中岡慎太郎像 平成16年4月2日

中岡慎太郎 なかおか・しんたろう

天保9年4月13日(1838年5月6日)〜慶応3年11月17日(1867年12月12日)

京都府京都市東山区・円山公園でお会いしました。


土佐国の大庄屋・中岡小伝次こでんじの長男。
間崎哲馬より読書を、武市瑞山より剣術を学びました。
安政4年(1857年)、20歳で大庄屋見習となり、村政に携わりました。
20歳の頃に高知に、更に江戸に遊学。
藩命により水戸・松代を歴遊。
文久元年(1861)藩主・山内豊信とよしげに随伴して帰国し、土佐勤王党に加入しました。
翌年の10月、山内容堂護衛の五十人組に参加して上洛、尊穣運動を展開。
京都での8月18日の政変後、尊穣運動弾圧時には脱藩して三条実美さねとみら尊穣派公卿に従って長州に入り、長州の尊穣派を指導しました。
元治元年(1864)7月の禁門の変では長州藩遊撃隊に加わって参戦。
第一次長州征伐の時には忠勇隊総督として三条実美ら五卿に近侍しました。
やがて従来の尊穣運動に限界を感じ、新たに薩摩・長州両藩の富国強兵政策に注目します。
両藩が協力して王政復古を実現することを痛感し、両藩提携のため同志らと奔走。
これに坂本龍馬も加わり薩長同盟に成功しました。
坂本龍馬の海援隊に対し、京都で陸援隊を組織。
一時は大政奉還を唱えましたが、最終的には武力倒幕を目指し、この点では龍馬とは意見を異にしています。
慶応3年(1867)、京都の近江屋で龍馬と会談中、幕府の見廻組に襲われ重傷を負い、2日後に死亡しました。
享年30歳。

(平成16年8月9日改訂)


坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像



坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像

(京都市・円山公園)




(平成16年4月2日)

贈正四位坂本龍馬先生 贈正四位中岡慎太郎先生 銅像銘 

土佐藩士坂本龍馬先生 中岡慎太郎先生は維新回天の偉業達成の為に最も重要な業績を遺しながら、惜しくも大政奉還の後僅かに■句■■た慶応3年11月15日、旧幕士の為に京都に斃れた
坂本先生は、特に海外の情勢に鑑みて海軍操練所の設立につくし、自ら海援隊長となり、更に西郷、木戸の間を斡旋して薩長両藩を連合させ、藩主山内容堂を動かして慶応3年10月14日大政奉還の建白を実現せしめた
先生がかつて長崎に於いて後藤象二郎に示した八策が、明治天皇によって宣布せられた五ケ条の御誓文の基底をなしたことは、即ち先生の卓抜した経国の理念を知るに足るものである
中岡先生もまた陸援隊長となり坂本先生と薩長土同盟の達成を見るに至らしめた
両先生は単なる軍国主義者ではなく、始めてわが国議会政治の確立を唱え、外交の重要性を力説して、海運貿易の発達に伴う内外経済の■■と文明開化を熱望し、以て国勢の興隆に率先■■■た大先覚者であった
殊に■■先■ その■■愛■した「天我■ニ自由ヲ与ヘヨ 然ラズンバ死ヲ授ケヨ」との自作の詩の一■にある如く、わが国に於ける自由主義の先■をなし、その影響が、最も強く板垣退助に及んでいることは顕著な事実である
しかるに、両先生の建■の趣意は昭和軍閥■■がめられ、銅像も戦時中に撤去の厄に遭った
坂本先生は三十二才、中岡先生は二十九才■も■■■害されたが、その不朽の■業と高■なる識見とは永く■人の■範と仰ぐべきところであることを確信して■、ここに銅像を再建し顕彰の実を挙げんとするものである

昭和37年5月3日
撰文 京都高知県人会長 川■■■

※■は判読不明だった文字です。
(碑文は非常に読みづらい状態でした。なんとかならんものだろうか?)

坂本龍馬・中岡慎太郎像 平成19年3月17日

京都市・京都霊山護国神社でお会いしました。

坂本龍馬・中岡慎太郎の墓



坂本龍馬の墓(左)
中岡慎太郎の墓(右)

(京都市・京都霊山護国神社)




(平成19年3月17日)

坂本龍馬・中岡慎太郎の最期

徳川慶喜大政奉還劇の大作者である坂本龍馬は、洛中においては河原町三条下る材木商酢屋嘉兵衛方に寓居していたが、遭難10日前に醤油商近江屋新助方に転居した。
坂本龍馬は、当時、最も幕府側から狙われていた志士で、新撰組・見廻組らの追及が急となり、藩邸の堀内慶助らの気遣いから近江屋を選んだのが仇となった。
慶応3年(1867年)11月15日、午後6時ごろ中岡慎太郎が訪問。
この2、3時間後、会談中の彼らは刺客の襲撃に遭い、坂本龍馬は額を横に切られ、二の太刀は右の肩から左背骨にかけ、三の太刀で更に前額部を裂かれて悲痛なる一言を残して倒れた。
盟友・中岡慎太郎も前身に刀傷を負い、2日後の17日の夕方に息を引き取った。
18日、近江屋において葬儀が行われ、ここ霊山に埋葬された。
坂本龍馬にまつわる逸話として、37年後の日露戦争の最中、昭憲皇太后の夢枕にひとりの侍の影が立ち現れて「微臣坂本にございます。このたびの海戦、皇国の大勝利に間違いありませぬ。不肖坂本、皇国海軍を守護しておりますゆえご安心願いあげます」と言い残すと消えたという。
坂本龍馬。
志士中の一級志士と云っても過言ではない。

墓所
右   中岡慎太郎
左   坂本龍馬
左奥  下僕 藤吉

京都霊山護国神社

(説明板より)


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