(和田平助正勝 わだへいすけまさかつ)
寛永2年(1625年)~天和3年9月11日(1683年10月30日)
【和田平助正勝】
寛永2年(1625年)正月、茨城県水戸市代官町(現・城東2丁目5番地)に、水戸藩士・和田道也の第三子として生まれる。
和田家の先祖は甲斐の武田氏に仕え、父・道也(道勝)の代になって、甲斐から常陸に移り那珂郡に住したという。
父、道也は、正保年中に御噺衆として、水戸藩初代藩主・徳川頼房に仕え、慶安年中に江戸藩邸詰め、御庭同心頭になり、300石の禄を給せられた。
平助は生まれながらにして英敏で大志を抱き、剣を志し朝比奈夢道に学んだ。
昼夜練磨して、その奥儀を極めて、「変化神の如し」と称されたという。
15歳の時、剣の修業に旅立ち、諸国を周遊し、各地で技を磨く。
その後、田宮流居合立合派と称する流派を興して居合術中興の祖となった。
当時行われていた柳生新影流や一刀流などの剣が「動」ならば、居合は、あくまでも「静」で、精神面を重視したという。
田宮流は、両手と腰の動作で、長刀を雷光のように素早く抜き放つのを極意とした。
平助は、徳川頼房、徳川光圀と藩主二代に仕え、特に、光圀に寵愛された。
寛永年中(1624~1645)、平助は光圀の側近に仕える雑用を司る小姓となった。
正保年中(1645~1648)には、父の禄高とは関係なく、本人に対して破格の待遇をもって100石を賜った。
慶安年中(1648~1652)に小納戸役を経て、寛文元年(1661)10月24日に、新廊下番となり、渡邊伊衛門の娘を妻に娶った。
寛文3年、39歳の時に、父の隠居により家督を継ぐ。
大番頭300石の扶持となり、居合抜刀術師範役を兼務。
元和元年(1681)3月8日、息子・金五郎直勝が21歳の若さで急逝する。
平助は、金五郎に対し苛烈な剣の修業を施し、四六時中油断させず、闇の中より討ちかかったり、熟睡中を狙って討ち込んだりしたという。
金五郎はこれらの試練に耐えたが、父の練磨はますます激しさを増し、ついに耐えきれず疾を起こして急逝した。
剣に優れ、後継ぎとしても期待していた息子の急逝に、平助は我を忘れ常軌を逸した。
日ごと狂気が募り、人を危めたり、悪事が目に余るようになり、病を理由に役職も書院番頭も降ろされ、もとの大番組へと左遷されてしまった。
天和3年9月11日、藩主から放逐(追放)処分を受ける。
その理由には諸説があり明らかではない。
水戸藩では、一旦追放したものの、彼の非凡な剣技は誠に惜しいものがあると考え、急ぎ使者を出して追わせたが、すでに自害した後だった。
時に平助59歳。
自刃した平助の遺体は勝手次第となり、親族の津田弥市衛門に引き渡された。
幼少の妾腹の子は津田にお預けとされたが、天和3年9月27日に、城代家老・宇都宮下野守宅において斬罪とされた。
平助の幼児、次男介次郎は、藩法により父の罪に連座して処刑された。
6代藩主・徳川治保の時になって、平助の墓所や法事などに対して勝手次第の沙汰が出された。
自然石の墓石はあちこち欠けていたが、これは花柳界の人々が験(げん)を担いで墓石の欠片を持ち去るからで、平助の墓は常にお参りの人で賑わい線香が絶えなかったという。
天明2年(1782年)9月11日、平助の百年忌に、居合末流の門人によって碑が建てられた。
また、大正5年(1916年)に、田宮流居合術の門人らによって記念碑が建立された。
(参考:坂田暁風著 『城東歴史散歩』 茨城新聞社出版局制作 平成13年発行)
(平成23年7月30日追記)
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記念碑 (茨城県水戸市・中根寺) 和田平助平正勝先生 中観院殿道阿宗月大居士 天和3年9月11日歿 享年59歳 (平成21年2月11日) |
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中根寺千日堂 (茨城県水戸市・中根寺) (平成21年2月11日) |
碑文
来迎山中根寺は元仁元年(1224)文寛の開山と伝えられ 境内の阿弥陀堂には千体仏があり千日堂と呼ばれる常念仏の道場であった
新田宮流居合術で名声高かった水戸藩士和田平助正勝は天和3年(1683)故あって藩を追放され この千日堂の前で切腹した
その時所持した摩利支天像は他の遺品とともに右隣りの摩利支天堂に安置されている
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中根寺 (茨城県水戸市加倉井595) (平成21年2月11日) |
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