平成15年4月24日
天保14年8月1日(1843年8月25日)〜明治43年(1910年)8月2日
東京駅の・丸の内口の前でお会いしました。
井上勝は文久3年(1863年)萩藩を脱藩してイギリスに密航し、ロンドン大学で土木や鉱山学を学びました。
明治元年(1868年)に帰国後、明治政府に出仕して鉄道行政にかかわり、鉄道頭、鉄道局長官などを歴任しました。
彼が著した「鉄道政略に関する議」は、官設官営主義の立場から全国的な鉄道体系を構想したもので、鉄道敷設法制定の契機となりました。
井上勝像 (東京駅丸の内口前) (平成18年5月25日再訪問) |
碑文
君自明治初年専任創設鐵道之事拮据経營基礎始立盡心斯業抵老不渝四十三年夏力疾訪制歐洲歿子塗次可謂斃而後巳矣茲同志胥謀鋳君像置諸東京車站以傳偉績於不朽云
大正3年11月建
井上勝 年表
天保14年 | 1843年 | 山口の萩に生れる |
文久3年 | 1863年 | ロンドンに密航、鉱山と鉄道を学ぶ |
明治元年 | 1868年 | 帰国、のち造幣頭 |
明治4年 | 1871年 | 鉱山頭兼鉄道頭となる |
明治23年 | 1890年 | 鉄道庁長官、貴族院議員 |
明治26年 | 1893年 | 退官 |
明治29年 | 1896年 | 汽車製造会社社長 |
明治43年 | 1910年 | ロンドンで客死、68歳 |
「日本の鉄道の父 井上 勝」
天保14年(1843)8月1日、長州藩士・井上勝行いのうえ・かつゆきの三男として、萩市に生れた。
6歳のとき、藩士野村作兵衛のむら・さくべえの養子となり名を弥吉やきちと言った。
16歳のとき、長崎に遊学し、オランダ士官から兵学を学んだ後、江戸にて砲術を学んだ。
文久3年(1863)藩命により、伊藤博文いとう・ひろふみ[内閣総理大臣]、井上馨いのうえ・かおる[外務・大蔵大臣]、山尾庸三やまお・ようぞう[工部卿]、遠藤謹助えんどう・きんすけ[造幣局長]、とともにイギリスに密航し、ロンドン大学にて鉱山・鉄道の技術などを学んだ。
明治元年(1868)に帰国したとき、実家に復籍して井上勝と称す。
造幣頭兼鉱山正をへて明治4年(1871)には、鉱山頭兼鉄道頭となり、鉄道局長、工部大輔、鉄道庁長官などを歴任した。
明治5年(1872)9月12日には、日本初の鉄道、新橋〜横浜間を開通させた。
この列車は9両編成で、時速35キロ前後だった。
これを手始めに神戸〜大津、長浜〜厚賀間と開通させ、明治22年(1889)にはついに、東海道線を開通させた。
とりわけ、京都〜大津間の施設には、初めて日本人の手だけでこの難工事を完成させ、わが国の鉄道技術自立の契機となった。
この事と平行して私鉄、日本鉄道会社の施設事業にも携わり、明治24年(1891)には、東京〜青森間724キロを開通させた。
この間、井上勝は常に現場にて工事の陣頭指揮にあたった。
その後、帝国鉄道協会会長に就任し、大陸各地を視察した。
明治43年(1910)鉄道院顧問として欧州鉄道視察中に病気で倒れ、若き日に過ごしたロンドンにて息をひきとった。
その生涯を鉄道に傾け続けたゆえに「鉄道の父 井上勝」と呼ばれ、東京駅丸の内中央口前の広場の銅像が今も鉄道を見守りつづけている。
「吾が生涯は鉄道を以て始まり、すでに鉄道を以て老いたり、まさに鉄道を以て死すべきのみ」
(萩市観光課・「自然と歴史の展示館」のチラシより)
井上勝 旧宅跡 (山口県萩市) 個人宅になっている様子なので敷地内には入らないほうが良いと思います。 外観の門のところだけ撮影しました。 門の前に石碑と井上勝の簡単な説明板があります。 (平成15年7月26日) |
萩駅(自然と歴史の展示館) 井上勝の資料が少しだけ展示されていました。 今年(2003年)8月1日は生誕160周年の記念日です。 また、山陰本線全面開通70周年の年でもあります。 (平成15年7月26日) |
井上勝の墓 (東京都品川区北品川4−11−8・東海寺大山墓地) (平成20年5月18日) |
井上勝の墓所 (東京都品川区北品川4−11−8・東海寺大山墓地) (平成20年5月18日) |
初代鉄道頭
井上 勝
1843(天保14)年〜1910(明治43)年
“鉄道の父”と称される井上勝は、萩藩士の三男として生まれた。
15才から長崎、江戸で学び、1863(文久3)年井上馨、伊藤博文らとともにイギリスに密航し、鉄道と鉱山技術を学ぶ。
日本の鉄道建設に最初から関わり、1871(明治4)年には初代鉄道頭となり、1872(明治5)年、新橋・横浜間の鉄道を完成させた。
その後、鉄道局長、鉄道庁長官を歴任して、東海道線をはじめとする主要路線の建設に努めるなど、生涯を鉄道に捧げた。
外国から導入した鉄道を、日本の鉄道として発展させた功績は多大である。
生前、自らの墓所として東海道本線と山手線(現在は新幹線も並走)に挟まれたこの地を選んだのは、死後も鉄道を見守っていたいという意向からであったと伝えられている。
(説明板より)
東海道線と山手線に挟まれた墓所
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