大村益次郎像 平成18年4月22日再訪問

大村益次郎 おおむら・ますじろう

文政7年5月3日(1824年5月30日)〜明治2年11月5日(1869年12月7日)

※生年月日については文政7年3月10日(1824年4月9日)の説、文政8年5月3日(1825年5月30日)の説などもある。

東京都千代田区九段 靖國神社でお会いしました。


周防国の医師の家に生まれ、はじめ村田良庵、のち蔵六ぞうろく、大村益次郎、名は永敏ながとし
洋学・兵学に明るく、近代兵器と西洋的組織・陣法を備えた中央集権的軍隊を構想しました。
緒方洪庵の適々斎塾で学び塾頭まで進みました。
宇和島藩に出仕。
安政3年(1856年)江戸で鳩居堂を開塾しました。
蕃書調所ばんしょしらべしょ教授手伝、講武所教授として幕府に出仕。
万延元年(1860年)萩藩に迎えられて慶応軍制改革に参画し、慶応2年(1866年)の第二次長州戦争でその軍制・戦略の有効性が実証されました。
戊辰戦争でも軍略面で活躍。
明治2年(1869年)新政府の兵部大輔ひょうぶのたいふとなり軍制改革を提案、藩兵の親兵化構想と衝突しました。
また守旧派・草莽そうもう志士にも怨まれ、同年京都で襲撃され約2ヶ月後に没しました。


大村益次郎銅像
兵部大輔大村益次郎銅像

(東京都千代田区九段・靖国神社)

明治26年2月5日竣工
明治42年7月26日大村徳敏他献納
塑像 大熊氏廣
鋳造 東京砲兵工廠
碑文 内大臣従一位大勲位公爵三條實美 撰書


(平成16年1月27日)

大村益次郎は文政7年(1824)、周防国鋳銭司村(現、山口県山口市)の医者の家に生まれ、はじめ村田蔵六といった。
広瀬淡窓について儒学を、緒方洪庵について蘭学を学び、嘉永の初め宇和島藩に仕えてはじめて西洋式軍艦を設計建造。
さらに江戸に出て私塾『鳩居堂』を開き、幕府の講武所教授等を勤め蘭学者、蘭方医、兵学者としてその名を高めた。
ついで桂小五郎の推薦により長州藩に仕え、慶応2年、第二次長州征伐の折に、石州口の戦いを指揮して幕府軍を破り戦術家として脚光を浴びた。
戊辰戦争では新政府の軍務局判事に任じられ、大総督府に参じ東北の乱を平定。
ついで兵部大輔に任じられ、建議して軍制を洋式に改めることを主唱したため攘夷主義者を刺激し、京都出張中の明治2年(1869)9月、不満士族に襲われて重傷を被り、同年11月5日大阪にて歿した。
46歳。
明治2年6月、戊辰戦争の戦歿者を祀る東京招魂社(現、靖國神社)の創建に際し、社地選定のため同月12日、この地を視察したことも記録に見え、靖國神社創建者としての功績は大きく、明治15年、伯爵山田顕義らにより銅像の建立が発議され、宮内省から御下賜金の御沙汰もあり、彫刻師大熊氏廣に塑型の製作が委嘱された。
大熊氏廣は明治9年、工部美術学校の開設と同時にその彫刻科に入学し、イタリア人教師ラグーザの薫陶をうけ、同15年に首席で卒業する。
卒業後は工部省に入り、皇居造営の彫刻制作に従事、明治18年に大村益次郎の銅像製作を委嘱されると、この任を重んじ彫刻研究のため欧州に留学する。
パリ美術学校ではファルギエルにつき、ローマ美術学校ではアレグレッティ、さらには巨匠モンテヴェルデに入門した。
大熊氏廣の帰朝後、漸く明治26年にいたりこの地にわが国最初の西洋式銅像が建立された。
大熊はキヨソネの描いた大村益次郎の肖像画や遺族らに取材しながら製作にあたったという。
陣羽織をつけ左手に双眼鏡をもち、東北の方を望む姿は、上野東叡山にたてこもる彰義隊討伐の時の様子といわれる。
後に大熊は、有栖川宮熾仁親王小松宮彰仁親王などの彫像を制作し、文部省美術展覧会審査委員を務めた。

(説明板より)


大村益次郎卿銅像銘文

嗚呼ああ、此れ、故兵部大輔ひょうぶだゆう贈従三位大村君の像なり。
方(=四角)■そう(=額)圓えん(=丸い)頤(=あご)、眉軒まゆあがり、目張り、凛乎りんこ(=りりしい状態)として生けるが如く、人をして其の風采ふうさい(=人柄)を想わしむ。
君諱いみな(=死者の本名)は永敏ながとし、益次郎と稱す。
長門の藩士たり。
性沈毅ちんき(=沈着で剛毅なこと)にして大志あり。
つとに(=早くから)泰西たいせい(=西洋諸国)の兵法を講じ、擢ぬきんでられて兵學教授となり、尋ついで、藩政に参じ、兵制を釐革りかく(=改革すること)す。
慶応二年の役(=第二次長州征伐)藩の北境を守る。
連戦皆捷つ。(=勝つこと)
戊辰ぼしん(=慶応4年)中興、徴されて軍防事務局判事となる。
時に幕府の残党東叡山とうえいざん(=上野の寛永寺)に據りて命に方さからう。(=朝廷の命令に反抗する)
君、策さくを献じて、討ちて之を殲ほろぼす。
ついで、奥羽を征し、函館を平らぐ。
君皆其の帷幄いあく(=本陣)に参ず。
功を以て禄千五百石を賜わり、兵部大輔に陞任しょうにん(=昇任)し、大いに陸海軍制の基礎を定む。
明治二年京師(=京都みやこ)に在り、兇人きょうじん(=悪人)の■しょう(=傷を受ける)する所と為りて薨こう(=三位以上の人の死)ず。
年四十七。
天皇震悼しんとう(=天子が臣下の死を嘆き悼ませられること)、位を贈り、賻(=葬儀に贈られる金)を賜う。
後又爵(=爵位)を授さずけ、子孫を榮す。
頃者けいしゃ(=このごろ)、故舊こきゅう(=古くからのなじみ)相謀あいはかり、銅像を造立し、以て其の偉勲を表わす。
余君を知ること尤もっとも深きを以って、其の■略がいりゃく(=概略)を記す。
の平生へいぜいの事業の若ごときは、具つぶさに其の郷(=郷里)圓山墓碑に載す。
嗚呼、像と碑と君の功名は共に朽ちざる可し。

明治廿一年六月

内大臣従一位大勲位公爵 三條實美さねとみ 撰並ならびに

※ ■は表示不可能な文字です。

(平成17年8月15日追記)

靖国神社



靖国神社
(東京都千代田区九段)





(平成18年4月22日)

大村益次郎関係年譜
西暦(年号) 年齢 大村益次郎関係暦 その他
1824(文政7) 周防国吉敷郡鋳銭司村字大村に生まれる。
(父:村田孝益、母:むめ)幼名は宗太郎
 
1828(文政11)   シーボルト事件
1829(文政12) 松平定信没す
1837(天保8) 14 大塩平八郎の乱
1841(天保12) 18 水野忠邦の改革
1842(天保13) 19 防府宮市の蘭医梅田幽斎の門に入る。 高島秋帆
砲術教授となる
1843(天保14) 20 梅田の勧めで豊後・日田の広瀬淡窓の咸宜園塾に入門。 長州藩
準洋式大調練
1844(弘化1) 21 咸宜園を辞し北九州遊歴のあと、梅田の塾に戻る。 間宮林蔵没す
1846(弘化3) 23 大阪・緒方洪庵の適塾に入る。この時、医名を良庵と称す。
この年、適塾を一時去って長崎に赴き奥山静叔に就き学ぶ。
海防の勅諭
幕府に下る
1848(嘉永1) 25 再び適塾に復す。
解剖学、犬猫の臓腑研究と医学の領域を広げる。
また理化学、数学の研鑽を進める。
兵学、築城、砲術の洋書を熟読する。
佐久間象山
大砲を鋳造する
外国船出没盛ん
1849(嘉永2) 26 適塾の塾頭となる。 イギリス船
浦賀に来航
1850(嘉永3) 27 適塾を辞し、郷里鋳銭司村に帰り医師開業 高野長英自殺
1851(嘉永4) 28 妻・琴女を迎える。 島津斉彬
製煉所を設立
1853(嘉永6) 30 宇和島藩主伊達宗城に招かれ同地に赴く。
西洋兵書の翻訳、蘭学教授を担当。
この年藩命により村田蔵六と改名。
ペリー来航
石川島造船所
建設
1854(安政1) 31 造船術研究のため蘭学者二宮敬作と共に長崎に出張。 洋式船鳳凰丸
起工
日米和親条約
1855(安政2) 32 宇和島で軍艦の雛形を作り進水式を行う。
この年軍艦建造と乗前稽古のため再度長崎に赴く。
長崎海軍伝習所
開設
洋学所設置
長崎製鉄所
建設
藤田東湖圧死
1856(安政3) 33 藩主の参勤出府に随って江戸入り。
蘭学者大槻俊斎の門に入る。
番町に学塾を開き鳩居堂と名付ける。
適塾同窓の太田静馬を塾長とする。
新設の蕃書調所に幕命で宇和島藩士として助教授。
(月米20人扶、年金20両)
二宮尊徳没す
広瀬淡窓没す
1857(安政4) 34 講武所助教授に転役となる。 講武所内に
軍艦教授所開設
1858(安政5) 35 西洋兵書の翻訳と教授に専心。 安政の大獄
(安政5年〜6年)
梁川星巌没す
1859(安政6) 36 長州藩江戸桜田の藩邸で開始された蘭書会に参加。
久坂玄瑞、鳩居堂に入門。
吉田松陰刑死
1860(万延1) 37 正式に長州藩士となり、馬廻士に準ぜられる。
鳩居堂を引き払い、麻布の毛利家別邸に新たに塾を設ける。
門人は広く全国各藩に及ぶ。
神奈川居住の米宣教師ヘボンに就いて英学を学ぶ。
桂小五郎と共に、欝陵島開拓を幕府に建言する。
桜田門外の変
井伊直弼暗殺
1861(文久1) 38 幕命により帰国。
御手廻組に加えられ博習堂御用掛となり、その規則を作成。
防衛事務のため赤間関御手当場に出張。
江戸に戻る。
長州の長井雅楽
公武合体を建白
1862(文久2) 39 大村益次郎などの意見で海軍所設置される。 坂下門外の変
寺田屋騒動
榎本武揚
オランダへ留学
1863(文久3) 40 長州藩士井上聞多伊藤俊輔らの海外密航周旋の労をとる。
江戸の塾舎を閉じて帰藩。
御手当方御用掛、御撫育方御用掛を命ぜられる。
三田尻砲台所の見合を拝命。
装条銃打方陣法等規則取調を拝命。
長州外船を砲撃
薩英戦争
8月18日の政変
攘夷論者失脚
天誅組の変
緒方洪庵没す
1864(元治1) 41 兵学教授仰せ付け。
小郡宰判砲台築見合、鉄煩御用取調方を拝命。
御政務座御用、御武具方御用掛を拝命。
御軍政引除所勤、赤間関夷艦応接掛を拝命。
蛤御門の変
長州征討
四国艦隊による
下関砲撃
佐久間象山害死
1865(慶応1) 42 藩内情勢を但馬出石に潜伏中の桂小五郎に連絡。
汽船処分のため上海に赴く。
桂小五郎帰国しこれを密かに迎える。
桂の意向で山口へ赴く。
防長二州一和と民政軍政の整理につき建言。
御用所役を拝命。軍政に専任。士格大組に加えられ百石給与。
軍制改革を命ぜられる。石州口参謀となる。
藩命により村田蔵六から大村益次郎に改名。
 
1866(慶応2) 43 三兵教授役兼軍政用掛を拝命。
海軍御用掛を拝命。
薩長連合の盟約
長州再征
1867(慶応3) 44 陪臣大隊御用掛を拝命。
出兵東上会議で時期尚早を説く。
中国諸藩を順次従えて上京すべしと主張。
倒幕の密勅が
薩長に下る
坂本龍馬暗殺
大政奉還
1868(明治1) 45 長州藩世子進発に従い京都入り。
軍防事務局判事加勢を命ぜられ初めて朝臣となる。
京阪間で親兵などの軍務担当。
軍防事務局判事となり東下して大総督を補佐。
江戸の治安を勝海舟から官軍の手に移す。
叙従五位下、江戸府判事兼務。
彰義隊との戦争で軍制・戦略家の真価を発揮。
軍務官副知事となり太刀料300両を下賜。
木戸孝允と兵制会計の確立を謀議する。
明治維新
鳥羽伏見の戦い
1869(明治2) 46 戊辰戦の賞典で永世禄1500石賜与。
兵制会議で四民徴兵論を主張し大久保利通と対立。
兵部大輔を拝命。京阪出張。
9月4日、京都木屋町の旅舎で遭難。
11月5日、大阪の病院で死去。
勅使差遣従三位贈位。
横井小楠暗殺
東京九段に
招魂社を建立
東京〜横浜
電信開通

参考:京都・霊山歴史館『大村益次郎と適塾の人びと』展の冊子・他

(平成19年11月22日追記)


大村益次郎住居跡



大村益次郎住居跡
(愛媛県宇和島市神田川原)





(平成19年11月6日)
大村益次郎住居跡



大村益次郎住居跡
(愛媛県宇和島市神田川原)





(平成19年11月6日)

市指定 史跡
大村益次郎の住居跡

わが国近代兵制の創始者として有名な大村益次郎は文政7年(1824)3月10日、周防国(山口県)に生まれた。
若い頃は村田亮庵といい、大阪の緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、門下の逸材といわれた。
のち郷里で開業医をしていたが、嘉永6年(1853)8代藩主伊達宗城の招きによって来藩し、名を蔵六と改め、宇和島藩士として蘭学の教授、兵書、翻訳に従事し、また藩の軍制、特に軍艦の研究等にも力を尽くした。
益次郎は安政3年(1856)藩主に従って江戸に行ったので、宇和島在住は約2年半に過ぎなかったが、その間に住んでいたのがここ神田川原戸板口であった。

昭和36年11月3日指定
宇和島市教育委員会

(説明板より)

(平成20年1月14日追記)


宇和島藩士・大村益次郎

早くから大坂の緒方洪庵塾で学び、医学はもとより兵学にも詳しく、塾頭を勤めたほどの秀才であったが、27歳になって郷里に帰り医者を開業したところ、一向に流行はやらない。
長州藩もこの英才には気付かず、一村医者としての不遇な生活を送ること3年。

宇和島藩主・伊達宗城高野長英が去ってから、これに代わる洋学者を求めていたところ、緒方洪庵の推薦により村田亮庵(のちの大村益次郎)を招聘しょうへいすることになった。
亮庵は、来宇の翌年には、月に米六俵扶持(知行100石相当)を賜わるようになり、村田蔵六と改名。
郷里から妻を呼び寄せて、優遇された日々を送るようになり、兵書の翻訳・軍艦設計にその英才を遺憾なく発揮した。
宇和島に在住すること2年余。
更に研究を伸ばすため、江戸に上ることを請い、許されて宗城の参勤交代一行に加わって宇和島の地を去る。

江戸に出ると、その深い造詣はたちまち世に知られ、「宇和島藩に村田蔵六あり」の評判高く、徳川幕府の蕃書調所(洋学研究所)の助教授、ついで講武所の砲術教授を、宇和島藩士の身分のままで兼ねることになった。
こうなると出身地の長州藩の方で、この人材を見逃したことが残念でたまらない。
宇和島藩へ移籍方の頼み込みがあった。
たまたま時の藩主・伊達宗徳むねえの先夫人が毛利家の出という親類関係でもあるので、無下にも断り切れず、これからも宇和島藩の仕事を手伝うという条件で、長州藩へ移籍させた。
彼の宇和島藩在藩は7年間であった。

(参考:宇和島文化協会発行 『宇和島の自然と文化(6訂版)』 平成11年)

(平成22年11月27日追記)


彰義隊の墓



彰義隊の墓

(東京都台東区・上野公園内)




(平成16年7月17日)

彰義隊の墓(台東区有形文化財)
台東区上野公園一番

江戸幕府15代将軍徳川慶喜よしのぶは大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。
東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応4年(1868)2月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。
慶応4年5月15日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。
いわゆる上野戦争である。
彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏麿らによって当地で荼毘に付された。
正面の小墓石は、明治2年(1869)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密に附近の地中に埋納したものだが、後に掘り出された。
大墓石は、明治14年(1881)12月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。
彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。
平成2年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。

平成8年3月
台東区教育委員会

(説明板より)

彰義隊奮戦の図 (説明板より)

彰義隊奮戦の図

小川興郷が画家に指示して描かせたもので、他に存在する錦絵と違って、史実に忠実な絵と伝えられている。
(説明板より)

彰義隊と上野戦争

朝敵として官位を剥奪され謹慎処分とされていた徳川慶喜の窮状を見かねて、慶喜が一橋家の当主であった当時の側近者を中心に、この動乱期に身を立てようという者達も加わり会合がもたれた。
その後、この会合は『尊王恭順有志会』と称したが『彰義隊』と隊名を決め上野の山に屯集。
当時、江戸城をあずかる松平斉民は彰義隊の懐柔を兼ねて隊を公認、江戸の治安維持に利用した。
江戸城開城にあたり、慶喜は水戸に退隠するが彰義隊は同行を許されず、隊内では慶喜守護の大義名分を失ってしまい主戦論が高まった。
勝海舟は武力衝突を懸念して彰義隊の解散を促したが、東征軍(官軍)と一戦交えようと各地から脱藩兵が参加。
その数は2,000名とも3,000名ともいわれた。
京都の新政権では徳川家の処分に対して強硬派と穏健派があった。
強硬派の伊藤博文らは、三条実美と大村益次郎を江戸に派遣して事態の強行解決(彰義隊の壊滅)を図る。
閏5月15日、東征軍は上野を包囲。
江戸城で指揮をとったのが長州藩の大村益次郎、現場の攻撃指揮官は薩摩藩の西郷隆盛
大村は「上野総攻撃はない」という噂を流し、彰義隊の多くを江戸市中に誘い出し、その留守を狙って包囲網を敷いた。
午前中は彰義隊と東征軍の戦いは互角。
一対一の小競り合いでは剣術にたけた彰義隊に利があったが、午後になり、火器銃器の威力で形勢が一気に決まる。
大村は上野の表口の黒門口の攻略に力を集中した。
大村の戦略は上野で黒門口を実力で突破することが、東征軍の軍事力を示すことになり、彰義隊を討伐することで新政権の維新を全国に見せつけ、敵対勢力に加担する士気をそぐというものであった。
これにより、新政権の穏健派が主張する徳川家との連立政権構想も消え去った。
記録上は彰義隊の戦死者は205名、東征軍側は36名といわれている。
その後、東征軍は上野で勢いを得て東北へ進攻した。

戊辰戦争後、江戸市中では彰義隊の残党狩りが行なわれた。
上野で戦死したことにして、故郷にも帰れず明治の時代を戸籍なしで送った人もいたという。
獄中の彰義隊士が自由の身になったのは明治2年であるが、徳川方の諸隊のなかでも、彰義隊の処遇は特に悪かったという。

小川興郷は、彰義隊の墓所建立に奔走、明治9年に完成した。
のちに唐金の墓碑は借金のかたに持ち去られ、現在の墓碑は明治17年に再建された二代目である。
小川は墓所維持のために田畑も売り払ったが追いつかず、山岡鉄舟から「警視総監くらいにはなれるから新政府に仕官しないか」と誘われたが、墓所の維持に専念するため断ったという。
半生を墓所の維持に捧げた小川興郷は明治28年に52歳で没した。
その後は、妻りて、娘しか、姪ミツと夫の眞平、さらにその息子たちを中心に、小川一族の手によって今日まで伝えられている。

(参考文献:『上野のお山を読む』)


三条小橋の案内石碑



三条小橋のところに大村益次郎卿遭難の地の案内石碑が建っています。

(京都市中京区)




(平成16年4月2日)
案内石碑


「佐久間象山先生遭難之碑 大村益次郎卿遭難之碑 北へ約壹丁」
の案内石碑

襲撃されたのはここではないようです。
ここからもう少し北のほうです。



(平成17年11月7日改訂)

大村益次郎遭難之碑

大村益次郎は長州藩出身。
医学を梅田幽斎に学び、さらに緒方洪庵の適塾でも学んで兵学者となった。
長州藩の軍事指導者として活躍。
その功績から維新後、兵部大輔に任命され、近代兵制樹立に尽力。
しかし、廃刀論で士族の反感を買い、明治2年に三条木屋町にて反対派士族に襲われ、同年肺血症で死去。

三条小橋商店街振興組合

(説明板より)

※ HP訪問者から「肺血症」ではなく「敗血症」ではないかとのご指摘がありました。
   現地説明板の「肺血症」は誤字だと思いますが、そのまま掲載しておきます。

(平成17年11月7日追記)


【遭難事件】

大村益次郎が、東京から京都に来たのは、宇治に置く火薬庫、大阪に置く兵学寮、兵器工廠の予定地を検分するためである。
午後6時過ぎ、大村を憎む薩摩の謀将・海江田信義に煽動されたテロ集団が大村を襲い、顔面と右股ももに深手を負わせた。
大村は近くの長州藩邸まで歩き、のちに舟で、大阪仮病院に移った。
長州藩邸から高瀬川の舟に移るとき、小さな児玉源太郎と大きな寺内正毅が、大村を乗せた担架を担いだ。
大村の顔は包帯で包まれていたため、二人の少年は残念がった。
「顔は銅像ができて知ったよ」
と、のちに児玉は言った。
銅像ができたのが明治26年で、大村は「火吹きダルマ」と言われるような顔をしていたのである。

(参考:生出寿 著 『謀将 児玉源太郎』 徳間文庫 1992年12月 初版)

(令和元年7月23日 追記)


刺客

大村益次郎は、長州、秋田、越後、三州、奥州白河、信州、土州などの広範囲の出身者13名の刺客により襲われた。

(平成18年10月16日記)


佐久間象山遭難之碑


大村益次郎卿遭難之碑
(左側)
(京都市中京区木屋町)

右側に佐久間象山先生遭難之碑が建っています。
場所は高瀬川を挟んだ対岸。
近づくことはできません。


(平成16年4月2日)

益次郎暗殺と大楽源太郎

益次郎は戊辰戦争では官軍を指揮し、兵制の西洋化を推し進めて陸軍創設の父となる。
だが、これを快く思わぬ刺客に京都で襲われ、最期を遂げる。
犯人は驚いたことに、神代直人こうじろなおと、団伸二郎だんしんじろうら大楽源太郎だいらくげんたろうの私塾・敬神堂けいしんどう(西山せいざん書屋)の門下生だった。
益次郎と源太郎は同じ長州人で、生まれが隣村同士。
しかも広瀬淡窓をともに師とする同門であった。
源太郎は吉田松陰や高杉晋作より早く世間に知られた尊王攘夷の志士だった。
彼は次第に過激となり、塾では国粋的な攘夷論を講義した。
後の総理大臣・寺内正毅も源太郎の門下生だが、源太郎は暗殺を好むようになる。
自ら佐幕派の絵師・冷泉為恭れいぜいためちかを暗殺したこともあったが、むしろ門人その他を使い教唆の側に回った。
益次郎暗殺の首謀者の嫌疑をかけられるが脱走した。
しかし事件から1年半後、九州久留米で斬殺された。

(参考:『歴史街道 2010年3月号』)

(平成22年9月23日追記)


大村益次郎公遺趾


「兵部大輔従三位大村益次郎公遺趾」の碑
(京都市中京区木屋町御池上る)

京料理「さつき」のところに建っています。
ここは大村益次郎が常宿にしていた場所の跡です。



(平成16年4月2日)

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑



兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑
(大阪市中央区法円坂2・上町交差点)





(平成20年6月16日)

碑文

明治兵制ノ創始者兵部大輔大村益次郎卿ハ周防ノ人資性沈毅明敏少壮ニシテ漢籍ヲ廣瀬淡窓ニ蘭学ヲ梅田幽斎及緒方洪庵等ニ学ビ専ラ醫学及兵学ヲ修メ夙ニ皇政維新ノ大業ヲ翼賛シテ東京以北戡定ノ偉勲ヲ樹テ親兵ヲ創設シテ兵馬ノ大権確立ニ資シ徴兵ノ制ヲ布キテ國民皆兵ノ實ヲ擧ゲンコトヲ主張シ兵学寮及兵器弾薬製造所並軍艦碇泊場ノ設立等ニ拮据奔走中明治二年九月四日京都ニ於て刺客ノ難ニ遭ヒ後大阪病院ニ於て右大腿切断ノ手術ヲ受ク病牀二ケ月瀕死ノ中ニ在ツテ尚ホ書ヲ要路ニ致シ陸海兵制ノ整■ト軍事醫療ノ急設トヲ説キ傷■ノ疼痛ニ悩ミツゝ一言モ之ニ及ブ■グ愬フル所皆是レ國家公共ノ大策ニ非サルハ無カリキ不幸経過良好ナラズ遂ニ十一月五日経國ノ雄圖ヲ抱イテ空シク此ノ地ニ薨ス時ニ年四十六本會ハ茲ニ卿ノ高邁ナル識見ト偉大ナル功績トヲ敬慕シ特ニ終焉ノ地ヲ選ビ記念碑ヲ建テ此遺跡ト共ニ其洪勲ヲ長ヘニ後昆ニ傳フト云爾

昭和十五年十一月 大村卿遺徳顕彰會

レリーフ レリーフ

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑



兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑
(大阪市中央区法円坂2・上町交差点)





(平成20年6月16日)

大村益次郎の墓



大村益次郎の墓
(京都市・京都霊山護国神社)





(平成19年3月17日)

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大村益次郎 彰義隊



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