松平宗衍 まつだいら・むねのぶ

享保13年(1729年)〜天明2年(1782年)


第五代藩主・松平宣維のぶずみの第一子。
3歳で家督を相続し、後に将軍徳川吉宗の偏諱へんきを授かり宗衍むねのぶと改める。
当時の藩財政は窮乏を極め1両の金にも困る程であったという。
延享4年(1747)18歳の宗衍公は自ら藩政に取り組むため小田切備中一人を補佐役とする新体制を確立し、「延享の改革」と呼ばれる経済政策を施した。
藩内富豪から銀を借りての藩営金融機関「泉府せんぷ方」、封土を切り売りする「義田ぎでん方」、開拓した新田を売却する「新田しんでん方」、ロウソクの製造販売をする「木実きのみ方」、などいずれも画期的な改革であった。
こうした政策に農村は活気付き、商業的作物の栽培や農業以外の各種産業を勃興させ、藩は徐々に潤うようになった。
また、名儒を招いて文教の振興も計ったという。
宗衍公は病弱であったこともあり改革6年目に小田切備中に譲るが、小田切も泉府方の運営に行き詰まり、退場したため改革の推進は困難になった。
宝暦10年(1760)幕府から比叡山山門普請の大工事が命じられ、藩財政は決定的な打撃を受けた。
同年、寺講の宇佐美恵助は意見書で「源濁て流れの清むことなし」と批判。
宗衍公は江戸で失意に沈み、辞任するまでの8年間、松江には戻らなかった。
その後も江戸で悠々自適し、天明2年(1782)、54歳で没した。


天隆公寿蔵碑



天隆公寿蔵碑

(島根県松江市・月照寺




(平成16年11月21日)

天隆公寿蔵碑

6代宗衍むねのぶ公(天隆公)は、病のため明和4年(西暦1767年)致仕剃髪して悠々自適されたが、安永7年江戸の天徳寺及び当寺に寿蔵碑を建てられた。
碑文は藩の儒者・荻野喜内(号天愚孔平てんぐこうへい)の撰文により宗衍公の治績について述べ、1941字の長文である。
碑及び亀跌の巨石は宍道湖西北岸から舟によって外濠まで運び更に枝渠えだがわを設けて、舟にのせたまま月照寺境内まで運んだという。
この亀が夜陰に市街を暴れ廻ったなどの伝説もあり、そのことは小泉八雲(ラフカデオ・ハーン)の「知られぬ日本の面影」にも紹介されています。

(説明板より)

寿蔵碑 寿蔵じゅぞう碑(大亀)

頭をなでると長生きするのだとか・・・
頭をなでるのを忘れた・・・
松平宗衍廟所



松平宗衍公廟所
(島根県松江市・月照寺)




(平成16年11月21日)


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