殉国七士廟

(愛知県幡豆郡幡豆はず町三ヶ根山)


殉国七士墓 平成17年4月3日

殉国七士廟由来

東條英機(元陸軍大将)
武藤章(元陸軍中将)
松井石根(元陸軍大将)
木村兵太郎(元陸軍大将)
土肥原賢二(元陸軍大将)
広田弘毅(元総理大臣)
板垣征四郎(元陸軍大将)

昭和20年8月15日に終戦となった太平洋戦争(大東亜戦争)の責を問い、アメリカ、中国、イギリス、ソビエト、オーストラリア、カナダ、フランス、インド、ニュージーランド、フィリピン、オランダの11ヶ国は極東国際軍事裁判を開き、事後法に依り審判し票決によって右7名に対し絞首刑を決定し、昭和23年12月23日未明前記A級戦犯7名の絞首刑が執行されたのである。
当時としては命がけで火葬場から東條英機大将を始めA級戦犯7名の遺骨を拾得しようと決心したのは、絞首刑の判決が云い渡された昭和23年11月12日午後のことであった。
なぜならば各担当弁護士が、遺体の家族引渡しの件でマックアーサー指令部を訪ねたが了解を得る事ができなかったからである。
このまゝでは遺体も遺骨も家族には引渡されず極秘のうちに処分される事が明白となるので、「罪を憎んで人を憎まず」という日本古来の佛教思想からしても、武士道精神として勝者が敗者の死屍に鞭打つ行為は許されない。
又日本の将来の平和追求のためにも日本国の犠牲者として罪障一切を一身に引受けて処刑される7名の遺骨は残さなければならない。
そこで遺骨だけでも家族に何とか渡したいとの一念■■■り大冒険が数名の有志で計画され、その事の実行に当っては綿密な計画を要した。
それには先ず刑の執行日を速やかに探知しなければと極東裁判米国検事某氏よりやっとの事で7名の刑の執行日はクリスマスの前日12月23日で、火葬場も横浜市久保山火葬場と推察する事ができた。
横浜久保山にある興禅寺住職市川伊雄氏を通し、久保山火葬場長飛田美善氏の協力を得ることにも成功した。
しかし当日は米軍の監視が厳重であり、一度は当初の計画通り7名の遺骨若干を一体ずつ別々に密かに米軍の眼を盗んで奪取し、一応計画は成功したかに思われたが、飛田氏がこれら遺骨の前の香台に日本人の習慣として供えた線香の匂いを不審に思い、感づいた米国人によりこの遺骨は再び米軍に取り戻されてしまった。
しかし、その時遺骨本体は既にトラックに積み込まれた後であったので米軍も面倒と思ったのか、奪取した7名の遺骨を全部一緒に混ぜ、幸いにも近くにあった火葬場内の残骨捨場に遺棄して帰ったのである。
この時米軍が持ち去った7名の遺骨は全て粉砕し太平洋上に投棄されたとの風評があるが、どの様に処理されたのか真偽のほどはわからない。
そこで、翌24日はクリスマスイブであり、浮かれて米軍の見張りが手薄になる事を知った三文字正平弁護士と興禅寺住職市川和尚は、木枯らしの吹き荒ぶ夜半黒装束に身を固め、飛田火葬場長の案内で目的の現場に入り込んだ。
周囲は暗くても、灯火と物音は禁物である。
骨捨て場の穴は深くて手が届くはずはなく、人が入れるような入口もないので思案の結果火かき棒の先に空缶を結び付け苦心して遺骨をすくい取ることに成功し、普通の骨壺1個にほゞ一杯を拾い上げて密かに持ち帰った。
見張りを気にして手探りで遺骨をかき集める作業は想像以上の大仕事であった。
遺棄された真新しい真白な遺骨はまぎれもなくこの世に唯一の7名の遺骨であり、これを奪取することに成功したことは、三文字弁護士にとっては一生を通じ命を賭した熱く長き一日のできごとであった。
こうして取得した遺骨は一時人目を避けて伊豆山中に密かに祭られていたが、幾星霜を重ねた後遺族の同意のもとに財界その他各方面の有志の賛同を得て、日本の中心地三河湾国定公園三ヶ根山頂に建立された墓碑に安置されることになり、昭和35年8月16日静かに関係者と遺族が列席し墓前祭が行われたのである。
以来毎年4月29日の天皇誕生日の良き日に例大祭を行うとともに、時折遺族が訪れて供養し、又一般の人々や観光客も花を手向けて供養する数を増し、更に戦病死された戦没者の霊をまつる慰霊碑が数多く建立され、これら遺族や戦友も度々ご参拝に参る様になり、世界平和を祈願する多くの人々により三ヶ根山スカイパークの名所としてクローズアップされてきた現在である。

弁護士 三文字正平 書
昭和59年10月31日 建立

(解説石碑より)

※ ■は判読不明だった文字です。

殉国七士墓 殉国七士墓
(愛知県幡豆郡幡豆町三ヶ根山)

碑文(副碑)

米國の原子爆弾使用ソ連の不可侵條約破棄物資の不足などにより敗戰のやむなきに至った日本の行為を米中英ソ濠加拂蘭新蘭印比11ヶ國は極東國際軍事裁判を開き事後法によりて審判し票決により昭和23年12月23日未明 土肥原賢二 松井石根 東條英機 武藤章 板垣征四郎 廣田弘毅 木村兵太郎七士の絞首刑を執行した
横濱市久保山火葬場よりその遺骨を取得して熱海市伊豆山に安置していた三文字正平辯護士は幡豆町の好意によりこれを三ヶ根山頂に埋葬し遺族の同意と 清瀬一郎 菅原裕 両辯護士等多數有志の賛同とを得て墓石を建立した
遥かに遠く眼を海の彼方にやりながら太平洋戰争の真因を探求して恒久平和の確立に努めたいものである。

昭和35年7月17日
極東國際軍事裁判
辯護團スポークスマン
辯護士 林逸郎 誌


【A級戦犯の慰霊碑】

熱海市近郊の伊豆山にある興亜観音堂にA級戦犯の遺骨が納められていたが、昭和33年になって、他の場所に移して祀ろうという話が持ち上がった。
その場所は、松井石根の出身地である三河湾が望める三ヶ根山(愛知県幡豆町)の頂上付近であった。

A級戦犯の遺骨については、長野県上水内郡長沼村にも善光寺の僧侶が確保している遺骨があった。
興亜観音堂に遺骨を納めた三文字弁護士は、長野にもA級戦犯の遺骨が一部安置されていることを知った時、かみついた一人であった。
「そんなはずはない。七戦犯の遺骨は、すべて興亜観音に安置されている。それ以外に遺骨があるなんて、まやかしだ」
三文字弁護士はこの話を聞いた時、やるせない気持ちでいた。
その三文字弁護士が、橋本欣五郎被告を担当していた林逸郎弁護士の協力を得て、新たな慰霊碑を造ろうというのであった。
計画は綿密に練られた。

三ヶ根山の頂上付近に「殉国七士墓」と銘打った大きな慰霊碑が、三河湾の海を見渡すように建立された。
元愛知県の県会議員だった三浦公山や幡豆町の町長(当時)の協力が得られ、除幕式は昭和35年8月18日に行われた。
新しい慰霊碑の中には、A級戦犯7人の遺骨が混ざったまま納められた。
この墓碑銘は東京・青山の石勝によって工事が行われ、豪壮な石を用いている。

7人の戦犯が亡くなってから、はや12年の歳月が流れていた。
東條未亡人や木村未亡人の姿も見えて思い出を新たにした。
慰霊祭は盛大に行われた。
東京裁判で、最も激しい弁護をした清瀬一郎や菅原裕弁護士も参列していた。
両人は、ここまでやるのが本当の弁護だと思ったからだ。

(参考:塩田道夫 著 『天皇と東条英機の苦悩』 日本文芸社 1988年10月 第10刷発行)

(令和2年9月6日 追記)


東條英機  松井石根  武藤章  広田弘毅  東京裁判



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