天保10年7月11日(1839年8月19日)〜昭和6年(1931年)2月24日
太政官に出仕し、明治4年〜6年、岩倉遣外使節団に加わり欧米を視察。
記録係をつとめ『特命全権大使米欧回覧実記』を編纂する。
修史館で広く史料収集にあたり、ついで帝国大学文科大学教授兼編年史編纂掛となり、実証主義史学の発展に貢献。
『史学会雑誌』に発表した「神道は祭天の故俗」が神道家の非難を浴び、明治25年(1892年)に辞職。
のち早稲田大学教授となる。
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歴史学者 久米邦武誕生地碑 (佐賀県佐賀市八幡小路・加藤歯科医院) 息子は洋画家・久米桂一郎 (平成20年11月24日) |
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歴史学者 久米邦武誕生地 (佐賀県佐賀市八幡小路3−28) 道路の向かい側は洋画家・岡田三郎助誕生地 (平成20年11月24日) |
【『太平記』・考】
久米邦武は「太平記は史学に益なし」との論考の中で「太平記は下賤の人の昔綴りたる話本」とまで断定しています。
(参考・引用:『月刊 WiLL』 2019年4月号)
(令和元年9月11日 追記)
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