第302海軍航空隊


【第302海軍航空隊】

開隊:昭和19年3月1日
機種:局地戦闘機、夜間戦闘機
最終所属:第3航空艦隊第71航空戦隊
解隊:終戦

神奈川県の厚木航空基地に展開して関東地区の防空に当たった。
機種は、局地戦闘機「雷電」、夜間戦闘機「零戦」「月光」「銀河」「彩雲」で、いわゆる斜め銃を装備した。

昭和19年11月末からサイパン発のB29による東京空襲が始まった。
302空の迎撃は果敢な体当たりなども実施されたが、機体のほどの戦果はあがらなかった。
4月から約1か月間、約半数の主力が南九州に展開して沖縄特攻を支援。
また空襲の重点が阪神地区に移ったことに呼応して、伊丹基地に約20機を展開して迎撃した。
その間の飛行機の損失は大きく、5月末にはわずか10機前後となった。

8月15日午前、「雷電」4機と「零戦」8機がグラマン6機と空戦し、4機を撃墜されながらも1機を撃墜した。
その直後に終戦の玉音放送が流れた。
小園司令は徹底抗戦を主張し、共鳴した一部の航空隊が厚木に飛来したが、周囲の説得と司令自身の“発狂”とにより、武装解除が進められた。

(参考:『別冊歴史読本 零戦と日本航空戦史』 新人物往来社 1996年11月発行)

(令和元年11月20日 追記)


厚木空神社



厚木空神社
(神奈川県大和市・深見神社)





(平成20年9月27日)
雄飛の碑



厚木空神社・雄飛の碑
(神奈川県大和市・深見神社)





(平成20年9月27日)

碑文

第302海軍航空隊は昭和19年4月勇将小園安名司令のもと厚木基地に雷電 零戦 彗星 月光 銀河の精鋭機を擁し本土防衛部隊として編成された
同年11月 B−29来襲に始まる防空戦斗において 302空は勇戦奮斗 昼夜をわたず来襲する米空軍を迎え撃って B−29 P−51 F6F等多数の米軍機を撃墜破する戦果を挙げ 小園部隊の雷名を天下に轟かせた
又終戦時 徹底抗戦を叫び世に言う厚木事件を起こした部隊としても知られている
終戦に至るまでの戦斗において数多くの隊員を失ったが 戦没者は海軍葬をもって基地内の厚木空神社に祀られた
終戦後 同神社の神殿は大和市深見神社の境内に奉遷され 地元出身戦没者の英霊を合祀して靖国社となり今日に及んでいる
戦没者の霊を慰め302空の名を永く留めるためこの地に之を建てる

昭和55年4月
第302海軍航空隊関係者建之

深見神社



深見神社
(神奈川県大和市深見3367)





(平成20年9月27日)

【「銀河」の本土防空戦】

「銀河」の戦闘機型は斜銃を搭載したものと、「極光」と呼ばれた火星エンジンを搭載したものがあったが、いずれも第302海軍航空隊(302空)に配属されていた。

初戦果は昭和20年1月23日の邀撃戦。
「銀河」は大型機用の三号爆弾を用いてB−29を撃墜した。
機長の浜野大尉は大正時代から飛んでいる超ベテランで、司令の小園大佐が発案した斜銃の実現にも一役買った人物である。

斜銃が真価を発揮したのは、昭和20年4月2日の夜戦。
島津隆三飛曹長機が20ミリ斜銃で数機を撃墜。
また、山本利丸飛曹長機は、5月24日と26日に撃墜を記録した。

終戦までに302空の「銀河」は約10機を撃墜・撃破したと言われている。

(参考:雑誌『丸 2013年4月号』)

(令和元年12月13日 追記)


小園大佐の反乱

厚木基地司令の小園安名大佐が、8月15日に関東地方の陸海軍基地へ檄を飛ばし徹底抗戦を叫んだ。
さらに「厚木に接近する航空機は、たとえ味方機でも撃墜する」と発言していた。
厚木に展開する第302航空隊(人員約6000人)は、内地防空を目的として設立されており、各航空隊から空戦のエースたちが集められ、地下整備工場を始め、施設も要塞化されていた。
食料の備蓄も2年分はあるとされていた。
高松宮が二度にわたって電話で説得を試みたが、小園は応じなかった。
海軍総隊司令長官兼連合艦隊司令長官・小沢治三郎大将は、同部隊を反乱部隊と断定し、鎮圧を命じた。
横須賀鎮守府の警備部隊が厚木へ急行し、基地を包囲。
この時、小園は持病のマラリアが再発し、高熱と興奮のため半狂乱になっていた。
直属上司の第3航空艦隊司令官・寺岡謹平中将は、警備部隊の実力行使に極力反対。
8月21日、軍医長が小園に鎮静剤を注射し、極秘に横須賀野比海軍病院へ搬送した。
同日、「302航空隊武装解除」「復員命令」が発せられた。

小園は、昭和20年10月16日、横須賀鎮守府臨時軍法会議で「党与抗命罪」で失官、無期懲役刑が言い渡され、昭和25年12月5日まで服役した。
(昭和20年11月1日、陸海軍刑務所廃止により横浜刑務所に移送)
この間、旧部下たちが小園を「海軍の西郷隆盛」と慕い、減刑復官運動を強力に推進している。
小園は、昭和60年11月25日に脳溢血で死去するが、旧部下たちはその後も年1回会合を開き小園を偲んだ。

(参考:惠隆之介著『敵兵を救助せよ!』)




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