである。
当時の流行語を用いれば、正に「文武両道の修練」に資せられたもので、公の深慮の程には全く、感嘆してしまう。

(説明板より)

「村松晴嵐」の碑

「村松晴嵐」の碑

(茨城県那珂郡東海村・村松山虚空堂)



(平成22年3月29日)

水戸八景 村松晴嵐

水戸八景とは水戸藩内の八つの景勝地で、「仙湖暮雪」「青柳夜雨」(水戸市)、「山寺晩鐘」「太田落雁」(常陸太田市)、「岩船夕照」(大洗町)、「広浦秋月」(茨城町)、「村松晴嵐」(東海村)、「水門帰帆」(那珂湊市)のことである。
天保4年(1833)水戸9代藩主徳川斉昭(烈公)が中国の瀟相しょうじょう八景になぞらい、藩内の子弟に自然鑑賞と健脚鍛錬とを図るため、設定されたものである。
烈公は、この村松の地を

 真砂地に雪の波かと見るまでに
           塩霧はれて吹く嵐かな

と詠み、「村松晴嵐」と命名された。
この碑石の題字は烈公自らの書であり、天保5年(1834)に建てたものである。

東海村
東海村観光協会

(説明板より)

村松山虚空堂・山門

村松山虚空堂・山門
(茨城県那珂郡東海村村松8)



(平成22年3月29日)

村松皇大神宮こうだいじんぐうと虚空蔵尊こくぞうそん

村松皇大神宮、平安時代の初め桓武天皇の時代に、伊勢神宮の御分霊を奉斎したと伝えられている。
水戸藩主徳川光圀、斉昭の崇敬厚く、本殿、社殿などを寄進され、ことに光圀は、佐々介三郎(助さん)に命じて神鏡を奉納している。
村松虚空蔵尊、宗派ー真言宗
平安時代の開山といわれ、伊勢の朝熊山あさまやま、会津の柳津やないずと並んで日本三大虚空蔵の一つで、弘法大師の作といわれる虚空蔵菩薩ぼさつを本尊にまつる。
菩薩は福徳智能を授け、厄除け、開運の守本尊として、徳川家康、徳川光圀などの尊信が厚かった。
今も「十三詣り」といって13才の子女が参拝すると知恵が授けられるといわれ、近郷からの参詣者が多い。

東海村

(説明板より)


藩政への復帰運動

水戸9代藩主徳川斉昭は天保15年(1844)に、仏教弾圧事件などの罪に問われ、幕府より隠居・謹慎を命じられていた。
この時に、斉昭の藩政への復帰運動に力を合わせたのが、寺社奉行から若くして老中となった阿部正弘と、将軍徳川家慶の覚えがめでたく、大奥で一番の権力者となっていた上﨟御年寄じょうろうおとしよりの姉小路あねのこうじの二人だった。
阿部正弘と斉昭は、幕府や各藩の財政逼迫の打開策や、攘夷問題について書簡で意見を交わす仲。
姉小路はもともと将軍家慶の正室である楽宮喬子さざのみやたかこに従って大奥に入ったが、斉昭の正室は喬子の妹である登美宮吉子とみのみやよしこで、吉子に従って姉小路の妹も水戸家に入っていた。
そこで、斉昭は姉小路に直接手紙を出す一方、藩政復帰のための大奥工作に巨額の金を投入した。
その総額は3年間で1万両にも及んだという。
こうした活動が実って、遂に嘉永2年(1849)3月、阿部正弘が家慶に願い出て、それを姉小路ら大奥の女性たちが後押しするという形で、斉昭の藩政関与が認められた。

(参考:『歴史街道 2008年7月号』)

(平成23年10月21日追記)


【北方問題に関心】

プチャーチンの第1回日本訪問後、1854年(安政元年)はじめ、徳川幕府は、北蝦夷(樺太)に、堀利凞、村垣範正らを視察に派遣した。
その視察の結果、同年夏には箱館地区、翌年2月には、全蝦夷地域が松前藩から取り上げられ、幕府の直轄地となった。
仙台、会津、南部、津軽の各藩が、北方地域の防備の責任を命じられた。
樺太奥地には探検隊が送られた。
堀、村垣らは「蝦夷本土手近なところから開拓警備し、徐々に北方へ進出したい」という意見を述べた。

当時、北方問題に関心を抱いていたのは、水戸藩の徳川斉昭であった。
早くから蝦夷地開拓の意見を述べ、「北方を開けば数百万石の土地になるから、これを水戸三十五万石の添地として開拓したい」と言っている。
彼は、北方問題についての積極派、強硬派の代表者で、つぎのような歌を詠んでいる。

     箱館の関のふせもり心せよ
        波のみよする世にしあらねば

斉昭は、堀、村垣らの意見に対して、直ちに日露の境界線に警備兵を置けと主張した。
しかし、幕府は、奉行らの意見に従って、まず蝦夷全体を直轄にし、徐々に開拓と国防の充実を図ることになったのである。

(参考:中村新太郎 著 『日本人とロシア人』 1978年5月第1刷発行 大月書店)

(平成31年2月10日 追記)


 (関連商品のご紹介)

水戸藩



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