西園寺公望 さいおんじ・きんもち

嘉永2年10月23日(1849年12月5日)〜昭和15年(1940年)11月24日


京都生まれ。
公卿清華家の徳大寺公純きんいとの次男に生まれ、同じ清華家の西園寺家の養子となる。
戊辰戦争で山陰道鎮撫総督を務め、維新後の明治4年〜12年、フランスに留学。
『東洋自由新聞』社長を経て伊藤博文の憲法調査団に随行。
第二次伊藤内閣の文相・外相、第三次伊藤内閣の文相を歴任。
枢密院議長を経て、明治36年(1903年)立憲政友会総裁に就任。
伊藤系の後継者格となり、明治39年(1906年)首相。
桂太郎ら山県系と協調して、桂園時代を築く。
2年後に桂に政権を譲ったが、明治44年(1911年)再度首相を務めた。
大正8年(1919年)ベルサイユ会議全権委員となる。
大正13年(1924年)以降、唯一の元老として第一次近衛内閣まで首班候補選定に主導的役割を果たした。
政党政治の擁護者、協調外交論者としられる。
昭和15年に坐漁荘で死去。遺言により、書簡・資料類は焼却された。


西園寺公望仮寓跡



西園寺公望仮寓跡

(長崎県長崎市玉園町2丁目)





(平成20年11月22日)
西園寺公望仮寓跡



西園寺公望仮寓跡

(長崎県長崎市玉園町2丁目)





(平成20年11月22日)

西園寺公望仮寓跡

西園寺公望(1849〜1940)は、徳大寺公純の次男であったが西園寺家を相続、後に文相や首相を歴任、最後の元老として重きをなした。
公爵。
公望は明治3年(1870)4月、北山望一郎の名前で広運館に入学、フランス領事レオン・ジュリーやフルベッキからフランス語を学んだ。
長崎滞在中の公望は家臣山口正信とともにこの地に居住した。
当初、3年間を予定していた長崎遊学は、フランス留学の辞令が出たためわずか7か月余りで終わりを告げ、この年の11月長崎を出発、その年の内に横浜よりフランスに向けて旅立った。

(説明板より)

 説明板より


【フランス留学】

西園寺は開成所でフランス語を学んでいたが、明治2年(1869年)12月、フランス留学の準備として長崎行きを許され、フランス語に磨きをかけた。
明治3年12月上旬、留学が決まり出発。
ロンドンに留学中の栗本鋤雲くりもとじょうんの養子の栗本定次郎さだじろうの案内でパリに向かい、明治4年12月2月7日に到着した。(数えで23歳)
前田正名まえだまさなの紹介で「リウ・ド・バック街」の私立学校に入学。
パリではこの年の3月から5月にかけて、パリ・コミューンと政府軍との市街戦が繰り広げられたので、この間、西園寺はスイスやマルセイユに行って遊んでいた。
政治学者として知られていたエミール・アコラスについて法学と政治学を学び、のちソルボンヌ大学に学んだ。

西園寺のフランス語は、フランス人がビックリするくらいに流暢だった。
船越光之丞ふなこしみつのじょうの紹介で、フランス浪漫派の作家、テオフィル・ゴーチェの娘であるジュデイト・ゴーチェ(マンデェズ夫人)を知る。
彼女は詩やオペラ、小説を書いていた。
以後、夫人の家をたびたび訪れ、彼女の新作オペラに手を入れるほど、力量を買われ信頼もされた。

パリでは光妙寺三郎こうみょうじさぶろう、中江兆民なかえちょうみん、松田正久まさひさらとも会った。
日本政府はほとんどの留学生に帰国を命じたが、西園寺はその中に入っておらず、彼はここで官費留学を辞退し、賞典録を売ったり、パリ公使館で書記生のような仕事をして留学を続けた。
帰国したのは明治13年10月、32歳の時である。

(参考:『歴史読本 2001年3月号』 新人物往来社 発行)

(令和2年9月7日 追記)


【民権思想かぶれ】

西園寺は公家として五摂家(近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家)に次ぐ家格を持つ九清華家(久我こが・三条・徳大寺・西園寺・花山院かざんいん・今出川いまでがわ・大炊御門おおいのみかど・広幡ひろはた・醍醐だいご)の出で、岩倉具視が自分の後継者として期待した人物であったが、フランス留学中、民権思想に触れ(1871年のパリ・コミューンにも参加)民権論者となって1881年(明治14年)に帰国、自由民権派の新聞『東洋自由新聞』(主筆は中江兆民)の社長に就任するなどして三条実美、岩倉具視の頭を悩ませた。

(参考:栗田尚弥 著 『上海 東亜同文書館〜日中を架けんとした男たち〜』 新人物往来社 1993年第1刷発行)

(平成29年2月13日 追記)


【西園寺・評】

幸田露伴翁は文豪であるほかに、一世の達人であったが、翁は西園寺を批判して、「西園寺という人は利口で、自分の身体をかばうのに急な人で、困ったものだ。元老などというが、なんといっても山県が一番剛直な人間だったようだ」と辛らつなことを言っている。
また、「もう誰かが立ってものをいわねばならぬ時だが、西園寺なんて男は自分さえ良ければ、後はどうでも良い男だからダメだ」と酷評している。
(前言は昭和11年、後言は昭和13年、小林勇『蝸牛庵訪問記』)
露伴翁にかかっては、天下の元老も一文の価値がないが、西園寺の性格を的確に見抜いている。

フランス留学時代から西園寺の盟友であった一代の奇才、中江兆民は、その遺著『一年有半』の中で、西園寺を批評し、つぎのごとく言っている。
「気宇高亮、識見宏遠、但しその甚だ総明にして一切、一も公の好奇心を動かすに足るなし。冷然とし内熱なし」と。
フランスより帰朝後、東洋自由新聞社長となって、兆民と自由民権運動を始めたのに、途中で逃げ出してしまった西園寺に、苦杯をなめさせられた兆民としては、こう言わざるを得なかったであろう。
内容は露伴の批評とまったく相似している。

(参考:岡田益吉 著 『危ない日本史(上巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月第1刷)

(令和元年10月6日 追記)


第1次西園寺内閣

【明治39年(1906年)1月7日〜明治41年(1908年)7月14日】

西園寺内閣

明治39年(1906)1月6日、西園寺公望に組閣の大命が下り、翌7日、西園寺内閣が成立した。
西園寺内閣には、原敬が内務大臣として二度目の入閣を果たしていた。
西園寺内閣は、政友会と薩長藩閥との呉越同舟の色合いが濃かった。
このため、日露戦争での祝賀ムードが落ち着くと、寄り合い所帯の弊害が出てきた。
それが顕著になったのは、第23議会だった。
政府は桂内閣との約束に従い、鉄道国有法案を提出したが、加藤高明外相がこれに反対した。
原内相の説得にもかかわらず、加藤は3月3日に辞任した。
三菱と姻戚関係がある加藤は、九州鉄道を経営している三菱の肩をもたなければならない事情があったのである。
同法案は貴族院で修正が加えられて成立するが、身内のごたごたを招いたことで、新内閣の脆弱さを印象付けた。

総辞職

明治41年(1908)7月4日、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。
この総辞職については、当時さまざまな憶測が飛び交ったが、のちに公開された『原敬日記』によって、真相は赤旗事件にあることが明らかになった。
同事件は6月22日、神田錦輝館で社会主義者の集会が開かれた際、参加者と警官とが乱闘になり、数名が拘引されたというものである。
扇動したのは警察のスパイであったという説もある。
原内相は社会党の結成を認めるなど、社会主義運動に寛大な態度をとっていたが、官僚派を牛耳っている山県有朋からは「社会主義者の取り締まりが手ぬるい」として反感を買っていた。
西園寺は山県による露骨な内閣潰しに嫌気がさしたといわれる。

(参考:松田十刻 著 『斎藤實伝 「ニ・二六事件」で暗殺された提督の真実』 元就出版社 2008年第1刷)

(平成29年2月5日 追記)


第2次西園寺内閣

【明治44年(1911年)8月30日〜大正元年(1912年)12月21日】

第2次西園寺内閣は、天皇崩御という一大事を乗り切ったが、この転換期に乗じるように倒閣の動きが激しくなってきた。
黒幕は、政党政治に不信を抱いていた山県有朋だった。
山県は上原陸相を通し、西園寺が進めていた行財政整理に真っ向から対立する2個師団増設という無理難題を押し付けてきた。
上原陸相が正式に提案したのは、11月22日の閣議の席上だった。
陸軍と政府との正面衝突は続き、上原陸相は12月2日に至って辞表を奉呈した。
陸軍の協力が得られない西園寺内閣は5日、総辞職に踏み切った。

(参考:松田十刻 著 『斎藤實伝 「ニ・二六事件」で暗殺された提督の真実』 元就出版社 2008年第1刷)

(平成29年2月6日 追記)


西園寺公望首相と大正天皇

西園寺は公卿出身の政治家だったが、青年時代にフランスに10年間も留学していて、デモクラシー思想にふれ、そのリベラルさ故に、大正天皇のもつ文人肌の性格に理解があった。
大正天皇が即位してわずか3ヶ月ほどあとに、満洲や朝鮮に派遣する師団の軍事予算を陸海軍が要求してきたときに、西園寺は財源不足を理由にすぐに却下した。
陸相の上原勇作は、大正天皇に直接上奏して、陸軍の要求をとおそうとしたが、大正天皇はすぐにはうなずかなかった。
大正天皇があまり乗る気でないと見て、西園寺は、閣内不統一ということで辞職して陸相の要求を潰してしまった。
山県有朋桂太郎、松方正義らはすぐに元老会議を開いて事態の収拾に乗り出したが、桂は自らが首相となって事態を乗り切ろうと謀った。
桂内閣ができると、今度は政党と陸海軍は一致して“打倒藩閥政治”を主張し、それに国民が同調して、桂内閣はまったく動きがとれなくなった。
大正天皇は、西園寺を呼んで、この際は桂を助けよ、と命じた。
西園寺はその意を受けて政友会内部を説得したが、これは容れられなかった。
そのために、西園寺は大正天皇への申し訳なさから、政友会総裁を辞してしまった。
桂首相も、国民の暴動にも似た焼き討ち、デモなどで動きがとれなくなり辞職し、日本海軍の土台をつくった伯爵山本権兵衛が首班に指名され組閣をした。
大正天皇はこうした一連の政治混乱に驚き、そして心身ともに疲れ果てて自らの殻の中へ閉じこもってしまったのである。

(参考:保阪正康 著 『秩父宮〜昭和天皇弟宮の生涯』 中公文庫)

(平成22年8月26日追記)


興津坐漁荘



興津坐漁荘
(静岡県静岡市清水区興津清見寺町115番地)





(平成18年4月14日)
興津坐漁荘




玄関





(平成18年4月14日)

西園寺公望(1849〜1940)

西園寺公望公は、嘉永2年(1849)右大臣徳大寺公純の次男として生まれ、明治・大正・昭和の時代を自由主義の政治家として貫いた、我が国近代の元老の一人です。
また、現在の立命館大学の学祖であり、高い見識に裏打ちされた文人としても知られています。

最後の元老

元老とは、近代日本特有の政治的存在で、重要施策(ことに後継内閣の推挙)について、天皇の諮問に応える強力な発言権を持つ重臣の呼び名のことです。
大正13年7月、松方公の死後、西園寺公は、ただ一人の元老として内閣首班の推挙や政変ごとの陛下のご下問への奉答をしてきました。

「坐漁荘」とは

坐漁荘は、西園寺公が70歳になった大正8年(1919)、風光明媚な清見潟に臨む興津清見寺町に老後の静養の家として建てられた別荘です。
設計は住友本社の建築技師・則松幸十が行い、京都から大工を呼び寄せ建てられました。
坐漁荘の名は、子爵渡辺千冬の命名で、周の文王が呂尚(太公望)が坐漁する場に会い、礼厚く迎え軍師としたという中国の故事に因ります。
居間からは、遠くにかすむ伊豆天城の連峰、目前には三保の松原が見渡せ、砂浜の漁船や干し網の近景が庭越しに広がっていました。
しかし、実際の坐漁荘は「興津詣で」と称されたとおり、訪れる政府要人が後を絶ちませんでした。

西園寺公の死と、その後の坐漁荘

西園寺公は、昭和15年11月24日に坐漁荘で死去しました。
12月5日、国葬が執り行われ、その後、世田谷の西園寺家墓地に葬られました。
『その後の坐漁荘は、高松宮殿下に献上されたが、終戦後徳川家を通じて西園寺公一(公の孫)に戻されました。公一氏は、事情があって豪州のバイヤーに売却しましたが、この話を聞いたイギリス大使館の参事官レッドマン氏が買い上げ、昭和26年、財団法人西園寺記念協会の設立になりました。〜』(増田荘平「坐漁荘秘録」より)
『昭和43年〜坐漁荘の建物は傷みが激しくなりました。同年11月、明治村への移転の話がまとまり〜跡地は公園にして記念碑を立て、地元が記念館を建設するときは相談にのることが合意されました。翌44年10月、家具や調度品が運び出された後、建物を測量、記号をつけて解体し、45年6月、明治村3号地に移転復元されたのです。』(清水市史第3巻より)

(リーフレットより)

坐漁荘址の碑



『坐漁荘址』の碑

(興津坐漁荘内)





(平成18年4月14日)

坐漁荘址 碑文

坐漁荘は、公爵西園寺公望の旧居、大正8年12月に建築された。
その敷地は1255・96平方メートル前庭をへだてて清見潟の波光る景勝の地であった。
建物総面積は469・27平方メートル、二階建、■洒雅到ただよう和風建築であり、洋間一室とテラスとが附属していた。
坐漁荘の名称は子爵渡辺千冬の撰にかかる。
周の文王が渭陽で呂尚(太公望)の坐漁するに会い、礼を厚くして迎えて軍師とした。
渡辺は中国のこの故事に因み、太公望を西園寺公望の名に通わせ、座漁を前庭に海迫るこの地形に結びつけ、さらに元老として天皇補佐の重責を荷う西園寺公の地位を軍師呂尚のそれに対照させ、坐漁荘を命名した。
公はかねて国際間の平和とわが国立憲政の発達を念願してやまなかった。
しかし満州事変以後わが国政治の動向は公の所期と全く相反するものがあり公は破局的事態の到来をふかく危惧しこれを阻止せんがため元老として実に焦心苦慮を重ねた。
公が国の行末に限りなき憂いを抱きつつ細雨に煙るこの坐漁荘に92年の生涯を閉じたのは昭和15年11月24日、太平洋戦争開幕に先立つこと約1年であった。
近年坐漁荘周辺の景観は一変し且つ建物も損壊の惧れを生じたので、住友銀行頭取堀田庄三の発議により住友連系の各社の後援の下、財団法人明治村並びに清水市地元の協力を得て、昭和46年3月坐漁荘の主要部分を愛知県犬山市所在の明治村に移築し、この歴史的建物は永く同地に保存されることになった。

昭和46年8月
東京大学名誉教授
財団法人西園寺記念協会理事
岡 義武

※ ■はパソコン上で表示不可能な文字

古写真 (説明板より)

入館のご案内

入館料:無料
開館時間:(平日)午前10時〜午後5時 (土日祝)午前9時30分〜午後5時30分
休館日:毎週月曜日(祝日の場合はその翌日)・年末年始(12月29日〜1月3日)

交通のご案内

JR興津駅より徒歩15分

(リーフレットより)


【坐漁荘】

旧東海道に面し、眼下に駿河湾を望むこの地に西園寺が別荘を建てたのは大正8年である。
坐漁荘というのは、坐りながらのんびり魚を釣る、といった意味だろうが、ここには女中のほかに第二夫人の中西房子を住まわせていた。
約3百坪ほどの土地に純和風の二階家を建てたが、昭和4年に増築して洋間と洋式便所をつけた。
坐漁荘には来客が絶えなかったが、そうした客の多くは近くの旅館「水口屋」を常宿としていたのである。

(参考:工藤美代子 著 『われ巣鴨に出頭せず』 日本経済新聞社 2006年7月第一刷)

(平成28年12月16日 追記)


【独裁者】

戦後発表された昭和史は、軍部のみをファッショの元凶として、単純に攻撃しているが、天皇を擁して独裁政治をおこなった、いわゆる元老、重臣の妄動を見落としている。
大正時代はまだ、山県有朋とか、大山巌とか、軍部をしっかりと把握していた軍人的元老がおり、井上馨、松方正義という金融財政を知っていた経済人的元老が生存していたが、昭和の初期となると、軍人でも経済通でもなく、ただ皇室と密接な関係があるというだけで、天皇の諮問に答える立場から、広汎で、しかも厳然たる独裁力を持った元老・西園寺公望公ただ一人になってしまった。
しかも、西園寺は、表面は進歩的仮面をかぶりながら、本質的には、議会制民主主義を理解しない、ただ自己の権力的立場を維持するだけの封建的独裁者であった。
この点も、多くの昭和史家は見落としている。

西園寺公も、軍部と同じく政党政治を否認し、しばしば、政党に立脚しない超然内閣あるいは、中間内閣を、天皇に奏請している。
それは、政党政治の破滅を招くということでは、まったく軍部と同罪であり、共犯者といわなくてはならない。
5・15事件で、元老・西園寺は、不見識にも軍部に姑息な宥和政策をとり、軍部の鋭鋒を避けると言いながら、実は軍部に屈伏してしまい、日本的ファッショは第一歩を勝ち取ってしまった。

西園寺と牧野伸顕(内大臣として9年在任)の錯誤は、天皇をイギリス式の君主に教育し、天皇をロボット扱いして、すべて政治的責任を内閣および軍部に帰せしめようとしたことである。
そのくせ、西園寺は元老として、種々当面の政治に介入していた。
政変があると、天皇は後継首班の人選を西園寺に下問するのが慣例になっていたが、一度も元老は天皇の意見を訊いたことはない。
いつでも西園寺の独断で決定した。
これで果たして西園寺を民主主義者とか自由主義者とかいえるだろうか。

『聖明を蔽う』という言葉があるが、西園寺、牧野らは極力天皇に情報が達しないように、また天皇が政治的にイニシアチブをとらないように、教育し、かつ、抑制してきた。
元老、重臣が寄ってたかって、天皇をロボット化しようとした根本動機は、自分らの政治的権力を維持しようとしたのにほかならない。
表面は『政治にくちばしは入れぬ』と言いながら、天皇の諮問に答えると称して、あらゆる政治に介入していた。
自分らが天皇の庇護者のような立場を確保して、他方ではいろいろな政治的勢力を対立させて、分割支配しようとしてきた。

元老のうち、公卿出身の西園寺が最後に残ったことが、宮中の側近勢力を抬頭せしめた原因であって、それが立憲政治を阻害し、一方、軍部や右翼を反発せしめて、ファッショの空気を醸し出した根本原因であった。

大正初期の憲政擁護運動、大正13年の第二次護憲運動などで、やっと旧封建的な閥族・官僚勢力を打破して、二大政党対立の憲政の常道がレールに乗ったのに、西園寺、近衛文麿、木戸幸一の宮中勢力が、政治的追い出しをしようとあがいたために、その反動として、軍部と右翼が抬頭して、政党政治は両者の挟撃にあって崩壊してしまった。
そのあげくは、軍部の勝利に帰して、太平洋戦争になってしまった。

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(下巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

令和元年5月6日 追記)


【秘書・原田熊雄】

原田熊雄は加藤高明首相の秘書官を務めていたが、加藤の突然の死によって職を失った。
その加藤(引用者注:原田?)を住友合資会社が嘱託として採用し、住友とは縁続きの西園寺の秘書に原田を推したのだ。
大正15年7月である。
こうして原田の人生は西園寺が没する昭和15年11月までの間、西園寺秘書としてあらゆる御用を受け持つことになる。
原田は口述でいわゆる原田日記『西園寺公と政局』を残したが、この膨大な史料を速記術で書き記したのは近衛秀麿の妻、泰子である。
秀麿は戦時中ドイツに渡っていて留守だった。
その速記録は戦後になって、里見クの執念にも近い緻密な作業によって整理され刊行された。
里見クの次兄、有島生馬が、原田の妹、信子と結婚しているという家系がある。
長兄はもちろん、有島武郎である。
秘書となる裏にはこういういきさつがあったのだと原田は述べている。
「オレが老公の秘書になったのは、近衛の口ききだよ。“あなたの親戚にいい男がいますよ”といって勧めたからだよ」
近衛文麿が親戚だといったのは、原田の妻、英子の母方の祖母が西園寺の妹、福子とみこに当たることを指している。
『重臣たちの昭和史』によれば、原田は住友が丸抱えで面倒を見てきたようだ。
「原田の交際費、車代などは住友が全額負担したし、東京駅近くの住友本社4階には原田のために一室が用意された。西園寺の秘書となるとともに、原田は永田町の秘書官官舎を出て新坂町に移り、昭和3年3月には平河町5丁目15番地3に移った」
西園寺77歳、原田が38歳。
親子のような二人は西園寺の本邸がある神田駿河台、興津の座漁荘、京都の清風荘を巡りながら、時に近衛を呼び寄せては宮廷と官邸の調整役を負っていたのである。

(参考:工藤美代子 著 『われ巣鴨に出頭せず』 日本経済新聞社 2006年7月第一刷)

(平成28年12月16日 追記)


【西園寺の間違い】

西園寺の間違いは、その性格の弱さにあった。
『西園寺自伝』(小泉策太郎記)の中で、彼自身、正直にそれを告白している。

「私がフランスから帰朝(明治13年10月)してみると、日本は、何か気分がだらけているように感じて多少の不平もあり、慷慨もしたのですが、要するに、それは時の勢いであって、私は時勢を憤って、それを切り開こうとか、狂瀾を既倒に返そうとかいったような、アンビション、希望といいますか、勇気といいますか、それがない。今日でもそうです。時の流れを見る。時の勢いを見る。人心がだらけているなら、それはだらけさせる風潮が時代にみなぎっている。これを回転する、逆流させるという豪気、努力は私の及ぶところではない。西園寺が冷淡だといわれる所以であろうが、自分ではこれを冷淡とはおもわない。時流に逆らいもしなければ、時流に従いもしない」と。
こういう性格の男が元老の地位にいたのだから、昭和の日本が、時流に流されっぱなしになったのは、無理ではなかった。

また、西園寺は、こうも述べている。
「私は、全体が不良で、左傾とみられていた。が、それでいて維新後は、どうしてもある程度まで、薩長の政治を支持して、せっかく始めかけている大仕事を、逆転しないようにするのが必要だと思っていた。日本外史を読んで、建武中興の覆轍(後醍醐天皇の失敗)を憂うる心持が、自分では気がつかなかったが、おぼろげに、心の中にひそんでいたのかも知れません。それは西洋からもどった時も一貫していた。そこへ行くと、中江(兆民)などは、『なあに、つぶせば更にいいものができる』という説で、私の考えとちがっていたので、時々、議論を上下しました。大体そういう意見であったから、薩長に向かっても不平でたまらなかったということはない。不平でも辛抱すべきであると思っていました」と。
こういう西園寺の敗北主義と無抵抗性は、政治という激しい世界には通用しなかったし、日英同盟を失い、支那革命後の日本の国際危機を善処することは、すこぶる困難であったというほかはない。

元老という、憲法にないものが、盲腸のごとく日本の政治に付いていたのもおかしいし、不幸なことで、何のために憲法をつくったか、まったく理解に苦しむ。
その上、西園寺が、天皇と密接に関係がある公卿出身であったこと、野武士出身の伊藤、山県、大山、松方、井上、大隈といった元老は一人残らず死んで、公卿出身の西園寺だけが一人残ったことが、天皇制を曖昧にし、むしろ利用しやすくし、反対に議会政治を頓死せしめた根本原因であったと思う。

(参考:岡田益吉 著 『危ない日本史(上巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月第1刷)

(令和元年10月6日 追記)


【西園寺公望の死】

昭和15年11月12日の朝、秘書の原田熊雄は久しぶりに官邸の日本間で近衛文麿と会っていた。
近衛からの情報を明日は興津へ行って告げようとしていた12日の晩、原田のもとへ朝日新聞から電話が入った。
「興津の侯爵が、チフスか腎盂炎か分からないけれど、非常な高熱で悪いという情報が入ったがご存知ですか」
驚いた原田は翌朝9時、まず木戸幸一を訪ねて善後策を話し合うと、午後の「富士」に乗って静岡駅へ向い、それから普通列車で興津へ戻った。
床には主治医の名古屋帝大教授・勝沼精蔵かつぬま・せいぞう博士が付いて、手厚い看護がなされてはいたが、よほど悪いようで、意識は明瞭だったが全体にだいぶ衰弱していた。

勝沼博士が、「なるべくいいことがあったら、侯爵に聞かせて欲しい。それが一番いい精神的注射になるんだ」と言うので原田はさっそく西園寺に伝えた。
「野村(吉三郎)大将が(駐米)大使就任を承知し、アメリカからもアグレマンが届いたということです。政府は野村大将が不可侵条約まで結びうるような権限を与えてもよい、というような近衛(文麿)の話でありました」
これを聞いた西園寺は非常に喜んだ様子で、「野村は本当に行くのか。どうか野村によろしく言ってくれ」と応じた。
そこで原田がさらに、「近衛が周作民を通じて、蒋介石工作をやるそうで期待をかけています」と付け加えると、息も絶え絶えの西園寺が独り言のようにつぶやいた。
「今さら何をしたって、蒋介石が日本の言うことなんか聞くものか」
この後、西園寺の症状は危篤のまま一進一退を繰り返していたが、24日午後9時54分、91歳の長い生涯を終えた。

(参考:工藤美代子 著 『われ巣鴨に出頭せず』 日本経済新聞社 2006年7月第一刷)

(平成28年12月16日 追記)


元老



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