池田重寛 いけだ・しげのぶ

延享2年(1745年)〜天明3年(1783年)


池田重寛公の墓



鳥取藩第5代藩主・池田重寛公の墓
(鳥取市(旧国府町)奥谷・鳥取藩主池田家墓所)




(平成16年11月20日)

鳥取藩第5代藩主

第4代藩主・池田宗泰が31歳で逝去した時、その嫡子・池田勝五郎(のちの重寛)は、わずか2歳の幼時であった。
鳥取藩は分知家(西館)の池田定就を藩主とし、勝五郎をその養子にすることを幕府に願い出たが、幕府はこれを退け、勝五郎をもって家督を相続することを許可した。
勝五郎の生母は紀州徳川家から入った久姫(桂香院)であったことから、実家である徳川家の応援を得て勝五郎の家督相続に成功したものと思われる。
5代藩主についた勝五郎は1759年(宝暦9年)将軍・徳川家重の前において元服し、将軍の一字を賜って重繆と改名(のちに重寛と改名)した。
この間、桂香院の後見は続き、藩主が幼少のため幕府の監視も続いている。
1749年(寛延2年)幕府は鳥取藩政の状況を視察する国目付を派遣。
しかし、国目付の報告の内容によっては藩の取り潰しまでに発展する恐れがあったので、藩にとっては迷惑な存在であった。
重寛の治政において、前藩主・宗泰夫人である桂香院の存在は大きい。
当時、鳥取藩財政は「元文大一揆」などを経て大変苦しく、藩財政の立て直しには厳しい倹約の実行をせねばならず、桂香院は、江戸・鳥取両方の家臣に対し、幼藩主をよく保護すること、勤倹節約を主とすること、文武奨励をすること等を指示している。
重寛は、1783年(天明3年)38歳で逝去。

池田家墓所 池田家墓所・山門
(鳥取市)

国指定史跡
鳥取藩主 池田家墓所


昭和56年10月13日指定

鳥取藩主、池田家墓所は、池田家初代光仲以下11代慶栄に至る、歴代藩主と藩主室等の墓所があり、75基の墓碑のほか多数の石灯籠を整然と配している。
藩主の墓碑は、いずれも亀趺円頭型の壮大なもので江戸時代大名墓所の代表的なものの一つである。

財団法人 史跡鳥取藩主池田家墓所保存会

(説明板より)



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