黒羽城 くろばねじょう

栃木県大田原市前田


黒羽城本丸跡 平成19年10月21日

黒羽城の由来

黒羽城は天正4年 大関高増 新たに築いて余瀬の白旗城より移った
北(玄武)に高山の丘陵連り東(青竜せいりょう)に流水の前田川走り 南(朱雀)にくぼ地の阿久津村あり(田町と称す)西(白虎)に那珂川を隔てて大道の石井沢村通じて(向町と称す)四神相応の地相を占めた城造りで本高1万8千石であった
其の後慶長5年 嗣子資増の代 會津の上杉景勝が徳川家康に叛いたので 家康はそれに備える為 臣下を黒羽城に遣し資増に命じて更に修築させ且つ鉄砲を給与した
築城と共に余瀬から寺院大雄寺 帰一寺 新善光寺が移転した。
明治4年廃藩置県となるまで295年間大関氏累代の居城であった
幕末に当り肥後守増裕は出仕して陸海軍奉行の重職を奉じ勝海舟と並びて偉名を天下にとどろかせた
且つ ひそかに開国勤皇の志を抱いて深く謀る所があったが不幸慶応3年卆去した
行年31
大正7年 朝廷 増裕生前の功を賞して正四位を贈られた

昭和40年10月
黒羽町観光協会

(説明板より)

【本丸跡】

大関氏居館(黒羽城)

大関高増は、進展する戦国の世に対処すべく新たな構想のもと、四神相応しじんそうおうの地としてこの丘を選び、複郭型居館ふっかくかたきょかんの黒羽城を築き、天正4年(1576)余瀬の白旗城から移った。
以後、近世大名大関氏代々の居館として、明治4年(1871)廃藩となるまで続いた。
残存する土塁どるい・空壕くうごうは、戦国末期の山城の機構を今によく伝えている。

平成2年9月
黒羽町

(説明板より)

黒羽藩大関氏
御本城御住居全図
「創垂可継そうすいかけい」「居館規矩きょかんきく」文化14年(1817)による

御本城御住居全図 (説明板より)

【三の丸】

『黒羽芭蕉の館』(三の丸跡)

【会所跡】

黒羽城跡について

黒羽城は那珂川とその支流松葉川との間の丘陵部に構築された複郭居館型の山城であり、黒羽藩主大関氏(外様大名・1万8千石)の本拠であった。
その規模は、南北約1,500m・東西約250m、面積約37.5haで、栃木県北部では最大である。
本城を本拠に定めたのは、戦国武将大関高増たかますであり、高増は、戦国騒乱の深まりの中で、天正4年(1576)、白旗城から黒羽城に移った。
同時に、白旗城内にあった大雄寺や帰一寺・新善光寺も、黒羽城内に移された。

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に際し、黒羽城主大関資増すけます(高増子息)は、他の那須衆と同時に、徳川氏に味方して、黒羽城において上杉景勝の動きに備えていた。
その際、徳川方から軍事援助(加勢の入城と武器供与)があり、また、黒門・中門・北坂門などが新たに設けられ、堀・築地が構えられるなど、黒羽城にも修築の手が加えられるところとなった。

その後、大関氏は、一度の改易・転封もなく、近世(江戸時代)を通じて、明治4年(1871)の廃藩置県までの約300年間、黒羽城を本拠とし続けたのである。
これは、関東の外様大名としては、大田原氏と共に極めて異例のことであった。
但し、黒羽城は、宇都宮・壬生・烏山・大田原などの諸城とは異なり、江戸幕府からは陣屋という評価を受けていた。

廃藩置県によって、黒羽城は廃城となったが、本丸跡(黒羽城址公園)とその周辺を中心に土塁・堀などの遺構は比較的よく残存しており、城下町黒羽のシンボルともいうべき史跡である。
黒羽城跡の公有地部分(本丸跡・二の丸跡・水掘跡・三の丸跡の一部)を対象として、黒羽町指定史跡となっている。
今後も永く保存されていくべき貴重な史跡である。

平成15年6月
黒羽町教育委員会

(説明板より)


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