若槻礼次郎像 平成16年11月21日

若槻礼次郎 わかつき・れいじろう

慶応2年2月5日(1866年3月21日)〜昭和24年(1949年)11月20日

島根県松江市・島根県庁前の公園でお会いしました。


東大卒。
大蔵次官をへて貴族院議員となる。
大正元年(1912年)第3次内閣の蔵相。
立憲同志会に入党。
第2次大隈内閣の蔵相。
加藤高明の護憲三派内閣では内相として普通選挙法と治安維持法を成立させた。
昭和元年(1926年)憲政会内閣を組織するが金融恐慌が発生し、台湾銀行救済緊急勅令案を枢密院に否決され総辞職。
昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮会議では首席全権として条約に調印。
浜口内閣総辞職後、立憲民政党総裁として民政党内閣を引き継いだが、満洲事変の対応に苦慮し、安達謙蔵内相による協力内閣運動に揺さぶられて総辞職。
太平洋戦争期には穏健派の重臣として活動した。


若槻礼次郎像



故 若槻礼次郎先生像
昭和36年11月20日
(島根県庁前)




(平成16年11月21日)

碑文(その1)

若槻禮次郎先生は、慶応2年2月5日奥村仙三郎氏の次男として松江市雑賀町誕生せられた。
明治17年19歳にして上京し司法省法律学校に入学、同19年叔父若槻敬氏の養子となり、同25年7月東京帝国大学仏法科を首席にて卒業し、ただちに大蔵省に勤務、以来明治・大正・昭和の三代にわたり官界、政界の要職を歴任せられたのである。
その間いくたびか台閣に列し、また再度にわたって首相となり、国政を総理せられ、さらにロンドン海軍軍縮会議には首席全権としての重責を果たされ、一方政党総裁として政党政治の推進に寄与するところが多大であった。
更にまた晩年終戦決定の御前会議には重臣として参列せられ、平和日本の大きな礎を築かれたのであった。
まことに先生のわが国政における功績は不朽のものと言わなければならない。
先生は、常に公私の混交をきびしく戒め、公平無私と清廉潔白を信条とし、終生真に涜修自守の高風に徹し、昭和24年11月20日静岡県伊東市において永眠せられたのである。
昭和36年あたかも先生の第13回忌に際し、有志相はかり追悼の意を表したのであったが、さらにこのたび先生の尊容を鋳して、生誕の地に建立し、永くその英姿を仰望するとともに、かねて郷土後進の感奮の資たらしめんとするものである。
昭和37年11月3日
原 邦道 撰書

碑文(その2)

清節の大宰相若槻禮次郎先生の銅像は、夙に床几山上に建てられて県民敬仰の的であったが、太平洋戦争に涙を呑んで供出され、その再建は郷党の宿願であった。
ここに有志相図り、この胸像を再現して県民統合の府たる県庁舎前に建て、永くその英風を欽慕できることは誠に欽慶にたえない。
昭和37年11月
島根県知事 田部長右衛門


第1次若槻内閣

【大正15年(1926年)1月30日〜昭和2年(1927年)4月20日】

軟弱外交

大正15年1月30日に成立した民政党の若槻礼次郎内閣は中国の内戦に関して「不介入」を宣言し「日支親善」」を推進しようとしていた。
昭和2年(1927)1月20日、英国大使が上海への共同出兵を提議してきたが、日本はこれも拒否している。
ところが、事態は予期せぬ方向へ進む。
間もなく上海総領事より「騒乱が拡大し、在留邦人の安全が極めて危険な状況にある」との至急電が海軍省に入った。
1月24日、第1遣外艦隊司令官より、南支方面を警備範囲とする第24駆逐隊に対し、「在留邦人保護のため同地に急行せよ」の至急電が発せられた。
3月になると、北伐の途次南京に入城した国民政府軍の兵士が列国領事館に乱入し、居留民に暴行をはたらき、婦女子を陵辱した。
このため列国海軍は暴徒を制圧するために城内に向けて2時間にわたって艦砲射撃を行なった。
この時、現地にいた日本艦隊だけは訓令に従い共同行動を拒否して発砲しなかった。
しかも、国民政府軍の陸上砲台よりわが艦隊が砲撃を受けていたにもかかわらずである。
現地指揮官は不満であったが訓令を順守していた。
こうした中、南京事件が起こる。
3月24日、暴徒が日本領事館に乱入し、避難中の邦人婦女子を陵辱した。
しかし、この時、同館護衛の指揮を執っていた第24駆逐隊司令駆逐艦「檜」先任将校・荒木亀雄大尉(海兵48期)は、政府の訓令を墨守して無抵抗に徹した。
第1遣外艦隊司令部はこの直後、荒木を召還し、「武を汚した」として拳銃を渡し自決を強要する。
荒木は自殺未遂に終わったが、国民は、この荒木に大きく同情し、若槻内閣を激しく批判したのである。
こうした民政党の政策に国民は「軟弱外交」と批判を加え、マスコミは「暴支膺懲ようちょう」を叫んだ。

(参考:惠 龍之介著『敵兵を救助せよ』 草思社 2006年 第1刷)

(平成22年1月17日・記)

総辞職

昭和2年3月14日、第52議会の衆議院予算総会で、片岡直温蔵相が東京渡辺銀行の破綻について失言したことから、翌日には同銀行が休業に追い込まれた。
4月に入ると、台湾の砂糖などを扱っていた鈴木商店が閉店し、同商店と密接な関係にあった台湾銀行も破産の危機を迎えた。
若槻内閣は4月17日、台湾銀行の救済を決めたが、枢密院は同案を否決したことから、打つ手のなくなった若槻首相は、同日夕方に辞表を奉呈した。

(参考:松田十刻 著 『斎藤實伝 「ニ・二六事件」で暗殺された提督の真実』 元就出版社 2008年第1刷)

(平成29年2月7日 追記)


松島遊郭移転問題

大正15年3月26日、第51議会閉会とともに、政友会総務・岩崎勲、憲政会(のちの民政党)の長老・箕浦勝人、政友本党党務委員長・高見之通の3名が拘引されて起訴された。
翌昭和2年7月、第1回公判の結果、この3名のほか平渡信(元弁護士)を加えて、計53万円の運動費を詐取したことが明らかにされている。
箕浦勝人は、改進党以来、清廉潔白な政治家として知られ、人間も温厚な君子人であったので、この人が策士に利用されたとはいえ、遊郭移転問題などという下劣なものに巻き込まれ、5万円の汚い金を受領していたことは、政治家の運命が悲惨なことを暗示するので、箕浦は、事前に時の内務大臣・若槻礼次郎を訪ねて、同遊郭移転の可否を問いただした。
それに対して若槻は検事の取調べの際、「自分は、本問題は大阪府知事が認めたなら詮議すると答えた」と、箕浦の主張を否定した。
そこで箕浦は、前首相・若槻礼次郎を偽証罪で告訴するという泥合戦となり、前総理大臣が証人台に立つという前代未聞の大芝居となった。
箕浦は、政敵である政友会の元田肇の弁護を受け、結局無罪となったが、政友会は若槻のことを「ウソツキ礼次郎だ」と皮肉った。

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(下巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

令和元年5月6日 追記)


【日本で最も聡明な人】

若槻礼次郎全権の『古風庵回顧録』(読売新聞社刊)によると、「条約(ロンドン海軍軍縮条約)の調印を終わったその晩、私は同僚および随員の全部約70人を、私の泊っていたグローブナー・ハウスに招待して、慰労の晩餐会を開いた。食後、隣室で煙草を喫ったり、談笑したりしていると、条約に不満である軍人たちが、こもごも私のところに来て不満を訴えた。こんな条約でそうして国家を護ることができるかという。私はそれは覚悟のうえで、いちいち応答していると、なかには憤激して、鼻血を流している者もあり、不穏な空気が漲みなぎっていた。私は事をわけて、政府の訓令自体が国防上不足であるという不満ならば、それは私の答える限りではない。しかし、今日調印した条約が、政府の訓令に違っているという非難ならば、ここでいくらでも答弁するといって、じゅんじゅんと説明した。こうして憤激した人たちを相手にして、私がいつまでもそこにいるので、随員中の文官たちが心配して、早く寝室に帰って休め、としきりにいう。けれどもここで私が引き込んだなら、軍人たちの不平に負けて、全権が逃げたということになるから、それはいかん、私は退かんといって、随員の軍人たちが全部帰ってしまうまで頑張りとおし、みんな引き揚げてから、自室に帰った」と記されている。
当時65歳の若槻が、いかに毅然としていたかがうかがわれる。

若槻は、この記述のあとに結論として、「外へ向かって戦うことは、同時に内に向かって戦うことであり、それでなければ、事はまとまらんものである」と言っている。

政治評論家・室伏高信が、「日本で最も聡明な人間は、長谷川如是閑と若槻礼次郎である」と評したことは有名であるが、鋭い理智の持ち主・若槻の性格に、こんな剛直な半面があったらしい。

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(上巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

令和元年10月7日 追記)


第2次若槻内閣

【昭和6年(1931年)4月14日〜12月13日】

成立

昭和6年を迎えると、内地では3月事件が発生する。
3月事件は、民政党浜口雄幸内閣の対支那友好政策に反発した陸軍の少壮将校(佐官クラス)が、民間右翼と計ってクーデターを計画したが未遂に終わった事件である。
その結果、翌月4月13日、民政党の若槻礼次郎が組閣し、浜口の英米協調外交を踏襲した。

(参考:惠 龍之介著『敵兵を救助せよ』 草思社 2006年 第1刷)

(平成22年1月17日・記)

内閣倒壊

昭和6年12月10日、第二次若槻内閣が、たった1日半で倒壊した。
午前中は何事もなかったのに、午後1時、民政党顧問・富田幸次郎が突如、首相官邸に若槻首相を訪問して、「政友会との協力内閣によらなければ、この難局(満州事変)を収拾することはできない」と申し入れた。
若槻はこれを拒否した。
これより先、安達内相は午前9時、井上蔵相を三河台の私邸に訪問し、同じく協力内閣説を述べたが、井上もこれを拒否した。
10日いっぱいゴタゴタした結果、11日午後5時、ついに安達内相が頑張ったため、内閣は総辞職してしまった。

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(上巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

令和元年10月7日 追記)


【重臣会議】

連絡会議での開戦決定につづき、昭和16年11月29日に重臣会議が開催された。
重臣とは首相経験者を主としていたが、出席した重臣たちには迫力も重みもなく、無力な重臣たちに開戦決定の経緯を説明するという形式的なものであった。
もとより決議機関ではないので、和平努力の機会が得られたかどうか疑問であるが、開戦を阻止できる最後の機会であった点は否定できない。
皇居で開かれた重臣会議には、つぎの人々が参列している。
総理経験者:岡田啓介、近衛文麿、平沼麒一郎、米内光政、若槻礼次郎、阿部信行、広田弘毅、林銑十郎。
政府統帥部:東条首相兼陸相、嶋田海相、賀屋蔵相、東郷外相、鈴木企画院総裁、星野内閣書記官長、杉山参謀総長、永野軍令部総長、武藤陸軍軍務局長、岡海軍軍務局長、山本外務省東亜局長兼アメリカ局長。

若槻元首相は主として財政・経済問題から開戦決意に疑問を訴えた。
若槻の要点はつぎの3点だった。
1、交渉不調に終わったからといって、戦争に訴える必要はないではないか。
2、臥薪嘗胆でいっても一時的に面目を失うが、最後には物資も勝利も得られるのではないか。
3、長期戦の対策はあるか。

さらに若槻は「面目のために敢て冒険をおかすことはない。現実に即して善処すべきである。支那問題を解決せずに、大東亜建設の如き理想を追うに急にしては国を亡ぼすに至りなきや」と、政府に善処を要望した。

しかし、最後の重大局面において、近衛を始めとする重臣たちが開戦反対の信念を貫くものであるならば、如何なる手段を用いても天皇の御臨席を仰ぐべきであったし、御賜餐の席でも機会が得られた筈である。
そうすれば、若槻元総理や岡田大将の発言も東条に無視されることなく開戦は回避できたかも知れない。
そうした機会を反故にしたのは、東条の官僚体質だったといって差し支えあるまい。
既に開戦を決意した東条は、重臣会議を懸案の政治日程として事務的に処理することしか考えていなかったのである。
だが、この東条の独断専行を許した背景に、新聞を始めとする「米英打倒」の熱狂的世論があり、国民の大多数が開戦を支持していたという事実を忘れてはならない。

(参考:宇都宮泰長 著 『元帥の自決―大東亜戦争と杉山元帥―』 鵬和出版 平成10年1月第2版)

(平成28年12月14日 追記)


若槻礼次郎の墓

若槻礼次郎の墓
(東京都豊島区・染井霊園)



(平成22年2月9日)



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