南方第12陸軍病院 戦没者慰霊碑 (愛知県幡豆郡幡豆町・三ヶ根山頂・比島観音霊場) 従軍看護婦の碑 南方第十二陸軍病院生存者一同 昭和63年三月吉日建之 (平成20年4月16日) |
天使の祈り
明治から大正昭和にかけての戦役に従軍した看護婦たちの御霊今静かにここに眠る
遠く故国に肉親恋人を残し北辺の原野に南溟のジャングルに幾十万の命を看取りながら自らは花と散って行ったうら若きおとめたち第二次大戦末期敗色濃くなるにつれ精魂尽きて禁断の河水を飲み薄化粧して死地に赴くなど酸鼻の極言うに耐えない
今ここに中有にさまよう御霊が観世音菩薩の御手に導かれフダラク浄土にとしわかのいのちを生きむとは我らが衷心の信仰である
こゝに一首を詠してうやうやしくその宝前に捧げる
ようらくの まだまもゆらに
ゆらぎつつ
ひびけさやかに
おとめらのために
部隊略歴 |
昭和16年12月
「リンガエン」上陸〜「マニラ」。
【隷下部隊】
第75兵站病院
第95兵站病院
第116兵站病院
移動治療班(この部隊のみバターン作戦に参加)
以上の部隊をもって編成。
総員1,982名。
隷属:第14方面軍兵站監部
病院長 | 中将 | 中島 晴彦 | 編成時 |
少将 | 石井 正巳 | 終戦時 | |
分院長 | 大佐 | 西 正中 | バギオ分院第2分院 |
中佐 | 大庭 武雄 | 第2分院 | |
少佐 | 真部 義雄 | 第3分院 | |
中佐 | 川崎 一郎 | ||
少佐 | 徳岡 三郎 | ||
病院付 | 大佐 | 桂田 角太郎 | |
中佐 | 中村 計起 | ||
中佐 | 伊藤 哲夫 | 庶務・復員後病死 | |
中佐 | 玉村 一雄 | ||
中尉 | 荻 伊吉 | 庶務 | |
少尉 | 脇 正 | 人事係 | |
ロスバニオス療養所 | 所長:望月少佐 田中大尉・淡路大尉 |
昭和19年12月中旬以降、戦況の変化によりバギオ分院(西正中大佐)を充実すると共に、在マニラ入院患者を列車及び自動貨車(トラック)によりバギオに輸送する。
同時期、マニラ第3分院(真部義雄少佐)は第78兵站病院をバギオに転進。
12月25日、同地分院を本院に改編する。
輸送機関の不足のため、この転進は職員及び入院患者の大部分は徒歩行軍。
すこぶる困難を伴い、昭和20年1月5日に患者が、1月11日に職員がバギオに集結した。
昭和20年1月20日、在バギオ第74兵站病院の一部を引き継ぎ、第3分院を開設する。
1月23日、開設直後、米軍の大爆撃により約300名の戦死者を出し、患者名簿等重要書類を焼失。
第3分院を閉鎖。
昭和20年3月16日「ファームスクール」に転進。
以後、6月10日までの間に約3,000名の患者を収容。
うち、約500名病死、約50名戦死。
70名を第139兵站病院に引継ぎ、残置して治療を続行させる。
6月11日、主力はキヤンガンに向かい転進。
残置者は重症者のため殆んど病死したものと思われる。
6月11日から17日の間、キヤンガンにおいて約500名の患者を収容。
うち、200名爆死、100名は「マゴック」への行動中に追及せず、病死したものと思われる。
6月22日〜7月21のマゴック駐留の間に、岩治中尉以下36名を臨時歩兵第26大隊へ派遣する。
7月には未将校以下約50名を貨物廠に派遣。(過半数が損害を被った模様)
7月末には下士官以下約35名を臨時歩兵第28大隊(?)に派遣。(その後全く消息なし)
7月25日〜27日、第3レストハウスに位置する。
この間、追及患者の捜索に任じた将校以下60名をトッカンの虎兵団(第19師団)に派遣。
7月29日、カラサバンに到着。
8月下旬までに患者約70名死亡する。
8月下旬、第3レストハウスに転進、終戦となる。
比島戦没 従軍看護婦之碑 (フィリピン共和国ルソン島バグサンハン・比島寺) 横浜市 岩崎秋子 昭和63年10月9日建立 (平成18年11月2日) |
比島寺 (フィリピン共和国ルソン島・バグサンハン) (旅日記参照) (平成18年11月2日) |
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