山縣豊太郎像 平成22年5月1日

山縣豊太郎 やまがた・とよたろう

明治31年(1898年)〜大正9年(1920年)

広島県広島市・鶴羽根神社でお会いしました。


山縣豊太郎像




山縣豊太郎像
(広島市・鶴羽根神社)





(平成22年5月1日)

山縣豊太郎 (1898〜1920)

出生
明治31年、広島市京橋町山縣家の三男として誕生。

入校
大正4年(1915)、伊藤飛行機研究所(千葉県)が開校され、第1期生として入校、同6年に首席卒業。

活躍
大正8年5月5日、東京遷都50周年祝賀行事の日、愛機鶴羽2号に搭乗、大観衆の見上げる上野上空に見事宙返りを敢行、日本航空史に輝く「民間人初の宙返り」を達成した。
また特筆される快挙として、翌9年4月東京・大阪間往復無着陸飛行大会に優勝、そのほか数々の飛行記録を樹立、「民間航空界の鳥人山縣時代」を到来させた。

殉難
大正9年8月、千葉県上空で連続宙返りを実行中、右上翼が空中分解、キリもみ墜落し、惜しまれる22才の若い生命を空に殉じた。

神葬祭
於東京青山斎場、大隈重信日本航空協会々長をはじめ国内航空関係者多数が参列し故人の業績を偲んだ。

(碑文より)






山縣豊太郎像
(広島市・鶴羽根神社)





(平成22年5月1日)

銅像
大正12年、その偉業を讃え、飛行服姿の銅像が彼の氏神社境内に建立されたが、戦時中供出(台座は保管)。

再建
今夏、故人の遺功を留めるため、黒御影の石像を刻み、60年振りに勇姿を再建した。

平成13年(2001)8月29日

(碑文より)

鶴羽根神社




鶴羽根神社

(広島市東区二葉の里2−5−11)





(平成22年5月1日)

【山縣豊太郎】

大正元年(1912)、奈良原三次率いる民間のグループ「奈良原飛行団」が、自ら開発した奈良原式4号機「鳳」で全国巡業飛行に出て、広島で初飛行を行った際、その興行主だった鳥飼繁三郎が叔父だった関係で「鳳」に同乗して飛行している。
山縣はこの経験がきっかけで飛行家を目指すようになった。
大正3年(1914)、鳥飼が経営していた千葉県津田沼の民間飛行研究所に入って操縦の手ほどきを受け、大正5年6月3日、アメリカ人飛行家アート・スミスの公開飛行を青山練兵場で見た山縣は、そのアクロバティックな飛行技術を習得すべく練習を重ねることとなる。
その後、東京芝浦で墜落大破した飛行機のエンジンを叔父の鳥飼からもらい受けた山縣は、飛行の師である伊藤音次郎と共に自作の飛行機を作った。
大正7年(1918)5月8日に完成したこの飛行機は山縣の氏神「鶴羽根神社」にちなんで「伊藤式鶴羽第1号機」と名付けられた。
また、伊藤飛行機研究所の製作部技術主任の稲垣知足が、日本最初の曲芸飛行専用機を設計し、大正8年(1919)4月21日に機体を完成させた。
「伊藤式鶴羽2号機」と名付けられたこの曲芸専用機に乗り、山縣は大正8年5月5日、千葉県の津田沼飛行場上空で初の宙返りを披露。
ついで5月10日に東京遷都50周年記念飛行大会において、洲崎飛行場上空で日本初の連続2回宙返りを公開して喝采を浴び、日本のスミス出現と呼ばれた。
大正8年6月21日と22日、山縣は故郷の広島でも宙返りを披露している。
白い機体の搭乗席の両側には鶴が翼を広げて飛んでいるマークが描かれていた。
憲兵隊司令部から歩兵第11連隊南門に向けて滑走し、300m走った地点で浮上、高度を上げ、高度1500mから下降して9回連続宙返りを行ったという。
大正9年(1920)4月21日、帝国飛行協会主催の東京・大阪無着陸周回飛行競技に参加し、距離840kmを6時間13分で飛ぶ新記録を出して優勝した。
しかし、その4ヵ月後の8月29日、千葉県津田沼において連続宙返りを練習中に機体の右翼が破損して墜落、弱冠23歳で死去した。

(参考:財団法人広島市文化財団広島城・編集 『広島城の近代』 平成20年2月発行)




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