平成19年11月6日
文政元年8月1日(1818年9月1日)〜明治25年(1892年)12月20日
愛媛県宇和島市・伊達博物館でお会いしました。
父は旗本・山口直勝。
号は南洲、諡して藍山公。
文政12年(1829年)7代藩主宗紀の養子となり、弘化元年(1844年)家督を相続。
徳川斉昭・徳川慶勝・松平春嶽(慶永)・島津斉彬・黒田長溥ながひろ・阿部正弘らと親交を持ち、政治・国際情報や意見を交換する。
また高野長英をかくまって蘭書翻訳を行わせ、村田蔵六(大村益次郎)を招いて蘭学を講じさせ、台場築造・軍艦建造を行った。
幕府内情を把握する情報通で、一橋慶喜を将軍に推したが、安政の大獄で隠居を命じられた。
文久期以降、公武合体を唱え、上京して朝議参与・四侯会議の一員として国事を周旋。
慶応3年(1867年)王政復古で議定に就任。
以後、外国事務総督・民部卿兼大蔵卿などを歴任する。
明治25年(1892年)東京の今戸屋敷で病没。
享年75歳。
伊達宗城候像 (愛媛県宇和島市・伊達博物館) 1991年 彫刻 真海徳太朗 日本銅像美術工芸社 株式会社山下石材 (平成19年11月6日) |
伊達宗城候畧歴
伊達宗城候は、幕臣山口相模守直勝(第5代村候の孫)の次男として文政元年(1818)8月江戸に生まれ、同12年(1829)3月伊達宗紀(第7代)の養子となり、弘化元年(1844)7月宗紀退隠の後を享けて宇和島藩第8代の藩主となりました。
嘉永元年高野長英を、同6年村田亮庵(後蔵六と改め更に大村益次郎と称す)を聘して、蘭学の教授、翻訳、砲台の築造、軍艦の建造等又洋式の砲術、戦術の研究をなさしめ、進取の藩主としてその英明を称揚せられ、松平春嶽 山内容堂 島津久光等大藩の諸侯に伍して天下の四賢候と称せられました。
明治維新に際しては、枢機に参画して活躍し、明治元年(1868)5月参議に任ぜられ、明治2年民部卿兼大蔵卿、同3年には大蔵卿専任として國家財政の衝にあたり、明治4年(1871)條約締結の為欽差全権大臣として外務卿柳原前光を帯同清國に赴き大任を果たされました。
明治14年勲二等、明治22年勲一等、同23年には旭日大綬章を、翌24年勲功により嗣子宗徳(第9代)に侯爵を授けられ、明治25年(1892)特旨を以て従一位に叙せられて人臣最高の栄誉に浴し同月20日齢75東京今戸の自邸に薨ぜられました。
お墓は市内龍華山等覚寺にあります。
金剛山住職 飯田泰龍謹書
(銅像説明銘版より)
宇和島市立伊達博物館 (愛媛県宇和島市御殿町9−14) (平成19年11月6日) |
「伊達は十万石、鶴島城址・・・・・」と宇和島小唄にもうたわれているように宇和島は伊達十万石の城下町として発展し、早くから文化の開けた所です。
元和元年(1615年)宇和郡板島(現在の宇和島)に、初代秀宗が入国して以来、歴代藩主の善政によって殖産興業、文化の興隆めざましく、香り高い幾多の文化遺産を保有しています。
特に8代藩主伊達宗城は賢候のきこえ高く、内政の充実はもちろん、幕末政局多端に際しては、松平慶永・山内豊信・島津斉彬らとともに大いに活躍したところから、中央との交流もしげく、他に見ることのできない貴重な文化財が残されています。
昭和47年に市制50周年を迎えた宇和島市は、それを記念して、これらの文化財を公開し、先人の業績をしのび、文化愛護の精神をやしなうと共に、これを伝承し、さらにより高い文化の創造をねがってこの博物館を建設しました。
入館時間:午前9時〜午後4時30分
休館日:月曜日及び12月29日から翌年1月3日まで
月曜日が国民の祝日にあたる場合は火曜日
入館料:大人500円
(仙台藩祖) | 伊達政宗 |
初代 (宇和島藩祖) |
秀宗ひでむね |
2代 | 宗利むねとし |
3代 | 宗贇むねよし |
4代 | 村年むらとし |
5代 | 村候むらとき |
6代 | 村壽むらなが |
7代 | 宗紀むねただ |
8代 | 宗城むねなり |
9代 | 宗徳むねえ |
10代 | 宗陳むねのぶ |
11代 | 宗彰むねあき |
12代 (当主) |
宗禮むねのり |
(リーフレットより)
伊達宗城 |
3000石の旗本、山口直勝の第二子として文政元年(1818年)江戸で生まれ、文政12年、宇和島藩主伊達宗紀むねただの養子になった。
この縁組は5代藩主伊達村候の子が山口氏に養子に行ったので、宗紀と直勝とは従兄弟にあたるという関係になる。
弘化元年(1844年)に宗紀が隠居したあとを継いで8代藩主となった。
宗城は世界の体勢を察して海外の情勢を学ぶことに努め、洋学の研究を奨励した。
嘉永元年(1848年)、密かに高野長英を招いて蘭書の翻訳や教授をさせ、また砲台建造について指導させた。
長英の去ったのちは、嘉永6年に村田亮庵(のちの大村益次郎)を招いて蘭書の翻訳、蘭学の教授のかたわら、軍艦建造のことを研究させた。
また市井の一職人である、のちの前原巧山を登用して、蒸気船の建造を研究させ、安政6年(1859年)に成功した。
安政年間、将軍後継ぎの問題が起きると、島津斉彬・松平春嶽・山内容堂らと協力して一橋慶喜を推したが成功せず、安政5年(1858年)に井伊大老の内命で引退させられ、後を宗徳むねえに譲った。
その後、幕末の政局が重大になると、朝廷の招きにより、京都に上り、松平春嶽、山内容堂、島津久光と共に、四侯の一人として活躍した。
この間、慶応2年6月には英公使パークスが英東洋艦隊と共に、同年12月には英書記官サトウが英艦に乗って宇和島の地を訪れ、宗城を訪問するなど、宗城の存在は当時の政局に重きをなした。
サトウの回顧録『一外交官の見た明治維新』の中で「四国の小領地にはもったいない程有能な」とか「大名階級の中でも一番の知恵者」と讃えている。
王政復古後は、議定・外国事務総督・外国知官事等を歴任して、多事多難であった維新の外交を担任。
明治2年(1869年)9月には民部卿兼大蔵卿。
翌3年に7月には大蔵卿専任となり、国内政治確立に貢献。
明治4年5月には欽差全権大使として清国に赴き条約締結の大任を果たした。
明治25年12月、東京の邸で亡くなった。
年75歳。
(参考:宇和島文化協会発行 『宇和島の自然と文化(6訂版)』 平成11年)
(平成22年11月26日追記)
【藩主となる】
宇和島藩主伊達家7代の宗紀には、34、5歳になっても嗣子がいない。
そこで薩摩の島津家から、あるいは時の将軍家斉の子を貰われてはどうか、などという話が起きていた。
伊達家はずっと実子相続か、そうでないときは仙台の伊達家からの養子であって、他の系統から養子が入ったことはない。
そこで急いで一族の中から誰か候補者をということになった。
その目的にかなったのが、3000石の旗本、山口相模守直勝の二男・亀三郎である。
このような事情で、亀三郎は文政11年(1828年)、11歳の時に、ひとまず伊達一門の弾正寿光の養子となって、江戸麻布竜土たつどの藩邸に移り、知次郎と改名した。
翌年改めて伊達宗紀の養子として幕府に届を出し、その認可を得て、伊達家の後継ぎたることが確定し、実名を宗城と名乗ることになった。
宗城の補導役には松根図書ずしょが任命された。
弘化元年(1844年)宗紀は53歳をもって退隠し、宗城は27歳で第8代藩主の地位についた。
幕末維新期の日本に長く駐在したイギリスの外交官アーネスト・サトウは「四国の小領地にはもったいない程有能な」「大名階級の中でも一番の知恵者」と宗城を誉めたたえた。
また、「顔立ちのきつい、顔の大きな、丈の高い人物」であったとも記している。
言葉は早口に近い能弁家であったという。
【殖産興業】
宗城は軍制改革、強兵策に重点を置いたが、同時にその経済的裏付けとなる殖産興業にも大いに力を注いだ。
安政2年(1855年)、中島田宮に物産学研究を命じ、翌年には物産方役所を開設して物産開発、製造、販売を行なわせて領内開発の機関とした。
福岡から技師を招いて石炭の開発にも着想し、蒸気船時代への関心を示し、銅山の開発も行なった。
ギヤマン(ガラス)、樟脳、陶器、藍玉の製法なども研究させ、とくに櫨蝋の専売制は成功を収めた。
【将軍後継ぎ問題】
嘉永6年(1853年)6月、ペリーの率いる4隻のアメリカ軍艦が浦賀を訪れた。
それ以来、徳川300年天下太平の夢は破れて、日本は東洋進出を計る欧米列強と交渉を持たないわけにはいかなかった。
ところが時の13代将軍・家定は、生まれつきの廃人同様の心身であり、また子供をもうけることができない体質であった。
とみに重大になった時局の中で、無能な将軍をいただいているのは誠に心もとない。
将軍家の養子は、御三家・御三卿の中から迎えられるというしきたりであったが、その養子候補の中に、しかるべき人物があった場合、早急にその人を将軍の後継ぎとし、その人物を中心に幕政の根本的改革を計るという考え方が出てきた。
御三家・御三卿の中では、紀州家の当主・慶福よしとみは将軍家定の従弟で、血統は近いが、嘉永6年に歳わずか6歳で、無能の将軍を補佐するわけにはいかない。
これに対して、水戸の徳川斉昭の実子で、一橋家に養子に行った慶喜よしのぶは、血統では遠いが当時すでに17歳に達し、しかも賢明の評判が高かった。
この一橋慶喜を将軍家の後継ぎに推す一派が老中・阿部正弘、越前藩主・松平慶永、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬、土佐藩主・山内容堂らであり、いずれも開明的で当時の名君と称された人々。
一方、これに対して、紀州家の慶福を血統が近い理由だけで推し、旧来の幕政を固守しようとした人々が、徳川家の大奥の女性達と譜代大名で、彦根藩主・井伊直弼がその代表だった。
一橋派の阿部老中は途中で病没。
その後は、これら前記の4人の藩主によって、慶喜推薦の運動が続けられる。
この継嗣問題はアメリカとの条約勅許問題とも絡んで複雑となり、松平慶永の命を受けた橋本佐内、島津斉彬の命を受けた西郷隆盛、井伊直弼の命を受けた長野主膳などが登場する。
宗城は主として直弼に対する説得工作を担当し、しばしば直弼に面談し、慶福の不可と慶喜の適任を力説したが、直弼の大老就任後、強引に慶福が後継ぎに決定、続いて一橋派に対する弾圧(安政の大獄)が行なわれた。
宗城に対する井伊直弼の弾圧の手もゆるまなかった。
父・春山(宗紀)を自邸に招き、種々の理由にかこつけて宗城の引退をすすめた。
宗城としては身に覚えのない事ではあるが、「毒蛇に見込まれたの例えの通り致し方なく」41歳の若さで藩主の地位を退く。
なお、宗城の側近としてこの問題に活動した吉見長左衛門(のちの伊能友鴎)は、間もなく幕吏に逮捕され、入獄、翌6年に重追放の処分を受けた。
【幕末の政局】
文久2年(1862年)11月10日の夜、京都朝廷から宗城の上京を促す沙汰書の写しが大早飛脚便で宇和島の宗城のもとに届く。
「先年来、忠誠の趣は叡聞に達している。上京して正論を聞かしてもらいたし」
この時、宗城は満45歳。
宗城第一次の上京を迎えた京都の情勢は、一部の公卿と結んだ過激な尊王攘夷の浪士達の暗殺とテロ行為が横行する、まことに物騒な状態であった。
また、朝廷においても一部過激派の公卿の暴論が横行し、世界の大局から見た宗城らの意見は用いられないので、同志の諸侯たちは次々と帰国し、宗城もひとまず宇和島へ帰る。
宗城等の退京後の京都においては、攘夷派浪士およびその背後勢力である長州藩に対して、反感を持つ薩摩藩が会津藩と手を結んで、長州およびこれとつながる公卿達の排斥運動に成功する。(8月18日の政変)
この政変後の時局収拾のため、島津久光、山内容堂、松平慶永および伊達宗城に再び上京が命じられた。
文久3年10月〜11月、これら四侯および一橋慶喜が上京し、慶永の提案によってこの5名に松平容保(会津藩主・京都守護職)が加わった二条城会議および、久光の提案によって朝廷において国事を議する朝議参与の制度が設けられた。
しかし、幕府の老中など要職にある人々は、依然として旧制を墨守して幕府の回復を計る。
このため、慶喜および幕府側と四侯の意見はしばしば対立し、激論が闘われ、二つの会議の円滑な運営は困難となり、まず容堂が会議に見切りをつけて翌年2月に帰国。
のち、4月には宗城、久光、慶永らもそれぞれ参与を辞して帰国した。
【西郷隆盛の来宇】
幕末の風雲急を告げる時、この新し局面を打開せんとして、薩摩藩の西郷隆盛らは、尊王諸藩中の有力四侯の会議を京都で開き、その力で徳川の権力を弱めようと計画した。
そこで、大久保一蔵(利通)は京都に留まって策を練り、小松帯刀たてわきは越前福井に松平春嶽を訪ねて、その上京を勧誘。
西郷隆盛は土佐・宇和島を訪ねて、山内容堂・伊達宗城の協力を求める手はずがまとまった。
慶応3年(1867年)正月24日、隆盛は宗城に会って上京を勧め、宗城もその趣旨を了解した。
この結果、同年5月の京都における四侯会談の実現となったのである。
【戊辰戦争】
慶応3年(1867年)10月14日、将軍・慶喜は大政奉還を上奏。
12月9日、王政復古の大号令が朝廷から出される。
同日夜の小御所こごしょ会議で、山内容堂らの公議政体派(前将軍慶喜を含めた諸侯の会議で政治の行き方を決めようとする派)は、岩倉・大久保の主張する、もっと徳川氏の責任を追及しようとする強硬派に敗れる。
前将軍・慶喜には更に辞官(内大臣の職を辞す)、納地(領地のうち200万石を朝廷に返上)の命令が下された。
この追い討ち的な命令に憤激する会津・桑名二藩を中心とした旧幕府側と、武力倒幕も辞さないとする薩摩・長州側が対立。
宗城が京都に到着した12月23日頃は、このように戦争の危機をはらんでいた。
28日、議定ぎじょう職を拝命した宗城は、山内容堂、松平春嶽ら同志の議定と協力して、双方の激突を回避して平和的な解決を計るため、非常な努力を払ったが、事態は日ごとに悪化し、翌慶応4年1月3日、「討薩の表」を掲げて入京する旧幕府軍と、薩長軍との間に戦争が始まった。(鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争)
そのころの宗城にとって心を悩ますことが二つあった。
ひとつは分家である吉田藩主・伊達宗孝むねみちが、諸藩が相次いで上京するなかで、一向に江戸を動かず、佐幕派と見られていたことである。(宗城のとりなしと宗孝の隠居で事が収まる)
もうひとつは、仙台伊達家の問題。
仙台藩は会津藩支援のために結成された奥羽列藩同盟の旗頭となって官軍に向かった。
宗城は同族として責任を感じ、辞職願を出したが、これは取り上げられなかった。(9月15日仙台藩降伏)
【維新政府】
宗城は慶応4年1月12日に外国係を、1月16日に外国事務総督を、閏4月に外国官知事に任ぜられた。
初期官制の目まぐるしい改正と共にその職名は変わっているが、いずれも外交の責任者で、これは翌明治2年5月まで続く。
新政府にとって対外折衝の段階として、是非ともささねばならぬことは、天皇の各国代表に対する謁見である。
このことによって、京都朝廷政府が、各国代表から正式に政権として認められるのである。
慶応4年2月、宗城は当時大坂にいた諸外国代表を歴訪し、イギリス、オランダ、フランスの3ヶ国代表から、京都朝廷公式訪問の承諾を得ることに成功した。
ところが、正式に決定した15日、堺において土佐藩兵がフランス軍艦の乗員11名を殺害する事件が突発した。
次いで30日には、京都で参内中のイギリス公使パークスを2人の攘夷論者が襲撃するという事件が起きる。(パークスは無事)
宗城は誠心誠意、両事件の陳謝と解決に当たり、その誠意はパークスを動かし、かえってパークスの方から同情して、その解決策について良い知恵を与えるという結果になった。
また、フランス公使のロッシュは、従来幕府びいきであったが、新政府の事件解決が公正で手早いのを見て、改めて新政府の政治力に対する認識を新たにしたという。
宗城は明治2年9月、民部卿兼大蔵卿に任命され、今度は国内体制の整備に尽力する。
明治3年7月には民部・大蔵両省の分離に伴い大蔵卿専任となる。
この間、鉄道建設の資金をイギリスから借り入れる交渉に当たったりした。
明治4年9月、全権大臣として清国と条約締結の任を終え第一線を退いたが、その後も、外国貴族の来朝に際しては、必ずといってよいくらい接伴係を命ぜられた。
(参考:宇和島文化協会発行 『宇和島の自然と文化(6訂版)』 平成11年)
(平成22年11月30日追記)
冠かんむりの柳 (愛媛県宇和島市・伊達博物館前) (平成19年11月6日) |
伊達宗城 冠の柳
文久3年(1863)3月11日孝明天皇は、攘夷祈願のため加茂神社に行幸せられた。
当時、朝廷の招きにより京都に上っていた宇和島藩前藩主伊達宗城は、在京中の諸侯の一人として供奉ぐぶし、前駆ぜんくの役を勤めた。
神社で食事のとき宮中から賜わった肴さかなの折敷おしきに、柳の小枝がそえてあったのを、諸侯たちは冠に挿して供奉の役を終えた。
宗城は、この柳の小枝を持ち帰り、鉢植にした。
それが根づいたので、これは皇威回復のきざしであると大いに喜び、伊達家の庭園に植えて大切にしていた。
その後、親木が枯れたので、その幼木を育てたのがこの柳である。
この場所は、以前は伊達家の邸内であった。
昭和52年
宇和島市教育委員会
(説明板より)
従四位勲一等伊達宗城公之墓 (東京都台東区谷中・谷中霊園) (平成19年12月28日) |
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