函館護国神社

北海道函館市青柳町9−23


函館護国神社 平成22年5月24日

【御祭神】

戊辰の役、箱館戦争より太平洋戦争に至る函館市・渡島支庁・桧山支庁・後志支庁(一部)管内の戦歿者1万3千余柱を祀る。

【由緒】

明治2年5月11日に箱館戦争の官軍(新政府軍)勝利が決定、5月18日に五稜郭開城、5月21日大森浜で招魂祭を執行。
さらに兵部省によって招魂社が創建され、9月5日から3日間盛大な祭典が執行された。
その後、招魂社は開拓使に引き継がれ明治7年に官祭招魂社となり、昭和14年法令により内務大臣指定の護国神社となった。

昭和21年10月1日GHQの神道指令により社号を潮見が丘神社と改称。
昭和29年11月1日社号を函館護国神社に復称する。

昭和29年の台風により御社殿、社務所、境内樹木が大きな被害を受けた。
昭和33年7月7日皇太子殿下御参拝。
弊帛料御下賜。
平成2年10月1日御鎮座120年記念事業として御社殿の部分修復、社務所改築、付設建物新築、大鳥居を建立する。

御社殿は多くの他の護国神社と同じく、内務省制定の護国神社様式である。
現在の社殿は昭和17年に御造営、昭和38年と平成2年に修復工事を行う。
現在の懸案は御屋根(銅板葺)の修復である。

境内の広さは約6千坪。
潮見丘の見晴らしのよい境内に鎮座している。
境内の内苑は芝生で、随時「芝神楽」「芝雅楽」を上演する。

境内には箱館戦争の戦歿者を葬ふる旧官修墳墓(新政府軍墓地)や美談の石と称される高田屋嘉兵衛の亀石、明治の碑では北海道最古の石碑である「招魂場碑」「戦死者人名碑」がある。
亀石を二つに分断したものが「招魂場碑」と「戦死者人名碑」である。
童謡「チューリップ」の歌碑、阿部たつを歌碑、阿部慧月、本庄登志彦の句碑、偕行会記念碑がある。

(リーフレットより抜粋)


護国神社入口





護国神社入口






(平成22年5月24日)

護国神社

明治2(1869)年、箱館戦争が終わって、兵部省は新政府側の戦没者を慰霊するために、招魂場を造営した。
境内に「招魂場」という大石があるのは、その時のものである。
同7年に招魂社となり、昭和14(1939)年に護国神社となった。
現在の社殿は昭和17年に完成したものである。
ここには、箱館戦争以降、西南の役、日清戦争から第二次世界大戦に至るまでの、戦没者の霊が祀られている。
境内には新政府側戦没者の墓や慰霊碑などがある。

函館市

(説明板より)

境内 社殿
社殿
鎮魂の碑




「鎮魂」の碑

内閣総理大臣 三木武夫




(平成22年5月24日)

附近図の碑 (『西イリサン・東ニューギニア・ソロモン群島附近図」の碑)

ニューギニヤ島並に周辺戦歿者慰霊碑

ニューギニヤ島並に周辺に戦歿した英霊は31万柱を越し道■出身者も多い。
いろいろの事情のため遺骨は現地にそのままである。
遺族と戦友がそれを悲しみ、総理大臣の揮毫を乞ひ鎮魂の碑を建立。
また歌碑は函館護国神社例祭献歌外一首で沖縄の北霊碑の前の歌碑、西イリアン、ジャヤプラの歌碑と全く同じである。

昭和51年6月27日建立
北海道ニューギニヤ会
大我口部隊

(副碑・碑文より)

偕行の碑




「偕行」の碑






(平成22年5月24日)

碑文

万世の為に太平を開けとの終戦の詔書を奉載し 血涙をのみ戈を収めて後に 祖国の再建を念じ吾等は全国に魁けて函館地方偕行会を結成した
想うに陸軍偕行会は明治10年 中国最古の詩経無衣の章より偕行の二字を撰び偕行同心 それを精神として創建され 戦時は砲煙弾雨の中に身を挺し 戦後は混乱の世相に処して 克くその精神を発揮し 愈々その真価を高めた
今 結成30周年を迎えるに当り 幾山河越え来たる往時を偲び誓を新らたにし 吾等 留魂の碑としてこれを建立する

昭和55年11月3日
函館地方偕行会 会長 渡辺祐之助

駆逐艦橘鎮魂の碑




帝国海軍駆逐艦 橘 鎮魂之碑







(平成22年5月24日)
少年海員の碑




少年海員之碑

運輸大臣 中村寅太 書




(平成22年5月24日)

昭和16年5月日本海運報國團は函館市の協力の下に函館普通海員養成所を開設後これを船舶運営会にて継承し昭和20年8月終戦と共に閉鎖せり
この■卒業生にして戦時の海上輸送の第一線に挺身せる若人は2千を越え そのうち120名は終にかへることなく護國の華と散る
また國鉄鐡函館船員養成所の生徒14名も戦死
これら少年海員の雄々しきおもかげを偲びそのいさをしを稱へみたま安かれと伊藤七三ぬしを始めゆかりの人々この碑を建立す

昭和41年8月15日
函館護國神社宮司真崎宗次謹みて■■

(碑文より)

大地への献身の碑





「大地への献身」の碑






(平成22年5月14日)
太平洋戦争末期昭和20年前後、敵の空襲潜水艦の恐怖に脅えながら、学徒援農隊当時中学生14〜16才は、農家の人手不足及び緊急食糧確保の為、全国より延べ1,542万人道庁公報によるそれは、国土防衛と食糧確保の為に「国家と青年」「国家と食糧」の名のもと北海道へ支援に来た。
北海道は、食糧蛋白の供給基地として、その労力は国家を救う原動力となった。
この貴重なる体験を培ったことが、昨今国でいう生涯自然体験学習でありその魁をなした。
将に北の大地は、愛情鍛錬の場であり私達の生きざまと多くの人々との心の絆によって、今迄困難にも負けずに来られたことの証を、次の世代を担う青少年達に引き継いでやりたいものである。
また新たな戦争のない出発点の交流の場として、茲に学徒援農記念碑を建立し、真の世界平和の母胎にしたい。

平成17年5月吉日
全国学徒援農生 有志一同

(碑文より)
招魂場の碑




「招魂場」の碑






(平成22年5月24日)

新政府軍の墓地 新政府軍の墓地
新政府軍の墓地
従軍烈士弔魂碑





二十七八年戦役 従軍烈士弔魂碑






(平成22年5月24日)
薩藩戦死者墓




戊辰 薩藩戦死者墓






(平成22年5月24日)
海軍戦死者弔碑




明治戊辰己巳 海軍戦死者弔碑






(平成22年5月24日)



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