吉田茂銅像 平成16年1月27日

吉田茂 よしだ・しげる

明治11年(1878年)9月22日〜昭和42年(1967年)10月20日

東京都千代田区 北の丸公園でお会いしました。


実父は土佐の自由民権家の竹内綱たけのうち・つな、養父は横浜の貿易商吉田健三。
東京大学を卒業し、外交官試験に合格。
田中義一内閣の東方会議に出席。
駐英大使を最後に、昭和14年(1939年)外交の第一線から退きました。
第二次世界大戦中は反政府活動の嫌疑で憲兵隊に拘置されたこともありました。
戦後は、東久邇ひがしくに内閣、幣原しではら内閣の外務大臣となりました。
公職追放を受けた鳩山一郎の懇請を受けて、日本自由党総裁として組閣、占領期から講和・独立期の政治運営にあたりました。
軽軍備・経済重点の政治・外交指導のスタイルは、のちに吉田ドクトリンと称されました。


吉田茂銅像




吉田茂銅像





(平成16年1月27日)

碑文

古来各國史上名相賢宰星羅照映スト雖モ昭和曠古ノ大戦ニ社稷傾覆生民塗炭ノ苦悩ニ方リ萬世ノ為ニ太平ヲ開クノ聖旨ヲ奉シ内外ノ輿望ヲ負ウテ剛明事ニ任シ慷慨敢言英邁洒落能ク人材ヲ舉用シ民心ヲ鼓舞シ以テ復興ノ大義ニ盡瘁セシコト公ノ如キハ實ニ稀代ノ偉勲ト謂フベシ後人相謀ツテ茲ニ厥ノ像ヲ建テ長ク高風ヲ仰カント欲ス亦善イ哉

昭和56年9月

船越保武 作
安岡正篤 文
桑原翠邦 書


明治11年9月22日に土佐に民権運動の活動家であった竹内綱の五男として東京で生れる。
3歳の時に竹内の同志であった横浜の貿易商・吉田健三の養子となった。
吉田茂は反軍部、反ドイツ、反共産であり、ヒットラーやムッソリーニという伝統や秩序を無視する人間を心底から嫌っていた。
英国大使を退任して帰国してから、吉田茂の反ドイツ、親英米の体質が陸軍上層部の反感を買い、憲兵隊から「要視察人」という扱いを受けていた。
そのため、他人に伝達したいことは、執事の安斎という老人に書簡を持たせて決して本人以外には手渡さないという手段をとっていたという。
吉田茂は昭和に入って一貫して対英米戦に向かう政策に反対続け、開戦前には駐日英国大使・クレーギーや駐日米国大使・グルーと連絡をとり、日米英の和解工作に奔走した。
開戦後の昭和17年2月のシンガポール陥落時にも近衛文麿や木戸幸一に和平工作を進言している。
ミッドウェー海戦の敗戦後は和平交渉の出来る指導者として陸軍の長老・宇垣一成に期待をかけていたという。

参考文献:保阪正康著「幻の終戦〜もしミッドウェー海戦で戦争をやめていたら〜」

(平成17年1月31日記)


実父・竹内綱

天保10年(1839)高知藩家老の伊賀家の家臣の家系に生まれる。
明治維新に身を投じたが、薩摩・長州などが明治政府の主導権を握ると、土佐立志社の活動家として活躍し、自由民権運動に加わる。
明治11年、政府転覆を企てたとして逮捕される。
これは、西郷隆盛の挙兵に応えて、大阪城を乗っ取ろうとした計画だったという。
獄中にいる時に五男の茂が生まれ、その面倒を友人の吉田健三がみた。
明治23年(1890)帝国議会の開設で、高知県から衆議院議員となる。
しかし、政治家より実業家としての才覚があったという。
高島鉱山の経営やソウル・釜山間の京釜鉄道の社長として活躍している。

養父・吉田健三

嘉永2年(1849)福井藩士の長男として生まれる。(竹内綱より10歳年下)
維新のさなかに脱藩して、大阪で医学、長崎で洋学を学ぶ。
慶応2年(1866)イギリスの軍艦に便乗してイギリスへ行き2年間滞在する。
帰国後、横浜でジャーディン・マセソン商会の支配人となり、その後実業家として成功する。
明治5年、東京日日新聞の創刊に関わったことで、竹内綱との関係が始まる。
子供がいなかったので、竹内綱が獄中にいた時、茂の面倒をみ、生後9日目に養子として迎える。
海運代理業、不動産、新聞などの事業に乗り出し成功を収めるが、明治22年(1889)40歳でこの世を去る。
(吉田茂11歳)
莫大な遺産を養子の茂に残す。(茂が死去した昭和42年の額で約20億円といわれる)

養母・吉田士子ことこ

幕末の儒学者で高名な佐藤一斎の孫娘。
熱心な浄土宗の信者で、学者の家に生まれ学問の素養のあったことから、かなり気位の高い人だったという。

少年時代

明治22年(1889)、10歳の時、藤沢の寄宿制私立中学校「耕余義塾」に入学。
明治27年(1894)、16歳の時、「耕余義塾」を卒業し、東京麻布の日本中学に入学。
杉浦重剛の経営する日本中学では、漢籍・漢文の知識を身に付ける。
明治28年、高等商業学校(現・一橋大学)に転校するも、3ヵ月後には正則尋常中学校に転入。
明治29年、東京物理学校(現・東京理科大)に入学。
明治30年(1897)、学習院中等科6年級に編入。
明治37年、東京帝国大学法科に編入。
明治39年(1906)、帝大政治学科を卒業し「外交官及び領事官試験」を受験、合格する。
同期卒業の広田広毅は、この試験に11人中トップで合格。吉田茂は7番目の成績で合格。

外交官時代

明治40年 2月 28歳 奉天在勤を命じられる。
明治40年 3月 領事官補、奉天領事館在勤
奉天は、満洲の中心に位置し、当時の対支・対露政策の最重要地域
総領事萩原守一は山県有朋の縁戚。明治44年、ガンで43歳で没す。
萩原総領事の影響を強く受ける。
明治41年10月 帰国
明治41年11月 30歳 ロンドン在勤を命じられる。
明治42年 3月 外交界の長老・牧野伸顕の長女・雪子と結婚。
ロンドンに赴任
駐英大使は加藤高明。
明治42年12月 31歳 三等書記官、イタリア在勤を命じられる。
明治43年 3月 ローマに赴任
イタリア万国博覧会の仕事に携わる。
明治45年 6月 帰国
大正元年 8月 33歳 安東領事
日支合弁の採木公司の事業計画・朝鮮人学校の経営に関する任務。
ソウルの朝鮮総督・寺内正毅の秘書も兼ねる。
大正 5年11月 帰国
大正 5年12月 ワシントン大使館赴任の辞令が出るが、赴任直前に取り消される。
対支21ヶ条問題に批判的姿勢を取ったことに対する報復人事。
大正 6年 7月 38歳 大臣官房文書課長心得
「本省でも一番の閑職」という身分に追いやられる。
大正 7年 2月 39歳 済南領事
青島守備軍民政部事務官を兼任
大正 8年 1月 第一次大戦終結後のパリ講和会議随員(牧野全権の秘書官)
大正 9年 6月 41歳 在英大使館一等書記官、ロンドン在勤
日英同盟が失効する。
大正11年 3月 43歳 天津総領事
天津は日本の北支那駐屯軍の本拠地。
大正14年10月 47歳 奉天総領事
昭和 2年 6月 田中義一首相兼外相主宰の東方会議に奉天総領事として出席。
張作霖に対する強硬策を展開する。
(吉田は相当な張作霖嫌いだったという)
昭和 3年 7月 49歳 外務事務次官
田中総理へ自薦運動で手にしたという。
田中総理総辞職後成立した浜口雄幸内閣でも次官に留任。
ロンドン軍縮条約成立のため奮闘。
昭和 5年12月 52歳 駐伊(イタリア)大使
ムッソリーニに不快感を抱き、イタリア大使としてはあまり仕事せず。
昭和 7年 9月 帰国
内田康哉外相から駐米(アメリカ)大使に推薦されるが辞退する。
昭和 7年12月 特命全権大使として満洲国、中華民国へ視察旅行。
昭和 9年10月 第1回外務査察特使としてヨーロッパ各地を訪問。
昭和10年11月 3年間にわたる待命を解かれて退官。
昭和11年 4月 57歳 駐英(イギリス)大使
陸軍の反対で広田弘毅内閣の入閣(外務大臣)に失敗。
広田総理の心遣いで駐英大使となり再び外交官生活に戻る
日英同盟の復活を画策。
昭和13年11月 帰国
昭和14年3月 60歳 退官し外交官生活に終止符を打つ。

退官後

表舞台から姿を消すが、日独伊軍事同盟阻止・米英との戦争回避に向けて動く。

親米英派の外交官僚やグルー米大使、クレーギー英大使と接触を重ねる。
さらに、元老の西園寺や牧野、あるいは米内光政山本五十六などの海軍良識派などとともに、三国軍事同盟の阻止に努力している。
昭和17年2月の日本軍のシンガポール占領・6月のミッドウェー海戦大敗を和平工作(近衛文麿をスイスに派遣して和平工作をする)を進めるチャンスとして、木戸幸一内大臣に和平を打診した。
しかし、この近衛スイス派遣案は、木戸幸一の段階で握りつぶされ、実現せずに終る。

吉田らの反戦グループは、近衛から鳩山一郎、真崎甚三郎、植田俊吉らで、これに古島一雄、牧野伸顕、若槻礼次郎らの重臣、ジャーナリストの岩淵辰雄が連絡係として加わっていた。

昭和20年4月、憲兵に拘引され、40日間の獄中生活を送る。

政治家時代

昭和20年 9月 66歳 外務大臣
東久邇稔彦内閣の重光葵外相が事情があり辞任。
よって急遽、宮様からの要請で外相に就任する。
昭和20年10月 東久邇内閣総辞職。
幣原喜重郎内閣が成立し外相に留任。
GHQの財閥解体に反論。
昭和21年 4月 幣原内閣総辞職。
第一党の自由党・鳩山一郎組閣に入るがGHQより公職追放を受け流産。
昭和21年 5月 67歳 内閣総理大臣
旧憲法に従い、第一党・自由党の総裁に就任することで総理就任の資格を得る。
大命降下によって内閣総理大臣(外務大臣、第1・第2復員相兼務)となる。
昭和21年 6月 憲法改正を審議する第90臨時会議(衆院本会議上程)を開催。
昭和21年11月 新憲法可決、公布式開催。
昭和22年 4月 総選挙
初めて立候補する。(実父の故郷・高知から立候補)
昭和22年 6月 片山内閣成立(社会・民主・国協、3党連立内閣)
昭和23年 2月 社会党内部の混乱で片山内閣総辞職。
芦田内閣成立(3党連立継続)
昭和23年 3月 民主党と自由党が合同して民主自由党が結成される。
民主自由党総裁に就任。
昭和23年10月 「昭電疑獄」事件で芦田内閣総辞職。
衆議院・首班指名投票で第二次吉田内閣成立。(議会1/3の与党単独政権)
昭和23年12月 泥酔した蔵相・泉山三六が民主党の山下春江代議士に抱きつき頬にキス。
国会はじまって以来の破廉恥事件のため内閣不信任案可決、衆院解散。
(なれあい解散)
昭和24年 1月 総選挙で民自党が過半数を獲得。
昭和24年 2月 第三次吉田内閣成立(民主党との保守連立)
GHQからの要求は「反共」と「自立」
昭和25年 3月 民自党が民主党の連立派を吸収して自由党を結成。
総裁に就任。
昭和26年 9月 サンフランシスコ講和条約の首席全権として出席。
講和条約を締結。
昭和27年 8月 臨時国会召集後、抜き打ち解散。
(政界復帰した鳩山一郎へ対する牽制)
第四次吉田内閣成立。
昭和28年 2月 衆議院予算委員会にて「バカやロー」発言。
(「バカヤロー解散」後第五次吉田内閣成立)
昭和29年12月 内閣総辞職。
(「反吉田」の台頭)
自由党総裁に緒方竹虎就任。鳩山内閣成立。
昭和30年11月 保守合同で自由民主党が成立。
(自民党には不参加)
昭和38年まで衆議院議員として政治生活を続ける。

政界引退後

昭和38年、台湾の国民政府と中国を巡る政治問題処理のため、池田勇人総理の要請で台湾へ飛ぶ。
台湾の国民政府との親善関係の修復に貢献。
昭和39年(1964)4月、マッカーサー元帥(享年84歳)の葬儀に出席のためアメリカへ飛ぶ。(吉田86歳)
昭和39年5月、大勲位菊花大綬章授与。
昭和42年、10月20日午前11時50分、大磯の自宅で89歳の生涯を閉じる。
10月31日、日本武道館で戦後初の国葬がとりおこなわれた。

ひとつの評価

戦後の一番つらい時代を、身をこなにして天皇制存続のために働いた吉田に対し、昭和天皇は「吉田総理は非常に一貫性のある、継続性のある人だった。視野の広い人だった」と、歴代の総理の中では、最大の信頼をおいた人物であることを語ったという。

また、吉田茂は戦後に伊勢神宮を最初に参拝した総理大臣でもあった。

参考文献:塩澤実信著「人間 吉田茂」

(平成17年8月6日追記)


吉田茂は反戦主義者か?

吉田茂の軍人嫌いは自他共に認めるところで、戦時中の軍部との確執はよく知られていた。
終戦直前の昭和20年4月、吉田は近衛上奏文の存在を憲兵隊に察知され、40日間の拘留を受けたことがある。
さらにその3年前の昭和17年2月から木戸幸一内務大臣に英米との和平工作を打診していた経緯があった。
結局吉田はこの2つの事例を元に反戦主義者だったことを主張し、GHQによる追放令を逃れ切った。
確かに吉田は、軍人、軍隊を嫌っていた。
だが決してハト派の政治家ではなかったし、軍隊の存在そのものを否定していたわけでもない。
むしろ、「軍人が政治や外交に介入することを嫌った」と見るべきだろう。
外務省時代の吉田は、逆に軍事行動を政治的に利用することには積極的だった節がある。
一例に、吉田が奉天領事から帰省の直後に起案した長文の対支対満蒙政策の一新を主張した覚書(1928年4月27日付)を挙げることができる。
この覚書は2つの事件(張作霖爆殺事件と満州事変)をあえて肯定している。
予言と言ってもいい。
しして吉田茂がこの覚書を発表したまさに37日後の昭和3年(1928年)6月4日、その直前まで吉田が総領事を務めていた奉天において張作霖は日本の軍部(主犯・河本大作大佐)によって爆殺されるのである。

戦後、GHQの内部で吉田茂追放の議論がなされていたことは、CIS(民間諜報局)の作成したメモからも明らかになっている。
CISでは具体的に、1927年の「東方会議」において、当時奉天総領事だった吉田茂が森恪や植原悦次郎と共に外務省側の代表を務めたことを挙げている。
東方会議とは外務省、陸軍、関東軍による対中国政策を決定する代表者会議で、CISのメモは「東方会議で日本のアジア膨張主義計画が始まった」と断じている。
その翌年に吉田茂は覚書を発表し、間を置かずに張作霖爆殺事件が勃発。
さらにその直後に吉田は外務政務次官の森恪(政友会)により、外務事務次官に異例の大抜擢をされた。
つまり、CISは吉田茂を、張作霖爆殺事件から日中戦争に至る流れの中で、「外務省側の首謀者の一人」に位置付けていたことになる。

だが、公職追放を逃れた吉田茂は昭和21年5月22日、第一次吉田内閣を組閣。
以後マッカーサーやG2のチャールズ・ウィロビーと急速に接近していく。
中でもウィロビーとの仲は蜜月だった。

(参考:柴田哲孝 著『下山事件 最後の証言 完全版』祥伝社文庫・平成19年8月第2刷)

(平成22年8月28日追記)


吉田追放案

戦後、東久邇ひがしくに内閣、続いて幣原しではら内閣の外相を務め、いよいよ吉田茂は首相の座につくことになったが、連合国軍総司令部(GHQ)の情報機関が「吉田追放」を主張していた。
まさに、吉田に昭和天皇の「大命」が降下したちょうどその当日、GHQの参謀第2部(G2)民間情報局(CIS)が、「吉田茂は1946年1月4日付の連合国軍最高司令官(SCAP)指令(公職追放令)の付表G項第3節に相当する」との秘密メモを作成していた。
G項第3節とは、「日本の侵略計画において、政府で積極的かつ主要な役割を演じた者、あるいは演説、著述、行動により自らが軍事的国家主義および侵略の積極的な主唱者となった者」とある。
もし、CISの秘密メモ通りに吉田追放の主張が認められていたら、吉田茂は首相になることはできなかった。
実際には、吉田は“暗闘”を戦い抜いて、追放を免れ、その後5次にわたって首相を務めた。
吉田は今では、戦後日本の「再建の恩人」の一人として尊敬を集めている。
米国の軍備増強要求に抵抗し、経済開発を優先させた政策は”吉田ドクトリン”と呼ばれている。
やがて、吉田は「吉田追放」を主張した秘密メモの筆者本人や、さらに初代の米中央情報局(CIA)東京支局長ら米情報機関の幹部と親交を結ぶことになる。
吉田は、アメリカ情報機関との協力の基礎を築くとともに、内閣調査室、公安調査庁といった日本の情報機関を発足させた。
そして、米情報機関との親密な関係は吉田の権力維持の基盤の一つとなったのである。

(参考:春名幹男著 『秘密のファイル(下) CIAの対日工作』 共同通信社 2000年発行)

(平成27年6月28日追記)


東方会議

吉田茂が、GHQの参謀第2部・民間情報局(CIS)の秘密メモで問題にされたのは、吉田が1927年(昭和2年)に開かれた東方会議のリーダーの一人だったことだ。
「東方会議で日本のアジア膨張主義計画が始まった」とCISの秘密メモは明記している。
当時の首相は田中義一で、外相を兼任していたので、事実上外務省を牛耳っていたのは外務政務次官で政友会の有力者、森格かくだった。
吉田は当時、奉天領事で、いわゆる「満州経営」に積極的に従事し、翌1928年(昭和3年)に昇格して外務事務次官となった。
秘密メモは、田中義一内閣の外交政策に関与したトップを森格、吉田茂、植原悦二郎(外務参与・政友会衆院議員)の3人と指摘している。
東方会議とは、中国政策に関与した外務省、陸軍、関東軍の中央と出先機関のトップを集めて昭和2年6月27日から7月7日まで開かれた会議。
最終日に、田中首相兼外相は「権益自衛」の方針を示した「対支政策綱領」を発表した。
CIS秘密メモは「会議をリードしたのも、森格、吉田茂、植原悦二郎」と明記している。
更に、田中内閣で成立した治安維持法の中に死刑条項が設けられたことについて、CIS秘密メモは「吉田が関与した」とも書いている。
治安維持法は、東方会議で決めた膨張主義政策を展開するのに備えて「リベラル思想を抑圧するのが目的」だったという。

(参考:春名幹男著 『秘密のファイル(下) CIAの対日工作』 共同通信社 2000年発行)

(平成27年6月28日追記)


鳩山一郎追放劇

1946年4月10日の戦後初の総選挙の結果、衆議院で過半数を制した政党はなく、進歩党の幣原喜重郎は多数派工作に失敗して、4月22日、内閣総辞職した。
これに代わって、第一党、自由党の鳩山一郎総裁が有力な次期首班として浮上した。
鳩山は5月3日、首相官邸に幣原を訪ね、社会党との政策協定の成立を伝えた。
幣原は吉田と協議し、マッカーサー司令部の了解を得るための手続きを開始したが、GHQは5月4日朝、日本政府に対して「鳩山追放」(公職追放)を通達したのである。
吉田は回想録に「鳩山一郎君の追放は全くの寝耳に水だった」と書いているが、この回想はかなり疑わしい。
4月10日の総選挙後、鳩山の公職適格性に疑問が出たので、GHQは終戦連絡中央事務局に鳩山の再審査を通告したとGHQ覚書は明記しているのだ。
GHQは、日本政府側からは何らの釈明や処分も行なわれなかったので、事実確認の上、鳩山を追放した。
吉田は外相兼終戦連絡中央事務局総裁であり、当然この再審査通告のことを知っていたはずである。
しかし、総選挙から追放発表までの約3週間、吉田茂が鳩山一郎追放を回避するため動いた形跡はない。
鳩山は、その後、首相となる芦田均や片山哲とともに大政翼賛会に反対し、1942年の翼賛選挙で非推薦で当選した経歴があった。
その点を挙げて、公職追放は不当、と反論することも出来たはずだが、吉田が鳩山に反論するようアドバイスした事実はない。
吉田は巧妙に自分の政治目的に公職追放を利用したとみられている。

(参考:春名幹男著 『秘密のファイル(下) CIAの対日工作』 共同通信社 2000年発行)

(平成27年6月28日追記)


暴言

吉田茂は日本国内では、政敵や反対勢力には毒とトゲのある罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせ、何度も大きな問題を引き起こした。
1947年元旦のラジオ演説で、スト労働者のことを「不逞ふていの輩やから」(けしからん連中)と呼び、逆に労働運動の火に油を注いだ。
1950年の講和論議で全面講和を主張した南原繁東大総長のことを「曲学阿世きょくがくあせいの徒」(学を曲げ、世俗におもねて、人気取りの説を主張する人物)と決めつけた。
1953年の衆議院予算委員会で西村栄一議員(社会党)の質問に対して「バカヤロー」を連発し、結局衆議院解散となった。
しかし、吉田はアメリカ政府要人らに対しては、意図的に、毒のない好人物を演じ、極めて巧みにアメリカ政府に食い込み、人脈を形成した。

(参考:春名幹男著 『秘密のファイル(下) CIAの対日工作』 共同通信社 2000年発行)

(平成27年6月28日追記)


吉田茂の評価

マッカーサーは1948年当時、吉田のことを「大変な怠け者で政治に不適格だ」とまで決め付けていた。
1948年11月1日付で、カナダ代表部のハーバート・ノーマン首席代表は、オタワの外務省に送った秘密外交電報で「吉田の性格についてのマッカーサー元帥の言、穏やかで古風なタイプの日本人で、政治や経済に無知である、という説明は、昨日、私が受けた印象によって裏付けられました」と伝えた。
1953年当時、GHQ防諜部隊(CIC)がまとめた吉田個人に関する秘密ファイルでは「誇り高く、頑固で、非妥協的な保守。1946年に最初の内閣を率いて以来、思考も行動も自分独自、との評判。マッカーサー元帥らGHQのトップと対抗できる唯一の日本人政治家との評判。ほとんどの場合、民政局(GS)を通じないで、マッカーサーと直接協議するとされている」と、日本国内での評判を紹介しているが、アメリカ側の見方とは落差がある。
「首相は、威厳のある控えめなマナーで、静かで目立たない小男と記録されている。彼は、正式で流暢な英語を話す。聡明というよりも勤勉で規律正しい。・・・・強い愛国心と伝統的な国家制度への忠誠、鋭い舌鋒、文学好み、葉巻好き、美食ぶりから『日本のチャーチル』と言われるが、チャーチルのような手腕はまったくなく、議会での作戦と論議を楽しむこともない。・・・・・」
吉田は日本では、生前から「日本のチャーチル」と評されたりもしたが、実際にはチャーチルに比較できるような人物ではないとCICはみており、米情報機関も吉田の政治家としての能力を評価していなかった。
だが、吉田は、反共色が濃い参謀第2部(G2)の強力な支持を獲得することには成功した。

(参考:春名幹男著 『秘密のファイル(下) CIAの対日工作』 共同通信社 2000年発行)

(平成27年6月28日追記)


ケーディス追放作戦

連合国軍総司令部(GHQ)の民政局(GS)次長のチャールズ・ケーディス大佐は、憲法起草作業で中心的な役割を演じ、戦争放棄を盛り込んだ9条や、象徴天皇制に直接かかわった。
公職追放、内務省改革、地方自治、警察制度の民主化を進め、参謀第2部(G2)のウィロビー少将としばしば対立した。
ケーディスはある日本女性と知り合い、愛し合った。
鳥尾子爵夫人の鶴代である。
2人は幣原喜重郎内閣の書記官長・楢橋渡が主催するGHQ高官相手のパーティーで初めて会った。
ケーディスには米国に残してきた妻が、鶴代には夫と子供がいたから、今で言う不倫関係だった。
鶴代は昭和60年(1985年)になって、赤裸々な自叙伝を出した。
GHQ内でウィロビーがケーディスを追放することは力関係からみて簡単なことではない。
下手をすれば、マッカーサー元帥の逆鱗に触れて自分自身の命取りになってしまう危険さえある。
吉田は参謀2部(G2)のウィロビー少将と気が合い親しかった。
その反対に、吉田とリベラル改革派のケーディスの民政局(GS)はしばしば対立関係に陥った。
吉田にとってもケーディスは邪魔者だったのである。
そこでウィロビーに代わって吉田茂がケーディス追放工作に乗り出したようである。
吉田は内務省調査局長・久山秀雄を通じて警視庁にケーディス調査を依頼した。
また、当時、米誌『ニューズウィーク』外信部長としてしばしば訪日し吉田と親交があったハリー・カーンも吉田首相本人の意向で、ケーディスの女性関係を調べ、証拠写真を撮っていたようである。
カーンは、占領時代、ニューズウィーク誌のコンプトン・パナケム東京支局長と一緒に、マッカーサー元帥の占領政策を批判するキャンペーンを張っていたが、反共のウィロビー少将とは気が合った。
GHQの民主改革政策を批判し、リベラル派の追い落としに手を貸した。

ケーディスは、1949年(昭和24年)5月3日に退官した。
彼はニューヨークで弁護士に戻り、マッカーサー元帥の個人財産を管理する仕事を依頼された。
マッカーサーがケーディスを信頼していた証左の一つといえる。
ケーディスは1996年(平成8年)6月19日に死去した。90歳だった。
カーンは同じ年の5月13日、老衰のため84歳で死去した。
1978年(昭和53年)〜79年(昭和54年)に露見したグラマン疑惑で、カーンは「フィクサー」と騒がれた。
カーンはグラマン社のコンサルタントとして契約関係にあり、日本への売り込みを助けていた。
作家の立花隆はカーンを「白い黒幕」と呼んだ。

(参考:春名幹男著 『秘密のファイル(上) CIAの対日工作』 共同通信社 2000年発行)

(平成23年6月27日追記)


二流政治家・吉田茂

【憲法第9条】

昭和21年4月20日幣原内閣が総辞職した後、次の首相になるはずだった自由党(現・自民党)の総裁・鳩山一郎が公職追放でその座につくことができなかったため、同年5月22日に誕生したのが第一次吉田内閣(自由党)でした。
当時は、ちょうど憲法改正の審議の時期にあたり、吉田首相のもとで、百日審議が行われました。
この時の吉田首相の見解はまさに場当たり的です。
その後も論議の的となる憲法9条第2項に関して、吉田首相は国会で「一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛隊の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものです」と答弁しました。
これに対して、共産党の野坂参三議員が「独立国として自衛権を持つのは当然だから、戦争一般ではなく、『侵略戦争』の放棄とするほうが的確ではないか」とただしています。
当時は共産党ですら、自衛のための戦力は必要だと考えていたのです。
しかし、吉田首相は「国家正当防衛権を認めること自体が戦争を誘発する原因となり有害無益」とめちゃくちゃな答弁で否定しています。

【日米安保条約】

第一次吉田内閣は、約1年後に倒れ、再び吉田茂が首相の座につくのは、昭和23年10月です。
以後、第二次、第三次と吉田内閣時代が続くのですが、この間、昭和26年9月、サンフランシスコ講和会議が開催され、対日講和条約の締結がなります。
対日講和条約は翌年の4月から発効し、日本は独立を回復しました。
この功績をもって、吉田首相は戦後の名宰相などとたたえられています。
しかし、吉田首相が結んだのは、独立回復のための講和条約ではなく、むしろ日本の属国化を意味する条約です。
対日講和条約は、日米安保条約とセットで締結されたからです。
国家の安全の確保を他国にゆだねるという対米依存体制がこの時にできあがってしまいました。

アメリカは、日本を完全な独立国として認めたわけではありません。
日米安保条約で軍事保護を与えることによって、軍備拡大の自由と独立国への道を封じました。
日米安保条約はアメリカが相手国に対して一方的に軍事保護を与えることを約した唯一の条約です。
韓国と結んだ米韓共同防衛条約も、フィリピンとの米比共同防衛条約も、米国本土が第三国から攻撃を受けた場合、アメリカを救援するために、アメリカ側に立って戦うと定めています。
日米安保条約だけが「一方的な保護を受けるが、相手国の防衛は請け負う義務はない」という対等ではない内容となっているのです。

また、日米安保条約は、吉田首相が発案した形をとっており、日本がお願いして日本とその周辺にアメリカ軍の駐留を認めるという体裁となっており、期限も決められていませんでした。
吉田首相は、講和条約の締結で形式上、独立の格好だけは整えましたが、アメリカに防衛を全面的に依存したため、真の独立はますます遠のきました。
吉田首相の選択が戦後の禍根を生み、日本人の精神を崩壊させはじめたといっても過言ではありません。

対日講和で条約によって独立を回復したのならば、憲法改正をこころみるべきでした。
世論の後押しもあったのですから、サンフランシスコ講和条約に調印して帰国した時、すぐにでも国民に日本国憲法の是非を問うて、政治生命を賭して改憲に取り組むべきでした。
東西の冷戦が激化するにつれ、日本国憲法は、ある面では合わなくなっていたはずです。
事実、条約締結前の昭和26年1月にダレス米講和特使が来日し、吉田首相に日本の再軍備を要求していますし、マッカーサー元帥も、極東の安全保障に日本はもっと寄与すべきだという考え方を示していました。
ところが、吉田首相は軍事的・外交的にアメリカに従属する道を選び、日本が真に独立国として再出発する千歳一隅の好機を逃します。
独立国でない日本をつくった張本人は吉田首相です。
このような政治家を戦後の名宰相だと誰が評価できるでしょうか。

(参考:前野 徹 著 『戦後 歴史の真実』 扶桑社 2002年5月30日 第4刷)

(平成27年3月20日追記)


吉田不人気の背景

昭和29年(1954年)初めから火を噴き出した造船疑獄と4月21日の指揮権発動、これに8月10日の自民党支部長会議での「吉田暴言」が火に油を注ぐ。
「吉田暴言」とは、「指揮権発動は正しいという信念で行った。幹事長が逮捕されれば、今後幹事長のなり手もなくなり、政党に寄付する人もいなくなる。新聞は面白半分に書いているが、かかる流言飛語には耳を貸すな」というもの。
これが「一党の総裁であり、総理大臣ともあろうものの公的な発言としては言語道断だ」と世論の批判を浴びた。

ちなみに、吉田が立派だったと見直されたのは「吉田学校の優等生」だった池田勇人、佐藤栄作が総理になってからである。

(参考:楠田實 編著 『産経新聞政治部秘史』 20001年第一刷 講談社)

(平成23年12月17日追記)


【吉田茂】

もっとも有名な形容は「ワンマン宰相」だろう。
時の東大総長を「曲学阿世の徒」ときめつけ、マスコミ嫌いでカメラマンに水をかけたり、「バカヤロー」といって解散したり、ともかく話題の多い人だった。
「白たび」と「葉巻」がトレードマークで、イギリス流のウイットに富み、しかもその政治は「側近政治」といわれたように密室政治を好み、7年の総理在任中、80人もの大臣を“粗製濫造”した超ワンマン宰相だった。

大宅壮一は吉田茂を評して「・・・・墓場に行っても変わらない強靭な“性格”はあるが“思想”はない。また“理想”もない。その場限りの思いつきと、押しの一手で行くだけである」と痛烈に看破している。
その性格はよくいえば硬骨漢、悪く言えば傲慢不遜。

吉田茂は歴代宰相のなかでもひときわ、育ち、家柄、閨閥を重視し、“一流好み”を発揮した人物だが、それは維新の志士の血筋というプライドと資産家の嗣子として育てられた環境が生み出したものと思える。
妻は雪子というが、内大臣として大きな勢力をもっていた牧野伸顕の娘である。
しかも、牧野の実父は明治の元勲・大久保利通という名門中の名門である。

終戦を迎えると同時に、政界の重鎮たちが公職追放に遭遇したことにもよるが、無議席のまま東久邇内閣の外相となり、幣原喜重郎内閣でも留任し政界で重きをなすようになった。
実力者たちが誰もいなくなり、英語のうまいのは吉田だけだったから外相に就任し、そして戦後第1回の選挙で鳩山一郎の自由党が第一党になって首班指名を受ける寸前、その鳩山が公職追放にあった。
そこでタナからボタモチ式に総裁の椅子を禅譲され、第一次吉田内閣が誕生した。
これはラッキーだったとしかいいようがない。

その間、吉田茂は昭和22年4月に行われた新憲法下の最初の選挙で、高知県から出馬して当選。
すぐさま高級官僚だった池田勇人、佐藤栄作、増田甲子七、大橋武夫らを政治家見習いとして自分の側近にし、24年1月の総選挙でこぞって当選させて、俗にいう“吉田学校”の面々で主要ポストを独占してしまった。
昭和26年8月、追放解除となった鳩山がカムバックしてくる。
密約にもとづいて政権返上を迫ると、吉田は「そんな約束はした覚えはない」と突っぱね、自由党分裂のきっかけをつくる。
“タヌキ親父”といわれたゆえんである。
ここから吉田と鳩山の泥沼の政権抗争が始まる。
いうなれば吉田は、戦後政治の基本路線を敷くと同時に、その一方で今日の派閥の原型を作り、政権抗争というお土産まで残していったのである。

【吉田家】

吉田茂と雪子との間には二男二女が生まれた。
長男・健一は英米文学者として父とは全く違った道を歩き、すぐれた文明批評家、エッセイストとして一家をなした。
二男・正男は、戦後、アメリカ留学後、日本学術会議調査課長、東北大学助教授、学習院大学教授などを歴任し、学者の道を選んだ。
長女・桜子は、外交官・吉田寛に嫁いだ。
吉田寛は岸・佐藤兄弟とは従兄弟同士、元外相の松岡洋右の甥にあたる。
だが、この夫婦はわずか9年間生活しただけで、昭和15年に寛が病死してしまった。
その後、佐藤栄作が、この早逝した寛に生き写しだったことから、吉田は栄作を“息子”のように可愛がるようになったという。
二女・和子の結婚相手は九州一の財閥といわれた麻生産業の御曹司・麻生太賀吉。
この和子と太賀吉を結びつけたのは、側近の白洲次郎である。
白洲はケンブリッジ大学の後輩である太賀吉を、当時イギリス大使だった吉田に紹介し、二人の仲人を務めている。

吉田政治は“側近政治”といわれるが、その側近ナンバーワンが麻生太賀吉だった。
昭和24年からは太賀吉自身も代議士となったが、吉田の個人的な財政をまかなう一方で、“側近”として仕え、一時は吉田内閣の影武者として“麻生人事”と陰口を叩かれたこともあった。
だが、本人は無欲の人で、閣僚ポストに就くこともなく、吉田総理が引退すると、「私の役目は終った」と代議士を三期務めて、さっさとやめてしまった。
一説によると、麻生本家にあったおびただしい量の骨董品は、吉田茂の政治資金としてあらかた消えてしまったといわれている。
また、吉田茂の養父、貿易商の吉田健三が死んだ時、今のカネにして約3000億円の遺産があった。
その全部が吉田茂に渡ったのだが、吉田が死ぬ時に残っていたのは大磯の邸宅だけだったという。
かつての政治家たちは今の金権政治家と違って、自分の財産を食いつぶして政治活動をやったのである。

吉田茂の政治家としての血を受け継いだのは息子達ではなく、二女の和子だった。
和子は娘時代から父の赴任で諸外国をまわり、日本語より英語のほうが得意といわれた人物。
18歳の時に両親に伴われて、イギリス国王・王妃に謁見し、イギリス社交界にデビューするといった華やかな育ち方をしている。
後年、朝日新聞社の美人投票で2位に選ばれたくらいの美貌だったという。
それでいて、父親譲りのユーモアに富み、声色を使ってチャーチルやトルーマンの物真似をやって見せるほどの茶目っ気があった。
しかも、どちらかというと、べらんめぇ調で、お高くとまったところはまったくなかった。
吉田は、この和子をいつも側に置き、麻生太賀吉に嫁がせてからも、夫婦ともども“有能側近”として侍らせた。
サンフランシスコ講和会議の時にも夫婦を同伴させ、それ以後、和子ファーストレディとして活躍するようになる。
もちろん称賛する者もいれば非難する者もいて、その“女帝”ぶりは一部のマスコミから“大磯の淀君”と呼ばれるほどだった。

【吉田学校】

吉田茂は総理在任中、80人の大臣を抜擢したが、そのなかで吉田の薫陶を受けた者たちを「吉田学校」と呼んでいる。
だが、保守合同になった昭和30年11月、最後まで残ったのは13人。
そのメンバーは、林譲治、益谷秀次、佐藤栄作、池田勇人、福永健司、小坂善太郎愛知揆一、田中角栄、橋本龍伍、保利茂、周東英雄、大橋武夫、小金義照である。

(参考:神一行 著 『閨閥 新特権階級の系譜』 1993年第1刷発行 講談社文庫)

(平成26年7月24日 追記)


心筋梗塞で倒れた時、日本医師会会長の武見太郎が見舞いに訪れると「ご臨終に間に合いましたね」と言ってからかったという。
「ワンマン宰相」と呼ばれた傲慢さの中にユーモアを兼ね備えた人物だったという。

(平成17年10月19日追記)




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