近衛歩兵第5連隊

(通称号:宮3804部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
佐倉 昭和14年 近衛第2師団 スマトラ


昭和15年12月4日、動員下令。
翌昭和16年1月12日、広東省中山県唐家に上陸し、その後7か月間にわたって同地区周辺の警備に当たった。
同年8月初め、雷州方面作戦に従事。
次いで南部仏印に進駐し、約4か月間にわたって警備の任につく。

昭和16年12月、太平洋戦争勃発と同時に、山下奉文中将率いる第25軍に編入され、近衛師団の基幹部隊としてタイに進出した。
昭和17年1月8日、タイ・マレー国境を通過し、英印軍の抵抗を排除しつつ、シンガポールを目指した。
ジョホール州バクリの森林地帯において印度独立第45旅団の防衛陣地に遭遇し、激戦の末、これを攻略。
この戦闘で、敵軍の退路遮断の任を負った第3大隊(大柿大隊)は、前後7回の戦闘を繰り広げ、大隊戦力の6割を失うという損失を蒙っている。
マレー半島西海岸を進撃する連隊は、連隊長の岩畔豪雄大佐の名を冠し「岩畔追撃隊」と呼ばれたが、別名を「青シャツ自転車隊」とも称された。
緑濃いマレー半島での迷彩として、緑の軍服に緑の自転車を使用していたからである。
2月15日、シンガポール攻略に参加。
先陣となった第2大隊はジョホール水道の激しい流れに流されて、予定地点から離れたジャングル地帯に上陸したが、ただちにウッドランド高地を攻撃。
続いて連隊主力も上陸し、南部水源地付近の高地を占領し、さらに105高地の攻撃に参加。

シンガポール攻略後、連隊はスマトラへ転戦し、同地の平定戦に参加。
以後、3月27日からは、ジャワ・マレー地区の警備に当たる。
昭和18年6月、従来の近衛師団が近衛第2師団と改称される。
近衛歩兵第3連隊、近衛歩兵第4連隊と共に、近衛第2師団に編入される。
同年9月に第1大隊がアンダマン群島に転進し、のちにこの大隊は独立混成第35旅団独立歩兵第254大隊となった。

昭和19年1月、編成改正が完了し、砲兵、工兵、海上輸送部隊を含む海上機動旅団と同じ編成の部隊となる。
以後はメダン付近で海上機動訓練に明け暮れ、終戦を迎える。
昭和20年9月22日、ラビンチンギ西方約3キロのバシランゴム農園において軍旗を奉焼した。

(参考:『日本陸軍歩兵連隊』 新人物往来社編 1994年10月 2刷発行)





 近歩五戦死者之墓
 (シンガポール・シンガポール日本人墓地公園)

 (裏の碑文)
 故陸軍中佐大柿正一以下三百九十六柱
  昭和二十二年五月吉日
  近歩五残留作業隊将兵一同建立


(平成26年6月11日)
 


 慰霊碑群
 (シンガポール・シンガポール日本人墓地公園)


 左:「近歩五戦死者之墓」碑
 中:近衛歩兵第四聯隊慰霊之碑
 


(平成26年6月11日)



 トップページに戻る   陸海軍部隊リストに戻る

SEO [PR] !uO z[y[WJ Cu