明治40年(1907年)4月26日〜昭和63年(1988年)5月7日
本名は石橋貞吉。
父親は明治20年代に活躍した評論家の石橋忍月にんげつ。
長崎市出身。
慶應大学卒。
折口信夫おりくちしのぶに師事。
『俳句研究』を編集。
俳句と古典文学に精通。
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「母郷行」の碑 (長崎県長崎市・祓戸はらえど神社) (平成20年11月22日) |
母郷行 山本健吉
長崎の町を行く。雨が洸った石畳の坂道、西日のさす白壁の土蔵の前、物の匂ひのこめる市なかに、ふと少年のままたたずむ私を見る。遠い記憶の、故里のかけらの中に、少年は佇つ。
私が町を憶えてゐる以上に、町は幼い私を憶えてゐてくれた。それが故郷といふものか。いま私は、わが身を何か大きなものの手に、すっぽりと委ねてゐる。寛く深ひ母の懐ろにあるやうに。
その時遠く、潮騒のやうに聞こえてくる子守唄は、うぶすな祭の笛のね、秋空に韻く太鼓のおと。
(碑文より)
碑文
日本独自の“美”の探究に、山本健吉氏ほど己れを盡した人を知らない。
不朽の名著「いのちとかたち」を初めとする一連の仕事には、己れを盡した人だけの持つ凛乎としたものと、醇乎としたもののあるのを感ずる。
併し、氏の仕事はまだ終わっていない。
新しい山嶺を窺っている氏の今後を、同時代に生きる一人の作家として見守り続けてゆかねばならない。
そして氏の驥尾に付して、私も亦私の道を歩もうと思うのだ。
昭和59年11月
井上靖 誌す
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祓戸はらえど神社 (長崎県長崎市上西山町・諏訪神社参道) (平成20年11月22日) |
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「長中健児ここに在り」の像 (長崎県長崎市・長崎歴史文化博物館) (平成20年11月22日) |
碑文
わが長崎中学校は 今を去る百年前 明治17年奉行所立山屋敷跡に創られた 後鳴滝シーボルト塾址に移り 永く長中の愛称で親しまれ人材を輩出した その■は遠く安政5年黒船来航の物情騒然たる時 世に魁けて英語伝習所として創立 全國の若き■才を挙つて長崎の地に招き寄せたに始まる 昭和23年の学制改革でその名は絶えたが 懐しむ声いよいよ強く 同窓会長中部長次郎を始め学舎に学んだ者たち相謀って創設のこの地に記念碑建立を発起した 同窓の富永直樹 その記念像の制作に当り 創立百年のこの歳この日 めでたく除幕の式典を挙げる 同じく同窓の山本健吉 いささか茲に建碑の■辞を誌す
昭和59年11月11日
山本健吉
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「長崎縣立長崎中学校址」の碑 (長崎県長崎市・長崎歴史文化博物館) (碑文) 安政5年創立の英語伝習所を源流とする長崎縣立長崎中学校は明治17年から大正2年鳴滝に移るまでこの地に在った (平成20年11月22日) |
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