(通称:鉄5448部隊)
編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
岡山 | 明治7年 | 第10師団 | フィリピン・ルソン島北部 |
戦歴
明治7年12月18日、大阪鎮台の姫路兵営所属として編成され、初陣は西南戦争でした。
明治21年には大阪の第4師団に編入され、日清戦争に参加。
明治31年には第10師団に移り日露戦争に参加。
大正14年に姫路から岡山へ転営しました。
昭和13年、日中戦争の漢口作戦で活躍しました。
昭和15年には満洲に駐屯して警備に当たります。
昭和19年には第3大隊が南方方面に抽出されました。
昭和19年7月26日、連隊に動員がかかり南方へ。
連隊の新編成は第4、第8、第12中隊を廃して、新たに第3大隊を編成するという縮小編成となりました。
総員約2,300名、馬匹30。
通信、作業、速射砲、連隊砲がそれぞれ中隊になり、各大隊には機関銃中隊と大隊砲小隊が付けられました。
昭和19年8月、満洲出発時の編成
連隊本部(約150名) | 連隊長 | 大佐 | 田島正男 | |
副官 | 大尉 | 遠山実 | ||
旗手 | 少尉 | 望月豊彦 | ||
本部附 | 中尉 | 小野清志 | ||
中尉 | 畑野稔 | |||
主計中尉 | 築沢克巳 | |||
主計少尉 | 荒井新 | |||
軍医少佐 | 阿部達 | |||
技術中尉 | 藤村貴好 | |||
獣医大尉 | 木村和弘 | |||
第1大隊 | 本部(27名) | 大隊長 | 大尉 | 立川潤吉 |
副官 | 中尉 | 小野豊 | ||
主計 | 主計中尉 | 三浦忠 | ||
軍医 | 軍医中尉 | 松本恵 | ||
軍医中尉 | 沖義比古 | |||
第1中隊(100名) | 中隊長 | 大尉 | 福元勝千夫 | |
小隊長 | 中尉 | 池田正之 | ||
小隊長 | 少尉 | 橋井峰太郎 | ||
小隊長 | 少尉 | 益田某 | ||
第2中隊(100名) | 中隊長 | 中尉 | 三村唯三郎 | |
小隊長 | 少尉 | 金尾毅 | ||
小隊長 | 少尉 | 長谷川坦亨 | ||
第3中隊(100名) | 中隊長 | 大尉 | 野崎勝 | |
小隊長 | 少尉 | 岡親弘 | ||
小隊長 | 少尉 | 藤井正 | ||
小隊長 | 少尉 | 小川久夫 | ||
第1機関銃中隊(136名) | 中隊長 | 中尉 | 岩崎保行 | |
小隊長 | 中尉 | 藤村森男 | ||
小隊長 | 少尉 | 福田勝明 | ||
第1大隊砲小隊(46名) | 小隊長 | 少尉 | 岡本誠一 | |
第2大隊 | 本部(27名) | 大隊長 | 大尉 | 内藤正治 |
副官 | 中尉 | 吉川純市 | ||
主計 | 主計少尉 | 阿部嘉信 | ||
軍医 | 軍医中尉 | 梅村友之 | ||
軍医少尉 | 栗田正長 | |||
第5中隊(100名) | 中隊長 | 中尉 | 藤井憲 | |
小隊長 | 少尉 | 白神英一 | ||
小隊長 | 中尉 | 楢本朔 | ||
小隊長 | 見習士官 | 青江粲 | ||
第6中隊(100名) | 中隊長 | 中尉 | 戸田秀夫 | |
小隊長 | 少尉 | 松本武 | ||
小隊長 | 少尉 | 奥野計作 | ||
小隊長 | 准尉 | 木戸幸藏 | ||
第7中隊(100名) | 中隊長 | 中尉 | 佐野満寿二 | |
小隊長 | 中尉 | 中島高一 | ||
小隊長 | 見習士官 | 雲渓某 | ||
第2機関銃中隊(136名) | 中隊長 | 中尉 | 武下圭助 | |
小隊長 | 中尉 | 田中弘道 | ||
小隊長 | 中尉 | 真田茂 | ||
第2大隊砲小隊(46名) | 小隊長 | 中尉 | 牛島輝次 | |
第3大隊 | 本部(27名) | 大隊長 | 大尉 | 森岡安太 |
副官 | 中尉 | 笹野資郎 | ||
主計 | 中尉 | 池内多嘉男 | ||
軍医 | 中尉 | 金子某 | ||
第9中隊(100名) | 中隊長 | 中尉 | 田辺宣夫 | |
小隊長 | 中尉 | 武村秀夫 | ||
第10中隊(100名) | 中隊長 | 中尉 | 平野実良 | |
小隊長 | 中尉 | 佐藤和平 | ||
小隊長 | 少尉 | 年岡高夫 | ||
第11中隊(100名) | 中隊長 | 大尉 | 小谷笹市 | |
小隊長 | 少尉 | 岩田周 | ||
小隊長 | 少尉 | 高橋剛一郎 | ||
第3機関銃中隊(136名) | 中隊長 | 大尉 | 皆川喜一郎 | |
小隊長 | 少尉 | 高下勇 | ||
小隊長 | 准尉 | 赤木又一 | ||
第3大隊砲小隊(46名) | 小隊長 | 少尉 | 阿部定義 | |
連隊直轄 | 通信中隊(125名) | 中隊長 | 中尉 | 坂手可甫 |
小隊長 | 少尉 | 有元泰彦 | ||
小隊長 | 少尉 | 宮原秀臣 | ||
作業中隊(100名) | 中隊長 | 中尉 | 山本清巳 | |
小隊長 | 少尉 | 荒木司郎 | ||
小隊長 | 少尉 | 田淵梅男 | ||
速射砲中隊(80名) | 中隊長 | 中尉 | 白神顯一 | |
小隊長 | 少尉 | 太田新三郎 | ||
小隊長 | 少尉 | 多田邦雄 | ||
小隊長 | 准尉 | 前田武次郎 | ||
連隊砲中隊(110名) | 中隊長 | 中尉 | 里見憲貞 | |
小隊長 | 少尉 | 小野鉄美 | ||
独立速射砲(22名) | 中隊長 | 中尉 | 小林基樹 | |
小隊長 | 中尉 | 小池弘志 | ||
小隊長 | 中尉 | 宮本宗夫 | ||
小隊長 | 少尉 | 吉田義一 |
昭和19年9月に台湾に移動し台中に駐屯して警備に当たります。
11月、連隊長が岡山誠夫大佐に交代、第3大隊長として田村英夫少佐が着任しました。
12月、フィリピンのルソン島に移動、上陸しましたが、敵機動部隊接近の報で揚陸作業は中途半端に終わり、輸送船は半数の積荷を残したまま出港。
このことが、事後の作戦行動に大きく影響したと言われています。
プンカンにおける第2大隊の戦い
12月23日に第2大隊が乗っていた乾瑞丸が撃沈され、第5中隊長藤井憲大尉以下約250名が戦死してしまいましたが、第2大隊はサンホセで第30師団から岡山出身者の補充を受けて新たに集成第8中隊を編成します。
その後、サンホセ北方のプンカン附近の”プンカン守備隊”に配属となります。
(プンカン守備隊=守備隊長は井上大隊・井上恵少佐)
第105師団(勤兵団)所属・臨時歩兵第2大隊(通称:井上大隊)
歩兵第39連隊の第1中隊(吉田隊)
歩兵第63連隊の第5中隊(三橋隊)
歩兵第10連隊の第2大隊(第6・第7中隊欠、第8中隊配属)(内藤大隊)
津田支隊(独立歩兵第11連隊基幹)の2個中隊
野砲兵第10連隊第1大隊(半中隊欠)(赤座砲兵大隊)
独立速射砲第26大隊の第3中隊
独立速射砲第21中隊の1個小隊
昭和20年2月9日、プンカン守備隊の右第一線の内藤大隊の第8中隊が先ず敵と銃火を交えました。
2月12日、激闘中に第7中隊が到着。
2月13日、第8中隊の斬り込みを企図するも失敗。
2月15日、第7中隊の斬り込みに失敗。佐野満寿二中隊長負傷。
連日の砲爆撃で死傷者続出。
2月25日朝、陣地内に敵兵が侵入し戦線が錯綜。内藤大隊長最後の突撃を敢行し戦死。
全身数十箇所に迫撃砲弾の破片を受けて担架上にいた第2機関銃中隊長・武下中尉が大隊の指揮をとる。
敵の進出が早く、担架での移動が不可能となり、武下中尉は部下たち元気な者に後退を命じ敵中に残る。
行動を共にしていた梅村軍医も後退せず残り、その後の二人の消息は不明。自刃したのではないかと言われています。
米軍は3月5日までにプンカン地区を完全に掃討しました。
日本軍の戦死者は1,250名と米軍戦史は記しています。
米軍の戦死者は40名、負傷者は165名でした。
第2大隊は第6、第7中隊のみ編成を維持、その他は各大隊及び中隊に分配編入され、第2大隊は消滅してしまいました。
(第6中隊は師団予備隊としてバレテで健在。第7中隊は殆ど全滅し、生存者は負傷した佐野中隊長以下4名)
「内藤大隊並金子中隊追悼之碑」 フィリピン・ルソン島のヌエバ・エシア州プンカンにある慰霊碑です。 昭和55年1月に建立。 平成15年4月28日 |
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「歩兵第10連隊比島戦没者追悼之碑」 岡山バレテ会有志により建立されています。 碑文には「戦没者2,942名、実に92%の多きに達している」と記されていました。 |
歩兵第10連隊主力は”バガバック”において第105師団(勤兵団)に配属され附近の掃討及び警備についていましたが、3月10日から18日にかけてバレテ峠に到着。第10師団に復帰しました。
到着早々、敵砲火の下で陣地構築をしますが、第3大隊は歩兵第63連隊に配属されたため、岡山連隊長の手元には第1大隊、第2大隊の第6中隊、連隊直轄部隊だけとなっていました。
その後、野戦補充隊から集成中隊1個を編成し吹野正美中尉を中隊長に充てました。
バレテにおける歩兵第10連隊の配属部隊
輜重兵第10連隊第2大隊(自動車編成・大隊長:米倉恵大尉)=歩兵に改編
鉄道第8連隊(連隊長:柳明雄中佐)
臨時第5野戦補充隊(隊長:松尾岩雄少佐。航空の通信・情報部隊を歩兵に改編)約600名
第1大隊の戦い
3月、”冑山”を占領し、第一線に第1中隊、第3中隊を、後方の第二線に第2中隊を配する。
3月下旬、敵の砲爆撃を受けるが、連夜積極的に斬り込み隊を放ち敵陣内を撹乱する。
4月5日頃から”妙高山”の米倉大隊の急を救うべく小部隊の斬り込みを行うが、戦力は日を追って消耗する。
殆どが斬り込みと栄養失調による消耗で、最悪時で斬り込みに行ける兵は第1中隊では6人にまでに減少する。
4月28日、連隊の反撃計画に基づき、第3中隊から佐藤中隊長が動ける兵50名を率いて、また、第2中隊からも斬り込みに行くが、いずれも消息不明となる。
第2大隊第6中隊の戦い
1月12日、バレテ到着。第10師団予備隊となり、歩兵第63連隊の機関銃小隊の配属を受ける。
米軍来攻までの1ヶ月間に堅固な洞窟陣地と散兵壕を築く。
プンカンの第2大隊玉砕の報が届く。
3月中旬、”要山”附近で本格的な攻防戦に入り、手榴弾戦を繰り返す接近戦となる。
第1小隊長・松本中尉負傷、第1小隊第2分隊(長:平野正男伍長以下5名)は夜襲を敢行し全滅する。
3月28日、中隊は全滅を賭して反撃を行い成功、敵が後退する。中隊の戦死者20名、負傷者多数。
4月19日、”妙高山”に配置されていた配属部隊の米倉大隊が全滅。
このため、”北部妙高山”の守備強化のため移動したが、この時の中隊員は80名であった。
4月29日に保有する全火力を集中して反撃に出る。
(第1機関銃中隊福田小隊の重機関銃×2、軽機関銃×4、擲弾筒×4、軽迫撃砲×1)
この頃から1日の被弾数が数千発に上り、陣地はことごとく掘り返される。
中隊の生存者は中隊長以下15名となる。
第3大隊の戦い
3月18日、第3大隊(長:田村英夫少佐)が”バカバック”からバレテ峠に到着。
歩兵第63連隊第2大隊(根本大隊)の陣地奪回作戦に協力するも損害続出のため撤退する。
4月15日、”金剛山”の確保に当たるが、第9小隊(長:田辺中尉)、第10小隊(長:平野中尉)、第11小隊(長:小谷大尉)の各小隊長が相ついで戦死。大隊の生存者50余名となる。
5月12日、”金剛山”の防禦戦を展開中に転進命令が届き、歩兵第63連隊の指揮下から離れ”帰山”に転進し、歩兵第10連隊に復帰しました。
しかし5月24日、第10師団から津田支隊(独立歩兵第11連隊基幹)の指揮下に入ることを命じられ、”帰山”から”龍山”へ移動、6月11日まで持久戦を展開しました。
歩兵第10連隊に再度復帰した時の生存者は約40名
バレテ峠 この峠は第10師団(鉄兵団)及び配属部隊が守備に当たりました。 |
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バレテ峠に建つ「戦没者追悼之碑」 |
碑の由来
この地は、昭和48年(1973)日本政府派遣の戦没者遺骨収集団が、この地域の戦没英霊のご遺骨を荼毘に附し、残灰を埋葬した所である。
この十字形追悼之碑は、日比親善慰霊会が住民の協力に感謝し、サンタフェ町に公民館を寄贈したことに対し、当時の町長、トム・チェンカイ氏が、日比親善と永遠の平和を願って土地を提供し建てたものである。
日比親善慰霊会
米軍の慰霊碑には、このバレテ峠で日本兵の戦死者は7,403名を数え、米第25師団は2,365名の戦死及び行方不明者を出していると記されていました。
6月1日に、遂にバレテは敵手に陥り、歩兵第10連隊はバレテを撤収、転進することになりました。
この時に集結した兵力は多数の患者を含め約600名ほどいたと言われています。
しかし、栄養失調とアメーバ赤痢に悩まされての転進のため、バレテ東方の”バラングアグ”に8月31日に到着した時には、僅かに170余名しかいませんでした。
歩兵第10連隊は補充人員も加えて3,162名のところ、戦没者2,939名、生死不明3名、生還者は僅かに220名でした。
歩兵第10連隊軍旗 昭和60年4月18日に復元されたものが岡山県護国神社宝物展示館に展示されています。 (平成16年10月3日) |
「岡山歩兵連隊史蹟碑」 (岡山県岡山市北区津島新野1−3−9「新野公会堂」) (平成22年5月3日) |
(碑文・裏)
歩兵第十聯隊
歩兵第五十四聯隊
歩兵第百十聯隊
歩兵第百五十四聯隊
歩兵第二百一聯隊
其他
騎兵第21連隊将校集会所 (岡山県岡山市北区津島新野1−3−9「新野公会堂」) (平成22年5月3日) |
(関連商品のご紹介)
筆者は歩兵第10連隊におられた方。 在隊当時の歩兵第10連隊のお話がたくさん載っています。 |
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