(通称号:嵐6213部隊)
編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
京都 | 昭和13年 | 第116師団 | 湖南省宝慶 |
昭和13年5月に編成以降、終始中国大陸で戦った部隊。
日中戦争勃発すると、第116師団隷下部隊として中国に出動。
昭和13年6月24日、上海に上陸。
漢口と南京を結ぶ安慶の警備に従事。
春季皖南作戦、皖浙作戦、大別山作戦などに参加。
大東亜戦争に突入すると、昭和18年、常徳作戦に参加。
一号作戦では衡陽に進撃。
昭和20年4月から開始された米空軍基地(飛行場)を占領する湘西作戦に参加。
米中軍と激しい戦闘を行いながら雪峰山系に進出。
竜潭を目指したが、敵の熾烈な攻撃で5月16日、反転。
6月15日、澄水橋、拓木田地区に反撃のための陣地を構築し、そのまま同地で終戦を迎える。
歩兵第百九聯隊顕彰之碑 (京都市・京都霊山護国神社) (平成16年4月2日) |
碑文
我が聯隊は昭和13年5月伏見において編成され 爾来七年有半 中支の曠野に転戦し 揚子江沿岸地域に於ける作戦警備 湘桂作戦 ■江作戦等に参加
大東亜戦史に赫々たる戦歴を記した
此の間三千有余名の戦友を失う
今茲に生存者相集いて碑を建立し 等しく軍旗の下勇戦奮闘した往時を回顧し 亡き戦友の霊を慰めると共に光輝ある我が聯隊の武勲を永久に顕彰するものである
中支派遣嵐第6213部隊
昭和45年5月建之
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『御宸筆 歩兵第百九聯隊軍旗 奉納之地』の碑 (京都市・京都霊山護国神社) 昭和39年4月 第3中隊 神田是空外生存者一同 建之 (平成16年4月3日) |
『歩兵第百九聯隊略史』のプレート (京都市・京都霊山護国神社) (平成19年3月17日) |
中支派遣嵐6213部隊
歩兵第109連隊略史
昭和13年 | |
5月 5日 | 第16師団第6次動員1号下令。 |
5月23日 | 軍旗親授。 |
5月24日 | 動員完結。聯隊長陸軍大佐坂口静夫以下3,500名。 |
6月24日 | 中華民国江蘇省上海に上陸、浙江省杭州に至り、第18師団と同地付近の警備を交代す。 |
8月29日 | 武漢作戦の進展に伴い、第17師団と警備を交代のため、江蘇省鎮江に進出す。 |
9月10日 | 揚子江を遡行、安徽省馬当鎮に入港、第101師団より香口―湖口付近揚子江航行安全確保の任務を引継ぐ。 |
9月19日 | 香口付近の戦闘、宗仏山前面の掃討を実施したる後、東流県城を攻略、爾後聯隊本部は東流に位置す。 |
10月16日 | 池■作戦に参加、聯隊は鎮江口付近に上陸、10月22日上清渓河の線に進出。強行渡河。香口付近の戦闘以来の死没者、将校8名、下士官14名、兵89名。 |
昭和14年 | |
2月18日 | 聯隊は望江県城を奇襲攻略、揚子江に対する敵機雷放流の企図を封殺。 |
9月12日 | 陸軍大佐上住良吉、歩兵第109聯隊長を命ぜらる。 |
12月 1日 | 揚子江江岸冬期作戦参加、聯隊は12月1日より15年1月31日の間同作戦に参加す。 |
昭和15年 | |
3月16日 | 第2次香口南方地区の戦闘。聯隊は尖山を攻撃占領。 |
3月30日 | 聯隊本部、湖口に移駐。 |
5月13日 | 湖東作戦参加、聯隊は■陽湖水道を除港碼付近に上陸し、老頭頂山―横山東面にわたる線に陣地を推進す。 |
7月13日 | 故辻尾正大尉他73柱の慰霊祭を執行す。 |
11月15日 | 北部■陽作戦参加、26日秋浦付近に於て敵を殲滅して転進す。 |
12月 1日 | 聯隊は石婆嶺東西に展開、坂増王―小揚村を経て、12月4日■前街付近敵根拠地を攻撃覆滅、12月5日湖口に帰還す。 |
12月14日 | 故陣野弥寿久大尉他5柱の慰霊祭を執行す。 |
昭和16年 | |
1月14日 | は号作戦戦死者、渋佐彦右衛門少佐以下117柱の慰霊祭を執行す。 |
3月 1日 | 陸軍大佐渡辺雅夫、歩兵第109聯隊長を命ぜらる。 |
4月17日 | 第1大隊は西鳳凰山付近の討伐を実施、多大の戦果をあげ、師団長より賞詞を受く。 |
5月10日 | 石門街作戦参加。聯隊本部は方家嶺に前進、石門街付近の敵を掃討覆滅し帰還す。 |
6月18日 | 師団はロ号作戦を実施、聯隊は眠山に陣地を推進す。死没者、将校1名、兵7名。 |
9月 1日 | 翌年秋に至る間、第1大隊は浙江省象山地区において、蛍石資源確保警備の任にあたる。 |
昭和17年 | |
4月 1日 | 聯隊本部東流に移駐。 |
3月29日 | 望江地区太陽山付近の掃討戦。 |
7月10日 | 昭和18年陸甲第36号在支部隊臨時編成により、編成改正。乙装備より甲装備進攻作戦部隊に改編せらる。 |
10月 3日 | 聯隊は常徳殲滅作戦に参加、揚子江を遡行、漢口北方地区に上陸。 |
11月 2日 | 沙口付近の敵陣地に対し敵前強行渡河を行ない、退却中の敵退路を遮断。 |
11月23日 | 常徳外郭陣地の攻撃。聯隊は黄土山前進陣地を奪取。本戦闘で聯隊長布上照一大佐、聯隊付田原大尉、第3大隊長島村大尉等戦死を遂ぐ。 |
11月30日 | 常徳城攻略。彼我両軍は激烈なる市街地戦を展開、遂に常徳城を攻略。作戦終了後、参加兵団はそれぞれ原駐地に復帰す。聯隊の本作戦における抜群の功績に対し、軍司令官より感状を授与さる。死没者、将校17名、下士官26名、兵160名。 |
12月20日 | 陸軍大佐滝寺保三郎、歩兵第109聯隊長を命ぜらる。 |
昭和19年 | |
1月11日 | 常徳殲滅作戦を終えた聯隊は、武昌南方油坊嶺地区に集結、本作戦間揚子江沿岸の警備に任じていた第2大隊は、1月30日油坊嶺に到着、聯隊長の指揮下に復帰す。 |
2月 1日 | 師団は第13軍より第11軍の隷下に入る。 |
4月22日 | 湘桂作戦に参加。聯隊は武昌―漢口―沙市―赦穴を経て石首地区に展開。滝支隊として南下、第1大隊(飯島大隊)は師団主力の挺進大隊として師団主力と行動を共にす。 |
5月27日 | 聯隊は■池運河を渡河進撃。30日安郷を攻略、6月7日■江に突進す。 |
6月15日 | 陽動作戦行動を終えた聯隊主力は■江に終結。8月1日に至る約1ヶ月半、側面の擁護の任を完うす。第1大隊は、軍の重点正面たる師団の挺進大隊として衡陽攻撃の先陣を切り、その後桂林方面より衡陽に対する敵救援軍を、白鶴帆鋪において要撃。その功績に対し軍司令官より感状を授与せらる。 |
8月 1日 | ■江における任務を終えた聯隊は、寧郷、湘郷を経て、新醒寺に進出。 |
8月 8日 | 軍の直轄支隊として行動していた聯隊は師団長の隷下に復帰す。死没者、将校16名、下士官33名、兵355名。 |
9月30日 | 聯隊は資江左岸地区の掃蕩を終え、宝慶左岸地区を確保、宝慶北、西方地区を警備す。 |
11月 8日 | 師団は第11軍より第20軍の隷下に入る。 |
昭和20年 | |
4月11日 4月20日 |
■江作戦に参加。第1大隊は16日夕、白馬山頂を踏破。聯隊主力の援護進出の態勢を固む。聯隊主力は17日夜、隆廻司に進出、20日払暁、土嶺界を攻略、さらに攻撃を続け、第1大隊正面の敵からの強烈なる砲撃にわが軍の戦死傷者は続出、風雲急を告ぐ。聯隊に追尾しきたる敵の攻撃は激化す。前方、竜潭司には敵が急速に兵力を増強。 |
4月27日 | 師団は依然として竜潭司への進出を意図しあるも、四周の敵兵力は増大し、聯隊の戦力は日日低下す。空地よりの敵攻撃は間断なく続き、連日の白兵戦に戦死傷者続出。師団は5月6日聯隊に山門への反転を命ず。反転作戦は重大なる局面を迎えるに至る。 |
5月14日 | 聯隊は最後の難関たる馬脛骨―山門の隘路を強行突破、全部隊が進出し得たのは16日の昼ごろとなる。本作戦における聯隊の死没者は、第1大隊長飯島中佐755名(内将校31名)の多きにのぼり、その損害は甚大。 |
6月15日 | 聯隊は主力をもって澄水橋に、一部を柘木田地区に陣地を構築し、防衛態勢につく。 |
8月15日 | 終戦。18日詔勅伝達。 |
8月30日 | 聯隊は、師団命令に基き、軍旗を奉焼。聯隊長、滝寺大佐は転出。後任に稲垣大佐着任。 |
9月30日 | 聯隊は宝慶―湘潭―長沙道を経て、岳陽南方7粁、栄家湾付近に集結。 |
10月 8日 | 武装解除。 |
昭和21年 | |
5月 2日 | 聯隊は復員のため、鉄道輸送により漢口―鄭州―南京を経て上海に到着。内地帰還を準備。 |
6月11日 | 内地帰還のため上海港出航。 |
6月18日 | 鹿児島および佐世保港に上陸。復員完了。動員以来、各地に勇戦奮闘せる光輝ある我が聯隊の歴史、茲に終る。 |
平成元年4月2日
一〇九会
第7回合同慰霊祭
1993年4月建立
(プレート・碑文より)
※ ■は判読不明文字及びパソコン上での表示不可能文字。
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