池田斉邦 いけだ・なりくに

天明6年(1787年)〜文化3年(1807年)


池田斉邦公の墓



鳥取藩第7代藩主・池田斉邦公の墓
(鳥取市(旧国府町)奥谷・鳥取藩主池田家墓所)




(平成16年11月20日)

鳥取藩第7代藩主

1787年(天明7年)鳥取城で生れる。
父は第6代藩主・池田治道、母は側室・於三保の方。
幼名銀之助。
銀之進には1歳違いの弟(永之進)がおり、江戸で生れたことから声援する者が多く、兄である銀之進は影が薄かったといわれる。
そのため、継嗣をめぐって、江戸と国表において対立が起った。
これを憂い、鳥取の用人役・佐々木磯右衛門は、1792年(寛政4年)藩主・池田治道の帰国に際して、兄の銀之進を継嗣とするよう諌言した。
治道は磯右衛門が銀之進を藩主に推すことで恩を売ろうとしているのではないかと疑い、磯右衛門を叱りつけ頭を竹扇で打つという事件が起った。
磯右衛門は自宅に帰り、息子2人とともに切腹して果てた。
この報を受け、治道は驚き、磯右衛門の死を病死として扱い、係累の者をもってその跡を継がせた。
この事件により、銀之進が世子として決まり、1798年(寛政10年)治道の逝去により、家督相続が認められた。
時に銀之進、12歳。
1800年(寛政12年)将軍・徳川家斉の前で元服式を行い、将軍の一字を賜り、斉邦と改名した。
斉邦の治政には、国目付のこと、幕府より美濃・伊勢・東海道川筋の手伝普請などを命じられ、藩財政の窮乏に苦しんでいる。
斉邦は幼時から家臣思いで、慈悲深い性格であったこと、また学問・芸術の育成にも心を配り、藩財政のために倹約に心がけた藩主であり、松平定信(老中・白河藩主)と島津重豪(薩摩藩主)から誉められる等、逸話の多い人である。
1807年(文化4年)21歳で逝去。
子供がいなかったので、あとは弟の永之進が継いだ。

池田家墓所 池田家墓所・山門
(鳥取市)

国指定史跡
鳥取藩主 池田家墓所


昭和56年10月13日指定

鳥取藩主、池田家墓所は、池田家初代光仲以下11代慶栄に至る、歴代藩主と藩主室等の墓所があり、75基の墓碑のほか多数の石灯籠を整然と配している。
藩主の墓碑は、いずれも亀趺円頭型の壮大なもので江戸時代大名墓所の代表的なものの一つである。

財団法人 史跡鳥取藩主池田家墓所保存会

(説明板より)



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