河村瑞賢 かわむら・ずいけん

元和4年2月15日(1618年3月11日))〜元禄12年6月16日(1699年7月12日)


伊勢国度会郡東宮村(現・三重県南島町)生まれ。
江戸に出て車力や人夫頭を経て、材木屋、土木建設業を営む。
老中・稲葉正則などと結んで幕府・諸侯の土木工事を請け負った。
明暦3年(1657年)の江戸の大火に際し、木曽の山林を買占め、焼け跡の普請を引き受けて巨利を得たという。
寛文10年(1670年)陸奥国信夫郡の幕領米の江戸運送を幕府に命じられ成功させる。(東廻航路)
2年後には出羽幕領米の江戸廻米のため西廻航路を改善した。
貞享元年(1684年)から畿内の治水工事にあたる。
晩年には鉱山の開発にもあたった。
元禄11年(1698年)功績により御家人に列した。
翌年82歳で没す。


河村瑞賢宅跡



河村瑞賢宅跡
(愛知県名古屋市中区丸の内2−17)





(平成20年4月16日)

河村瑞賢宅跡

瑞賢は、元和3年(1617)伊勢国に生まれ、後に江戸へ出て土木建築を請け負い、巨富を得て江戸屈指の材木問屋となった。
彼の才知は、海運・治水の事業に最も発揮された。
日本海沿岸から江戸へ年貢米を運ぶ東廻ひがしまわり航路、西廻にしまわり航路を確立すると共に、淀川の治水にも貢献した。
また尾張藩に招かれてこの地に住み、御用水や堀川等の水行の便について意見を述べたといわれる。

名古屋市教育委員会

(説明板より)


河村瑞賢の墓



河村瑞賢の墓

(神奈川県鎌倉市・建長寺)





(平成18年9月23日)

河村瑞賢顕彰之碑

海運業界の祖治河事業の先駆者河村瑞賢の墓石は元禄12年嗣子通顕により建立され、更に通顕の墓石は享保6年義篤によって建立されたものであり二百有余年の長い間風霜に晒されて建長寺境内塔頭金剛院跡に眠りつづけていました。
自然の磨損の甚だしい所隅々関東大震災にあって墓石は倒れ墳墓は破損されてしまいました。
その惨情を見、傷心の情深き菅原時保管長猊下を中心に官財界の有志相い集い「河村瑞賢墳墓保存会」を設立し、昭和9年9月墓石等の保存工事、追憶碑を建立して河村瑞賢の優れた業績を永く後世に伝えるべくご努力なされましたが、時は流れ、国家社会の現状は変遷し更めて海運治河事業の重要性が叫ばれて参りました。
私達関係者は過去の偉大なる河村瑞賢の業績に憶いをはせ平成5年10月「河村瑞賢墳墓平成保在会」を設立し、平成6年6月16日毎歳瑞賢忌を期して吉田正道管長猊下を大導師を拝請し、鍬入れ式等を挙行いたし境内整備等につとめて参りました。
茲にその意志を確認し、永く保存に関する諸行事等をいたし崇敬顕揚の念を深くするものである。

平成7年6月16日
河村瑞賢墳墓平成保存会

追悼碑・碑文

封建時代ニ於テ姓名ヲ歴史ニ留ムルモノハ 衣冠束帯ノ縉紳カ攻城野戰ノ有志ノミ
尋常平人ニ至リテハ 其事業ニヨリテ恵澤ヲ後世ニ施ス者アルモ 其姓名埋没シテ記サンザルモノ多シ
然ルニ此ノ間ニ於テ河村瑞賢ノ姓名ノミ喧傅セラルゝヲ見テハ其事業人物ノ如何ニ一時ニ傑出シタルカヲ想見スルヲ得ベシ
瑞賢ハ元和4年2月15日伊勢度會郡鵜倉村東宮ニ生ル
幼名ハ七兵衛 後十右衛門ト改ム
13歳ニシテ江戸ニ出デ車力 日雇頭ヨリ材木商トナリ 機略縦横 才思湧クガ如ク 為ス所人ノ意表ニ出デ 企テゝ成ラザルナク 40歳頃ハ其財力巳ニ海内無双ト稱セラル
幕府其才ヲ重ンジテ委任スル所多シ
其中最モ大ナルハ寛文11年奥羽諸國ト江戸トノ航路ヲ改メ 船舶ヲ強大ナラシメ 海難救助ノ法ヲ定メ 船頭水夫ノ待遇ヲ改善シ 海運ノ方法ヲ根本ヨリ變革シタルニアリ
従来奥羽ヨリ江戸ニ米ヲ送ルニ1ヶ年ヲ要セシガ 之ヨリ後東廻リ路ハ3ヶ月 北廻リ路ハ5ヶ月ニシテ足リ 而シテ仙臺ニ於ケル米價ハ金1両ニ7石ナリシモ 此後2石4斗ニ上リテ農民ノ得ル所 舊ニ倍シ 江戸ノ民マタ物資ノ缺乏ヲ免シ 地方経濟ヨリ國民経濟ニ移ルノ大勢ヲ促進ス
天和貞享ノ間マタ幕命ヲ奉ジテ淀川ヲ修理シ溝渠ヲ通ジ 排水ノ法ヲ講ジテ數百年来ノ患害ヲ除ク
元禄10年将軍綱吉之ヲ召見シ 次デ150俵ノ禄米ヲ給シテ若年寄ニ屬セシム
之ヨリ名ヲ改メテ平太夫ト稱ス
瑞賢ハ其■ナリ
元禄12年攝津河内ノ治水工事成リ 3月江戸ニ歸リシガ病ヲ得 6月16日82歳ニシテ死ス
彼身ヲ勞働者ヨリ起シタルニ似ズ
學問ヲ重ンジ萬巻ノ書ヲ家ニ藏シテ學者ノ觀ルニ任セ マタ私カニ學者給興スルコト少ナカラズ
新井白石ノ如キモ其1人ニシテ後 畿内治河記 奥羽海運記ヲ著シテ彼ノ功績ヲ傳フ
別ニ瑞賢ノ著ハシタルモノ 疏■提要 本朝河攻略記アリ
瑞賢マタ開境展土ノ志アリ
浪人小笠原長啓ニ資ヲ供シ太平洋ノ無人嶋ヲ開カシメントセシガ病ヲ以テ果サズ
是レ後ノ小笠原嶋ナリ
彼ノ一生ヲ見ルニ喬木ノ種子ガ風ニ弄セラン 雨ニ打タレ 不毛ノ地ニ落チテ芽ヲ發シ 遂ニ岩石ヲ劈キテ泰天ノ大樹ト積威ヲ凌イデ為シ得ルカヲ示ス記念塔ト云フヲ得ベシ
中島真雄君彼ノ墓ガ蔓草ニ掩ハレ 其文字風霜ニ磨損セラレテ讀ムベカラザルヲ見 傷心ノ情禁ズベカラズ
建長寺ノ菅原管長 近藤總理 松井七夫 栗田傅兵衛4君と謀ッテ為メニ墳墓保存會ヲ起シ 衆人ト力ヲ合セテ碑ヲ建ツ
余曽テ日本經濟史ニ於テ瑞賢ノ功ヲ傳ヘタル縁アルヲ以テ茲ニ文ヲ撰シテ以テ 其事ヲ記ス

昭和9年9月
竹越興三郎 撰
松本英一 書

(※ ■はパソコンで表示できない文字です)

瑞賢・通顕の墓



右:河村通顕の墓
左:河村瑞賢の墓

(神奈川県鎌倉市・建長寺)




(平成18年9月23日)
建長寺



建長寺・総門
(神奈川県鎌倉市山ノ内8番地)





(平成18年9月23日)

建長寺縁起

建長寺は巨福山建長興国禅寺といい、鎌倉五山の第一位とされる臨済宗建長寺派の大本山です。
今から約750年前の慶長5年(1253)に御深草ごふかくさ天皇の勅命で鎌倉幕府第五代執権北条時頼(1227〜63)が建立したわが国最初の禅寺です。
建長寺の開山(創始者)蘭渓道隆らんけいどうりゅう(1213〜78)は、中国の高僧無明慧性むみょうえしょうに学び、寛元4年(1246)33歳の時に来日し、九州、京都を経た後、鎌倉に入り北条時頼に請われて建長寺に迎えられました。
蘭渓道隆は、中国宋時代の純粋で厳しい禅風をそのまま導入し、一時は千人を超える修行僧を指導しました。
その教えは、現在国宝として寺に残る自筆の「法語規則」に見ることができます。
蘭渓道隆はその後、京都の建仁寺等にも移り、弘安2年(1278)に再び建長寺へ帰り、66歳で亡くなり、後宇多ごうだ天皇より大覚禅師という禅師号を賜わりました。
これは日本で最初の禅師号です。
北条時頼は、建長寺を建立した後も、大覚禅師や、二代目住職兀菴普寧ごったんふねいに師事し、禅を深く信仰しました。
また、時の権力者として建長寺を経済的にも支え、全国に禅宗を広め、自らも出家して法名を覚了房道崇がくりょうぼうどうすうといいました。

(リーフレットより)

ご案内

交通:JR横須賀線・北鎌倉駅下車 徒歩15分
拝観料:大人 300円


平潟港



平潟港
(茨城県北茨城市平潟町)





(平成18年11月10日)

平安期の頃関本里根川沿岸の長良千軒と言う一部落が洪水の為流され其の難民の一部が今の長浜(当時長良浜)に住み後天正の頃この地を開拓平方(後に平潟と改称)と命名一団体が独立した平潟港は仙台江戸間の唯一の自然港である
寛永年間仙台藩がここを築港し海路運送を始めた寛文十年伊勢国の大冨商人河村瑞賢が幕命により仙台荒浜より江戸間の航路を開拓平潟港に番所を設け陸奥の国よりの食糧を敏活にかつ正確に江戸に運び忽然として現れた世界一の大都市百万人の江戸の人々を餓死より救う事ができた
河村瑞賢の墓は鎌倉市建長寺にある
寛文九年鎮守八幡神社を現在地に遷座す
元禄二年徘■師逢国上人芭蕉碑を建う

  この辺り目に
     見ゆるものみな涼し

嘉永六年、藤田東湖此の地に遊ぶ
山静海■の一書を残す

(説明板より)

※ ■は判読不明な文字です。




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