愛知揆一像 平成21年11月9日

愛知揆一 あいち・きいち

明治40年(1907年)10月10日〜昭和48年(1973年)11月23日

宮城県仙台市・仙台城でお会いしました。


東大卒。
大蔵省に入り大臣官房長などを歴任。
昭和25年(1950年)参議院議員、昭和30年(1955年)衆議院議員になる。
吉田茂に評価され、昭和28年(1953年)には池田勇人・ロバートソン会談の日本政府代表となる。
以後、歴代内閣で通産相・法相・外相・蔵相などを歴任する。
佐藤栄作内閣の外相時代には沖縄返還交渉に尽力した。
昭和47年(1972年)田中角栄と福田赳夫が争った自民党の総裁選挙では田中を支持。
田中内閣を蔵相として支えたが、第一次石油危機による混乱の中で急逝した。


愛知揆一像

愛知揆一像
(宮城県仙台市・仙台城本丸跡)

制作 佐藤忠良 宮城県丸森町出身
題字 愛知揆一先生顕彰会会長 黒川利雄
施行 現代彫刻センター
建立 昭和54年11月23日


(平成23年11月9日)

碑文

天は時において人を呼ぶ 沖縄返還交渉の立役者が外務大臣愛知揆一先生であったことは 周知の事実である
相手役ロジャース米国務長官は ニクソン大統領と米国議会に対し 日本の愛知は最も信頼と尊敬に値する政治家である と証言した
この信頼と尊敬が 世界の外交史上に残る不朽の大事業沖縄祖国復帰を実現させるに至った
正に天はこの難局に当って 先生を呼んだと言うべきである
先生は 明治40年10月10日東北帝国大学教授愛知敬一博士の長男として誕生
宮城師範学校付属小学校 宮城県立仙台第二中学校 第二高等学校を経て 東京帝国大学法学部を卒業
昭和6年大蔵省に入り 同22年銀行局長 25年参議院議員に当選 29年通産大臣兼経済審議庁長官 翌30年2月以来 衆議院7期連続当選 その間 内閣官房 法務 自治 文部 科学技術 外務 大蔵の各省大臣各庁長官を歴任した
昭和48年11月23日 大蔵大臣として病を冒して国際会議に出発する当夜 忽然として逝去 誠に政治活動の劇的な終焉であった
生前の勲功により従二位勲一等旭日桐花大綬章を授与される
先生は 国家に対し多大の貢献をしたのみでなく こよなく郷土を愛し 宮城県に遺した恩恵もまた計り知れない
ここに郷党相寄り その偉業を賛仰しその遺徳を思慕し 先生ゆかりのこの地に像を建て 永遠に先生を顕彰する

昭和54年11月23日
愛知揆一先生顕彰会


【阿片と自民党】

戦前官僚だった人物が満洲で阿片売買に何らかの形で関わり、戦後は自民党を牽引していく政治家となっている例は岸信介の他にもある。
大蔵官僚として興亜院に書記官として出向していた愛知揆一は、昭和14年4月に北京で開催された会議で、「阿片密売利益の使途が外部、特に欧米諸国に漏洩しないように」と発言している。
愛知は戦後は大蔵省で官房長、銀行局長などを歴任し、政治家に転身してからは岸内閣で官房長官、田中内閣では蔵相を務める。

(参考:『文藝春秋 2011年12月号』)

(平成24年10月5日追記)




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