独立自動車第248中隊

(通称名:豪北派遣第5708部隊)


独立自動車第248中隊慰霊碑 独立自動車第248中隊 慰霊碑


愛知県幡豆郡の三ヶ根山にある”殉国七士の墓”の近くにあります。

碑誌

独立自動車第248中隊は昭和18年9月名古屋輜重兵第3連隊補充隊において中隊長深田育三以下184名をもって編成された 同年10月5日宇品出港釜山 台北 高雄 マニラ セブ ハルマヘラを経由して11月15日西部ニューギニア マノクワリに第4次突入隊として上陸し直ちに第2野戦飛行場設定司令部の指揮下に入る 後発の加藤小隊は一ヶ月遅れてビアク島に上陸 同19年3月中隊本部及び鈴木小隊はヌンホール島に上陸加瀬澤小隊は第2軍司令部直轄のレンダニ飛行場建設にあたる 同飛行場完成と共にムミに進出したが戦況悪化のため第1遊撃隊の指揮下に入り ムミ地区の防衛にあたった 時既に戦雲俄かに不利となりヌンホール島ビアク島は圧倒的優勢な米軍の上陸に遭遇して我が中隊を始め友軍一同勇戦敢闘二ヶ月遂に玉砕するに至った ムミ地区に進撃した加瀬澤小隊も連日連夜の猛爆と艦砲射撃を受け犠牲者続出し飢餓と悪疫のため半数が不帰の人となった 嗚呼恨みは深しニューギニアの山河
我らは終戦により万■の思いを残してこの地を後にした 以来41年戦陣に散った多くの戦友を憶うとき万感胸にせまるものがある 我らはここにその英魂を弔うためこの碑を建立した 願くは戦友諸氏安らかに眠り給え

昭和61年10月建立

*■はパソコン上で表示できない文字なので■で表示しました。


ヌンホル島

昭和19年7月2日、ビアク島西方約100キロ先にあるヌンホル島にも米軍が上陸した。
(ビアク島に米軍が上陸したのは昭和19年5月27日)
ビアク島といい、ヌンホル島といい、米軍がこの二つの小島の攻略にこだわったのは、ここに日本軍飛行場があり、その奪取が狙いだった。
この両島の飛行場を抑えれば、戦いたけなわのニューギニア戦線はもちろん、次の進攻作戦地と予定しているフィリピン、マリアナ諸島あたりの制空権確保が容易になる。

ヌンホル島守備隊は東京編成の歩兵第219連隊を中核とする総勢約2000名から成っていた。
(独立自動車第248中隊もこの守備隊に含まれる)
ビアク島と同じく、その多くが飛行場建設のための後方勤務部隊だった。
だが、ビアク島と同様、同島守備隊も力戦した。
夜襲に次ぐ夜襲をかけ、一歩も引かなかった。
手を焼いた米軍は奪取したばかりのビアク島飛行場からひっきりなしに飛行機を飛び立たせ、爆撃、銃撃を加えた。
落下傘部隊1500名まで繰り出して同島の飛行場制圧にかかっている。
8月下旬、守備隊2000の兵力は100人以下に減耗していた。
歩兵第219連隊連隊長・清水季真大佐は軍旗を土中深く埋没させ、将兵たちに向かってこれまでの健闘を謝したあと、ピストルを持ち、ただ一人、朝もやのジャングルに入って行った。
銃声1発。
「友軍はきっとやって来る。持久戦で生き延びよ」が最後の言葉となった。
これにより、生き残りの将兵たちは小グループに分かれ、自活生活に移っている。
だが、飢餓やマラリア、負傷の悪化により次々と倒れ、終戦まで生き延びたのは11名のみであった。

独立自動車第248中隊の原安夫一等兵は自動車部隊の戦友9人とともにジャングル内を、もっぱら食物を探すためさまよっていた。
米軍に殺されるか、餓死するか。
「イチかバチか」で、米軍陣地に食糧を盗みに出かけて成功するが、その直後、米軍の奇襲を受け戦友6名が戦死。
逃げ出した4名のうち1人は現地人の毒ヤリに突かれて「全身ムラサキ色となって」戦死したという。
戦死した6名の遺体にはカブトムシの大群がとりつき、遺体が6つの「虫の小山」のようになっていたという。
その後、原一等兵らは、その後合流した仲間と計9人で、米軍が廃棄していたドラム缶6個を利用してイカダを作り、対岸のニューギニア本島マノクワリに向け、7日がかりで「決死の脱出」に成功している。
「戦場離脱」で罰せられるのではないかと懸念していたが、原らの報告により「ヌンホル島の戦闘の経過が初めてわかった」として、事情聴取に当たった参謀から「御苦労であった」と、かえって慰労されたという。

(参考:土井全二郎著 『生き残った兵士の証言』 光人社 2004年)

(平成23年6月26日追記)


【ヌンホル島】


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