品川弥二郎像 平成15年7月25日

品川弥二郎 しながわ・やじろう

天保14年9月29日(1843年10月22日)〜明治33年(1900年)2月26日

山口県萩市郊外の萩往還公園(道の駅)でお会いしました。


松下村塾に学び尊王攘夷運動に従事、第二次長州戦争では御楯隊参謀として軍功をあげ、薩長連合にも連絡役を務めました。
維新後、内務少輔・農商務大輔・ドイツ公使などを歴任。
明治24年(1891年)第一次松方内閣の内相、翌年第2回総選挙の選挙干渉責任問題で辞任しました。
同年夏に国民協会を結成しましたが、第二次伊藤内閣と対立して不振に終わりました。
明治33年(1900年)、流感から肺炎を併発して没す。58歳。


山田顕義と品川弥二郎像

萩往還公園に建つ銅像
(山口県萩市)

右:山田顕義(市之充)
左:品川弥二郎


(平成15年7月25日)

品川弥二郎

天保14年(1843)〜明治33年(1900)
足軽の子として生まれ、松下村塾に15歳の時に入塾しました。
松陰が亡くなった後も塾の勉強会のメンバーで、のち攘夷血盟に加わり、英国公使館焼討ちや蛤御門はまぐりごもんの変などに参加しました。
明治維新後は政府高官となってヨーロッパ諸国に滞在、外交方面で活躍したり、内務大臣などを務めました。

(説明板より)


品川弥二郎誕生の地


品川弥二郎誕生地
(山口県萩市椿東船津)

現在は「船津こども遊園地」という小さな公園になっています。


(平成15年7月26日)

品川弥二郎

明治の政治家、子爵。
萩藩足軽の子としてこの地に誕生、吉田松陰の松下村塾に学び尊攘討幕運動に挺身す。
老中間部詮勝まなべあきかつ要撃策に加盟、イギリス公使館焼打ちに参加、蛤御門の戦、四境戦争に従う。
維新後ドイツ公使宮中顧問官、内務大臣、枢密院顧問官等を歴在す。
産業組合設立に尽し、晩年は松陰の遺志を継ぎ京都に尊攘堂を建設して京都大学に寄贈した。
明治33年(1900)没、58。

萩市

(説明板より)


練兵館跡



神道無念流 練兵館跡
(東京都・靖国神社内)





(平成19年1月11日)

幕末志士ゆかりの練兵館跡

この練兵館れんぺいかんは、神道無念流しんどうむねんりゅうの剣客 斉藤弥九郎さいとうやくろうにより、それまで俎まないた橋付近にあった練兵館が天保9年(1838年)の火事で類焼したため、この地に再建され、その後約30年間隆盛を誇った。
練兵館には高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、品川弥二郎など幕末の志士が多数入門し、特に桂小五郎は剣の腕前も優れ、師範代もつとめている。
また、伊藤俊輔(伊藤博文)も出入りしていたといわれる。
なお、この練兵館は千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館とともに、幕末三道場といわれている。

(説明板より)


品川弥二郎像 平成15年10月2日

東京都千代田区九段・靖國神社の大鳥居の近くの歩道橋脇でお会いしました。


トコトンヤレ節(宮さん宮さん)

トコトンヤレ節は品川弥二郎が作詩しました。
師である吉田松陰を罪人として処刑した徳川幕府を恨み、倒幕を「トコトンヤレ」と囃はやしたてた歌を作ったといいます。
現在伝えられている歌詞には何種類かあるようですが、そのうちの一つをご紹介します。
ちなみに作曲は大村益次郎であるといわれています。

宮さん宮さん 御馬おんまの前に ひらひらするのは何じゃいな
トコトンヤレ トンヤレナ
あれは朝敵ちょうてき 征伐せいばつせよとの 錦にしきの御旗みはたじゃ知らないか
トコトントンヤレ トンヤレナ

一天万乗の 一天万乗の 帝王みかどに手向かいする奴を
トコトンヤレ トンヤレナ
ねらい外さず ねらい外さず どんどん撃ち出す薩長土
トコトンヤレ トンヤレナ

音に聞こえし 関東武士さむらい どっちに逃げたと問うたれば
トコトンヤレ トンヤレナ
城も気概も 城も気概も 捨てて吾妻へ逃げたげな
トコトンヤレ トンヤレナ


この曲は日本で最初の軍歌といわれています。
”宮さん”は東征大総督の有栖川宮熾仁親王を指しています。

(平成17年2月10日記)


選挙干渉

明治25年2月15日に行われた第2回総選挙で、藩閥政府は野党候補者を倒すための全国的な大干渉をおこなった。
官民の抗争で死者25名、負傷者388名(当時の政府の調査)。
高知や佐賀は、それぞれ元自由党の板垣退助や元改進党総理の大隈重信の出身なので、特に干渉は甚だしかった。

この干渉を陣頭に立って指図したのは松方内閣の内相・品川弥二郎。
その参謀は内務次官の白根専一。
品川らは王政維新当時における朝敵征伐の意識と意気込みをもって野党候補者に対し「議会の解散は陛下の譴責であるから、旧議員の再選は陛下の思召しに背く」と密かに地方長官に訓示した。
品川らが選挙干渉をしたのは、政府に反対するものは全て朝敵であるという考えを持ち、立憲政治というものを全く知らないためだったという。

松方内閣のこの大干渉は発足早々の立憲政治に一大汚点を印したのみならず、後世まで憲政の運用に一大害毒を流した。
これほどの干渉をしたにもかかわらず松方内閣は野党の優勢を破れず、逆に自由党と改進党との提携を促進。
意気高まる野党に反して政府部内は動揺し、品川内相と陸奥農相が争い、松方は両相を辞職させることになった。

参考:伊佐秀雄著『尾崎行雄』

(平成19年3月9日追記)


邸宅跡



邸宅跡

(東京都千代田区九段南2丁目ー1ー39・九段坂病院)





(平成18年7月14日)

インド大使館の南隣の土地に建つ白亜の建物は、九段坂病院です。
明治時代、この土地に品川弥二郎子爵邸がありました。
品川は山縣有朋と同郷で長州の出身です。
品川は明治33年57歳で没するまで二十数年間この地に住んでいました。
品川の妻静子は山縣の姉寿子の長女という関係にあり、山縣は義理の叔父にあたるため、山縣が以前から住んでいた自分の屋敷の土地を品川に譲渡したものと思われます。
彼の没後、この土地は一時期、西隣に居住していた旧秋田藩主の佐竹義生(よしなり)侯爵の所有になりましたが、大正13年医師福岡五郎氏が佐竹侯からこれを譲り受け、15名の出資者で作った組合が、現在の病院の前身である九段坂病院を設立されました。
当時は、地下1階、地上2階建のコンクリート建築で病床数43床のモダンな高級病院であったそうです。
正面玄関は、千鳥が淵縁道側にあり、車を横付け出来る造りになっていました。

(平成15年9月15日環境省千鳥ヶ淵戦没者墓苑管理事務所発行『墓苑周辺の歴史散歩』チラシより抜粋)
(平成18年7月30日追記)


 (関連商品のご紹介)

品川弥二郎



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