山田顕義像 平成15年7月25日

山田顕義 やまだ・あきよし

弘化元年10月9日(1844年11月18日)〜明治25年(1892年)11月11日

山口県萩市郊外の萩往還公園(道の駅)でお会いしました。


松下村塾に学び尊皇攘夷運動に活躍。
戊辰・西南両戦争に従軍しました。
この間、岩倉遣外使節団に参加して欧米視察。
長州閥の有力者として明治12年(1879年)参議兼工部卿、のち内務卿・司法卿を歴任しました。
第一次伊藤内閣から第一次松方内閣まで司法大臣を務め、司法制度の整備や民法・商法などの編纂に貢献しました。
皇典講究所・日本法律学校(現:日本大学)・国学院の設立にも尽力しました。


山田顕義と品川弥二郎像

萩往還公園に建つ銅像
(山口県萩市)

右:山田顕義(市之充)
左:品川弥二郎


(平成15年7月25日)

山田顕義(市之充いちのじょう

弘化元年(1844)〜明治25年(1892)
武士の長男として生まれ、14歳の時に松下村塾に入塾しました。
村塾の一燈銭申合いっとうせんもうしあわせや攘夷血盟のメンバーで、当時外国と日本が結んだ不平等な条約に強く反対し、尊皇攘夷に参加しました。
明治維新後は司法大臣を務め、また日本大学、国学院大学を創設し、教育者松陰の遺志を実現しました。

(説明板より)


西郷隆盛に「あの小童こわっぱ、用兵の天才でごわす」と言わしめたほど、戊辰戦争で活躍。
維新後、フランスでナポレオン法典に接し、「法律は軍事に優先する」と司法畑に転じ、法典編纂事業に没頭。
日本の歴史と文化・伝統を踏まえた法律研究と教育の必要性を痛感し、『日本法律学校』(後の日本大学)を設立する。

参考:『歴史街道 2001年5月号』

(平成18年2月17日追記)


山田顕義の墓


正二位伯爵山田顕義墓


(東京都文京区大塚5丁目 護国寺)




(平成15年12月22日)

山田顕義畧傅(墓所内の石碑碑文)

空齋山田顕義 弘化元年(1844)萩に生まれ 明治25年(1892)49歳をもって生野に没する
はじめ長藩の志士として奔走し 戊辰戦争に活躍 兵部にあって陸軍の基礎を作った
ついで佐賀の乱・西南の役の鎮定にも功があり 陸軍中将に任ぜられる
これよりさき米欧を視察 やがて志を内治に向け 参議 工部・内務・司法の卿および初代の司法大臣に任じ なかんずく法典を編纂してわが国近代化の基礎を据えた
また詩・書をよくし 教育に関心深く 日本法律学校(日本大学)を創立 さらに國學院を開き そのほか多数の学校に助成した
日本人としての主体性を持って しかも世界的視野を失わない人材の養成を期したのである
生前 正二位勲一等 伯爵を授けられ 喪を発するに先んじ旭日桐花大綬章を賜わり この地に葬られる

清風吹萬古 雲霄一羽毛

平成元年10月4日 創立百周年を記念して

日本大学第7代総長
法学博士 高梨公之撰

空齋山田伯顕彰碑(墓所内の石碑碑文)

山田顕義先生は少壮にして国事に奔走 明治政府の顕官を歴任
明治15年國學院大學前身たる皇典講究所の創建に関わり賛■となり経営に参画す
総裁有栖川宮幟仁親王薨去ののち 同22年自ら初代所長に就任せらるるや同所の事業の充実を図り 日本法律学校を設立
また翌23年「國學院設立趣意書」を発して國學院を設置し 教育研究の興隆と日本精神の■弘を期す
然るに同25年11月生野に客死す
維新以来の勲功に対し生前叙位叙勲叙爵 喪に当り■辞■に■■■を賜る 同17日この■■■に葬らる
平成2年國學院創設百周年を迎ふるに当り往昔を回顧 石碑を建て永くその功績を顕彰す

平成元年11月4日
学校法人 國學院大学
理事長 佐々木周二
学長 春日 ■

※■は判読できなかった文字です。


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