佐久間象山像 平成20年10月27日

佐久間象山 さくま・しょうざん

文化8年2月28日(1811年3月22日)〜元治元年7月11日(1864年8月12日)

長野県長野市・八幡原史跡公園でお会いしました。


信濃国松代藩の下級武士の子。
妻は勝海舟の妹。
16歳から漢学の修業を始め、佐藤一斎に師事。
天保10年(1839)江戸に私塾象山書院を開く。
老中で海防掛の松代藩主・真田幸貫ゆきつらの命により蘭学・砲術を学びました。
1840年にアヘン戦争で中国がイギリスに敗れたことに強い衝撃を受け、その原因を思想や学問のあり方の問題として捉えることによって、中国の轍を踏まないことを課題として、西洋諸国に関する認識を転換することに力を尽くしました。
安政元年(1854)、吉田松陰の密航事件に連座して松代に蟄居。
赦免後に幕命により上京、一橋(徳川)慶喜に時務を建策しましたが、元治元年(1864)7月、京都で攘夷派に暗殺されました。


佐久間象山先生像



佐久間象山先生像
(長野県長野市小島田町・八幡原史跡公園)

冨永直樹 作



(平成20年10月27日)

碑文

知有繋五世しめせ象山の志

余年二十以後乃ち■夫一国に繋り有るを知る 三十以後乃ち天下に繋り有るを知る 四十以後乃ち五世界に繋り有るを知る

右は佐久間象山の名著「省■録」(せいけんろく)の最後の一節である
「私は二十才以降凡夫ながらも信濃の国に三十才以後は日本国に四十才以後は全世界につながりのあることを悟った」と意訳できる
佐久間象山(1811〜1864)は信濃国松代藩(現長野市松代町)出身の明治維新の大先覚者で、その門下から吉田松陰・勝海舟・坂本竜馬等多くの俊秀を輩出した
象山は常に世界的な視野に立って日本の現状をみつめ遠く国家の将来を見る先見の明があった
その卓見は没後着々と実現され今日我が国の繁栄にまで及んでいるのである
21世紀に向けて「明るく豊かな社会」を創り出すために象山の詞のごとく地域に国家にそして全世界に繋りをと視野の広い人材が雲の如くこの地から起こることに願いをこめて象山先生の像をここに建立する

平成2年11月吉日
長野市長 塚田 佐


象山先生誕生地碑



「象山先生誕生地」の碑

(長野県長野市松代町・佐久間象山宅跡)





(平成20年10月27日)
煙雨亭



煙雨亭
(長野県長野市松代町・佐久間象山宅跡)





(平成20年10月27日)

茶室 煙雨亭

象山先生は松代における9ヶ年の蟄居の後
元治元年(1864)3月幕府の招きに応じて京都に上り、しばらくして三条木屋町の鴨川べりの一戸構えに移った。
この家は二階建で広く茶室迄も備わり、鴨川を隔てて東山・八坂の塔なども見える、眺めのよい家であった。
従って、先生は雨に煙る情緒豊かな風情を愛で、煙雨楼と名づけられた。
先生が7月11日、頑迷な攘夷論者のため非業の最期を遂げらるるまで僅か2ヶ月の住居であった。
この茶室はその煙雨楼内の茶室で、昭和40年頃解体の折、京都象山会の高岡謙次氏が譲り受け保管されていた。
昭和56年にその資材のご寄贈をいただき先生の往時を偲び後世に伝えるため煙雨亭と名づけ、先生縁りの地に移築したものである。

昭和57年4月24日
長野市
長野市教育委員会

(説明板より)

佐久間象山宅跡(長野県長野市松代町・象山神社隣接)

県史跡
佐久間象山宅跡

長野県指定文化財
昭和35年2月11日指定

ここは象山の曾祖父国品以来の佐久間家の宅跡で、象山は文化8年(1811)2月11日この地で生れた。
天保10年(1839)の二度目の江戸留学まで29年間ここに住み、藩の青年たちに学問を教えて後進の指導に努めた。
象山の父は佐久間国善(一学また神渓とも号した)といい、五両五人扶持(70石相当)の家だったが、剣は卜ぼく伝流の達人であり、また、易学をもって知られた名門だった。
屋敷の指定面積は、877.8平方メートルで、南方中程に表門、西方中程に裏門があった。
住宅は屋敷東寄り中央に東西5間、南北3間半の茅葺かやぶき平屋造りのもので、表門西脇に父神渓の槍・剣術場・学問所があり、裏門の北と南に長屋二棟があって、藩中軽輩士分の屋敷構であった。
屋敷東北隅には硝石製造原土置場があった。
元治元年(1864)3月、徳川幕府の招きで上洛し、開国・公武合体論を主張し大いに画策したが、同年7月11日京都三条木屋町で刺客の凶刃に倒れた。
享年54歳。
佐久間家は断絶になり、屋敷は藩に取り上げられ、後に住宅も破壊された。
当時をしのばせるものは、住宅の西北隅にあった井戸のみである。

平成7年2月10日
長野市教育委員会

(説明板より)

佐久間象山先生陶器像 平成20年10月27日

長野県長野市松代町・象山神社でお会いしました。

佐久間象山先生



佐久間象山先生
(象山神社)





(平成20年10月27日)
高義亭



高義亭
(象山神社)





(平成20年10月27日)

建造物
高義亭

長野市指定文化財
昭和54年3月12日指定

もと松代藩家老望月主水もんど貫恕の下屋敷にあった建物である。
安政元年(1854)佐久間象山は吉田松陰の渡航事件に連座し、国元蟄居ちっきょを命ぜられ望月氏の下屋敷聚遠楼に住んでいたが、来客があるとしばしばこの高義亭の二階七畳半の間で応対し、国家の時勢を論じたという由緒深い建物である。
木造二階建ての寄せ棟造りで、屋根は桟瓦葺さんかわらぶきとする。
下屋敷も瓦葺きであるが、一部鉄板を用い、東に切妻屋根を出す。
一階は、玄関(2坪)・取り次ぎの間(6畳)・次の間(9畳)・客間(10畳)・茶の間(6畳)・勝手(4畳半)と、西に納屋を造り出す。
玄関は土間と式台からなり、次の間は南に明障子、外に縁を付す。
客間と次の間は襖ふすまで仕切り、外側に明障子を立てて縁を回す。
取り次ぎの間から北に通る廊下で客間・茶の間・勝手に通じ、茶の間わきに階段を付けて二階の昇り口ととする。
二階は、階段を昇ったところに踊り場、南に控えの間、東に6畳間、北に置床付き7畳半の間がある。
ここが象山が来客と対応した間である。
明治以後住人が替わり、原形も一部変更した所もあったが、現在地に移築の際、当時の構造に復元したものである。

平成7年2月10日
長野市教育委員会

(説明板より)

対談の間



対談の間

(高義亭内部)





(平成20年10月27日)

この部屋は御安町にあった当時は東に近く尼飾あまかざり山 北に遠く飯綱いいづな戸隠とがくしの山々を望む眺めも良く閑静であったので 象山先生はここを書斎とし客間として使用された
蟄居の晩年 長州の高杉晋作久坂玄瑞、土佐の中岡慎太郎、後の軍医総監石黒忠悳ただのり等の名士を迎えて対談されたのもこの部屋である

(解説板より)

神木



神木
(象山神社)





(平成20年10月27日)

神木

樹種 イロハカエデ(たかおもみじ)
樹齢 260年(推定)

この土地は松代初代藩主真田信之の寵臣であり信之に殉死した鈴木右近忠重の子孫の屋敷跡であった。
このイロハカエデはその庭にあったもので昭和13年神社建立に際し由緒あるため残されたものである。

象山神社

(説明板より)

望岳賦の碑


「望岳賦」の碑

(象山神社)

明治二十三年四月
義弟 村上政信 建



(平成20年10月27日)

望岳賦

望岳賦は天保12年(1841)夏、象山先生31歳の時の作といわれ、桜賦と並び称される名作である。
富士山の気高く優美な姿は讃えて、自分の理想と抱負をこれに寄せた韻文である。
この碑は明治23年、象山先生と義兄弟の誼を結んだ村上政信が、先生直筆の書を碑文に彫りその邸内に建てたものであるが、その後行方不明となり、久しく幻の碑と称されていたが、東京杉並高円寺の修道院内に在ることが判明し、昭和48年11月9日神社創立三十五周年祭の当日奉迎再建した。

(説明板より)

桜賦の碑


「桜賦」の碑
(象山神社)

昭和五拾年拾月建
東京都新宿区
奉献 加藤安夫


(平成20年10月27日)

桜賦

桜賦は万延元年(1860)春、象山先生50歳の時の作で、孝明天皇の天覧を賜った由緒ある名文である
桜花の美徳をたたえて憂国の至情をこれに託し、人に知られぬ山の奥に散りゆく桜の花を自分にたとえ、ひそかに勤皇の志を述べた韻文である
この碑文は長野市の文化財に指定されている象山先生自筆の紙本から複製したもので、昭和51年4月11日篤志家の寄進によって建碑された

(説明板より)





「省けん録」の碑

(象山神社)





(平成20年10月27日)

この碑の読みかた

われとし二十以後乃すなわち匹夫ひっぷも一国に繋かかるあるを知り三十以後乃ち天下に繋るあるを知り四十以後は乃ち五世界に繋るあるを知る


一.当時一国は松代藩、天下は日本国、五世界は全世界をいう

象山神社
日本電信電話公社

碑陰(碑の裏の文)

この碑文は象山先生が安政元年(1854年)門人吉田松陰は海外渡航をすすめたことに連座して獄中憂国の至情に発して記された『省けん録』中の句である
先生はこのような大精神によって開国進取科学文化の発達等に尽してやむことなくついにその貴き命を捧げられたのである
しかしながら明治維新の黎をもたらし先覚者象山先生の大精神と偉業は永遠に光り輝くものがある。
ことし百年祭の行なわれるにあたりこゝに先生の真蹟を刻し啓示としてとこしえに仰ぐものである

1964年11月11日
日本電信電話公社

(説明板より)

象山神社



象山神社

(長野県長野市松代町松代1502)





(平成20年10月27日)

象山神社の建築

当神社は昭和13年11月に創建された。
本殿は三間社流造、銅板葺き、主屋四周に縁を延し五段の木階の下に浜縁を設け、更に五段の木階が築かれている。
屋根には、千本と五本の鰹木を置く。
拝殿は入母屋造平入り、銅板葺き、天井は折上げ格天井で、柱上に舟肘木を設けている。
宝庫は切妻平入り、銅板葺きである。
絵馬殿は入母屋造平入り、銅板葺きで、菱を猪の目懸魚・木連格子で飾ってある。
社務所は入母屋造り平入り、銅板葺きで外観は武家屋敷の御殿のようである。
室内は床の間・違い棚・書院造りである。
斎館は入母屋造平入り、桟瓦葺きで、正面には唐破風の屋根が付いた玄関を備えている。
創建当時は国産材のヒノキが入手できず、台湾産ヒノキで造られた。

松代登録文化財の会

(説明板より)

象山神社



象山神社

(長野県長野市松代町松代1502)





(平成20年10月27日)

御祭神 佐久間象山について

幕末の大先駆者である。
松代藩士佐久間一学の長男として文化8年(1811)に生まれる。
6才の時から父や鎌原桐山・活文禅師などから学問・武術を習い、20才で詩文・経書・武術等免許される程の秀才であった。
23才江戸佐藤一斎の塾に入門、渡辺崋山藤田東湖と親交、3年で帰藩し、藩の子弟に経書や漢学を教える。
この頃名を修理、号を象山ぞうざんと改める。
29才江戸お玉ヶ池に象山書院を開き、多くの門弟を集める。
藩主幸貫老中で海防掛の時、海防八策を幕府に上申する。
36才帰藩し、湯田中・沓野・佐野(志賀高原)の利用係として開発に努力、又大砲・電信機等の製作・実演をする。
41才江戸木挽町に塾を開き、勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰・橋本佐内など維新の英才を輩出、ペリー来航国論沸騰の際、軍議役として横浜警備に当たる。
開国論を唱え横浜開港を主張する。
松陰密航事件に連座して投獄される。
44才から9年間松代に蟄居される。
この間高杉晋作・久坂玄瑞、山形半蔵・中岡慎太郎・石黒忠悳ただのりらが面会に訪れ、時世について、激論、象山の学識に感動して去る。
54才元治元年(1864)幕府の命で京都へ上る。
将軍家茂・一橋慶喜・山階宮・中川宮に公武合体開国を説いて活躍中7月11日三条木屋町で尊攘派の凶刃にたおれ、尊皇開国の捨石となって非業の最後を遂げる。
その後4年にして明治維新の世を迎え、象山ぞうざんの尊皇開国という憂国の至情がそのまま具現されたのであった。

大正2年象山殉難五十年祭を契機に、元大審院長横田秀雄博士の主唱で、神社建立の計画が進められ、地元をはじめ県下全市町村及び信濃教育会・全学校・全国関係者の協力によって、昭和13年11月3日県社として創建された。

(リーフレットより)


佐久間象山肖像



佐久間象山肖像
(長野県長野市松代町・象山記念館)





(平成20年10月27日)

佐久間 象山
文化8年(1811)〜元治元年(11864)

松代藩士の佐久間国善くによしの長男として、松代町浦町(有楽うら町)に生まれる。
幼名啓之助。
少年時代から秀才の誉れ高く、天保4年(1833)江戸に出て佐藤一斎に学び、渡辺崋山・藤田東湖などと親交を深めた。
同10年江戸神田阿玉池に私塾を開く。
同13年藩主真田幸貫が老中海防掛となると、顧問として海外の事情を研究した。
弘化元年(1844)黒川良安と蘭学・漢学の交換教授を行い、オランダの百科事典などによって洋学の知識を身につけた。
その後嘉永3年(1850)深川の藩邸で砲学の教授を始め、勝海舟・橋本佐内ら多くの人材を集めた。
同6年門人吉田松陰のアメリカ密航未遂事件に連座し、松代に蟄居ちっきょを命じられた。
文久2年(1862)上洛、公武合体・開国佐幕を説いて活躍中、7月11日三条木屋町きやまちで尊王攘夷派に暗殺された。
時に54歳。
いみなは啓ひらき
通称を修理。
号を象山・子明。
法名を清光院仁啓守心居士。

(リーフレットより)

象山記念館




象山記念館内部






(平成20年11月27日)
象山記念館



象山記念館
(長野県長野市松代町松代1446番地6)





(平成20年10月27日)

象山記念館

象山記念館は、幕末の思想家である佐久間象山(1811〜1864)に関する資料を展示しています。
主な展示品は、佐久間象山が製作した電気治療機をはじめとする科学に関する資料、佐久間象山が政治に関して述べた記録類、それに佐久間象山自筆の墨跡類などです。
佐久間象山は日本ではじめての電信実験を行ったといわれます。
これにちなんで、2階には明治初期から昭和頃までの電話機などを展示しています。
現在では当館にしかない電話機もあります。
ぜひお立ち寄りください。

(案内板より)

象山記念館

象山が殉職してから100年目に当たる昭和39年(1964)、地元の人々によって記念祭が行われ、象山の遺墨、遺品を公開する施設の建設が発起され、昭和40年(1965)に展示施設が完成。
昭和42年(1967)3月、長野市に寄贈され同年4月1日に開館した。
昭和63年(1988)に展示室を増築し、思想家、兵学者、科学者などさまざまな面を持つ象山を紹介している。
一部、2階は松代通信資料館となっている。

【利用の案内】
開館時間 午前9:00〜午後5:00
入館料 一般 250円
休館日 毎週火曜日 12月29日〜1月3日の年末年始

(リーフレットより)






 桜の賦の碑
 (東京都北区・飛鳥山公園)




(平成26年8月24日)

桜の賦の碑

桜の賦は、松代藩士で儒者であったが、後に西洋の学問を学び進歩的考えをとなえ、明治維新前後の日本に大きな影響を与えた佐久間象山の作である。
この賦で象山は、桜の花が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、日本の全土に壮観を呈しその名声は印度、中国にまで響き、清く美しいさまは他に比類がないと云い、当時象山は門弟吉田松陰の密出国の企てに連座、松代に蟄居中であったので、深山幽閉中で訪れ来る人もないが自ら愛国の志操は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞こえると結んでいる。

この賦は、象山50歳(万延元年・1860)の作と云われ、2年後の文久2年(1862)、孝明天皇の宸賞を賜った。
象山は、蟄居放免となり、翌年京に上り皇武合体開国論を主張してやまなかったが、一徹な尊王攘夷論者によって刺され、元治元年(1864)7月11日54歳の生涯を閉じた。
この碑は遺墨をもとに、門弟勝海舟の意によって、同門小松彰等によって建てられた。
碑陰記は、同門北沢正誠の文で書は日下部鳴鶴である。
明治14年11月15日と刻まれている。
この下に挿袋石室が埋蔵されている。

桜賦俗解参照  森 正

東京都北区役所

(説明板より)


三条小橋の案内石碑



三条小橋のところに佐久間象山先生遭難の地の案内石碑が建っています。

(京都市中京区)




(平成16年4月2日)
案内石碑



「佐久間象山先生遭難之碑 大村益次郎卿遭難之碑 北へ約壹丁」
の案内石碑。
暗殺されたのはここではないようです。
ここからもう少し北のほうです。



(平成16年4月2日)

佐久間象山遭難之碑

佐久間象山は信州松代藩の出身。
儒学や朱子学を修め、西洋科学の導入で殖産興国をすすめた。
彼の塾からは、勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬らを輩出。
元治元年(1864)に上洛し、開国論を唱えて公武合体に努めたため、同年7月11日に刺客に斬殺された。

三条小橋商店街振興組合

(説明板より)

佐久間象山遭難の碑

佐久間象山遭難の碑
(右側)
(京都市中京区木屋町)

左側に大村益次郎遭難の碑が建っています。
高瀬川を挟んだ対岸に建っているので近づけません。
碑文らしきものが見えるのですが、当然ながら読むことが出来ません。歩道側に説明板でもあると良いのですが・・・・


(平成16年4月2日)

象山佐久間先生墓


象山佐久間先生墓

(長野県長野市松代町・蓮乗寺)

大正十一年十月十五日京都妙心寺内大法院ヨリ分葬ス
(碑文より)



(平成20年10月27日)
佐久間象山墓所


佐久間象山墓所
(長野県長野市松代町・蓮乗寺)

左:佐久間象山の墓
右:次男・佐久間恪二郎の墓



(平成20年10月27日)

蓮乗寺
象山先生の墓


象山は文化8年(1811年)2月旧松代藩に生れ元治元年(1864年)京都にて凶刃にたおれる。
蓮乗寺は日蓮宗の名刹で日蓮が佐渡へ流された時立寄られ一泊せられたと伝えられる。
又、佐久間家累代の菩提寺であり大正11年、京都妙心寺よりこの菩提所へ分葬する。
猶父一学並に一子恪二郎等の墓もある。

(説明板より)

蓮乗寺



蓮乗寺
(長野県長野市松代町松代御安町1142)





(平成20年10月27日)



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