野砲兵第1連隊

(通称号:玉5920部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
東京 明治17年 第1師団 フィリピン・セブ島

明治5年1月、東京鎮台第3砲兵隊として創設。
明治9年、一ツ橋邸から市ヶ谷台に移転。
明治10年、西南戦争に出動。
明治17年、砲兵第1連隊に改編。
明治21年、野戦砲兵第1連隊に改称。
明治27年8月、日清戦争に伴い動員下令、金州城を攻略後、旅順攻略戦に参加。
明治28年、蓋平攻略戦に参加、田庄台攻撃では野戦砲兵第3連隊等の砲兵火力を統一運用し、日清戦争最大の砲撃戦を展開した。
明治37年2月、日露戦争に伴い動員下令、第2軍隷下で南山の戦闘に参加。
6月には第3軍に入り旅順攻略戦に参加し、その後北東に転じて奉天会戦に参加。
明治39年2月、国府台にて動員完結。
明治41年、世田谷に転営。
昭和11年、2.26事件直後に北満に移駐。
昭和12年6月、第3大隊がカンチャーズ島事件に出動。(7月帰隊)
7月、支那事変勃発と同時に第4大隊を混成第2旅団に配属、チャハル作戦に参加。(10月復帰下令)
昭和14年、ノモンハン事件に伴い第1・第2大隊に動員下令されるが出動準備中に停戦。
その後、北満の防衛、渡河・湿地訓練、冬季演習を行う。
昭和19年2月、第6派遣隊編成に伴い第3大隊を抽出。(グアム島にて玉砕)
7月、連隊本隊も南方派遣準備を命じられる。
上海へ集結し、当初の沖縄派遣がフィリピンに変更になり、第14方面軍隷下となる。
11月、レイテ作戦に参加、第35軍隷下となる。
11月3日、米軍がカリガラ湾に上陸、陣地奪回のため連隊主力はリモン、カタバラ付近に陣地を占領し13日から射撃を開始した。
米軍の制空権下、砲兵火力の差による悪条件下の戦闘で火砲が次々と破壊される。
12月15日、次第にリモン南方地域に圧迫され、28日に転進命令、レイテ西岸ビルアバ海岸へ撤退。
昭和20年、残存兵力は北部セブ島へ転進。
3月、米軍のセブ島への上陸に対し、残存兵力をもってゲリラ戦を実施し、自戦自活中に終戦を迎える。


鎮魂の碑



『鎮魂』の碑
(フィリピン・レイテ島・リモン峠)





(平成17年5月6日)
碑文
日本陸軍最古の栄誉に輝く野砲兵第1聨隊は太平洋戦争に於いてレイテ決戦に参加し勇戦敢斗の末聨隊長以下カンギポット山麓に玉砕した
本決戦最大の激戦地リモン峠周辺第1師団の戦斗に際し聨隊主力の陣地であった此の地を砲一台と名付け碑を祀り鎮魂の祈りを捧げると共に日比親善と世界平和の礎石たらしめんとするものである

昭和57年11月建之
砲一会
慰霊碑のある場所
リモン峠の野砲兵第1連隊慰霊碑入り口

道の右側に入り口があり、英文のプレートが設置されています。

場所は『KM976K13』の道標がある場所。
KM976はマニラから976kmということか?
K13はカナンガという町まで13kmという意味です。



(平成17年5月6日)

慰霊碑のある場所

大きな木の下に慰霊碑があります。


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