水野年方 みずの・としかた

慶応2年1月20日(1866年3月6日)〜明治41年(1908年)4月7日


江戸生まれ。
通称、粂次郎。
月岡芳年よしとしに入門して浮世絵を、山田柳塘りゅうとうに陶画を、柴田芳州に南画を学び、のちに渡辺省亭らにも師事。
「やまと新聞」の挿絵で名をあげる。
浮世絵系風俗画の代表的画家。
歴史人物画を得意とし、日本美術協会・日本美術院などに出品。
門下から鏑木かぶらぎ清方らが輩出した。


水野年方顕彰碑



水野年方顕彰碑
(東京都千代田区外神田2−16−2・神田明神)





(平成20年6月13日)

浮世絵師 水野年万 顕彰碑

水野年万 慶応2年〜明治41年(1866〜1908)43歳没。
神田神社の氏子内神田紺屋町の左官職の家に生れ、水野家の養子となる。
通称粂次郎。
翁斎・蕉雪と号す。
幼児より画を好み、芳年の門人となり浮世絵を学ぶかたわら、山田柳塘(陶器絵)・柴田芳州・三島蕉窓・渡辺省亭などについて南画を学んだ。
美人画や歴史風俗画を得意とした。
また明治20年頃から始めた「やまと新聞」の挿絵も好評を博した。
明治31年には岡倉天心の「日本美術院」創立に際し招かれている。
錦絵の代表作は「三十六佳選」「今様美人」シリーズなどがある。
門人の育成にも優れ、鏑木清方・大野静方・池田輝方・榊原蕉園などの優れた門弟を輩出した。

碑文(表面)
水野年方君は本姓野中氏通称粂次郎 慶応二年一月江戸神田に生る
月岡芳年に学び後諸派を研究し 率先浮世絵の向上に努力せり 屡展覧会審査員に選ばれ 其画筆致精微気品最も高し 忠信参館図は忝くも御府に入れリ
明治四十一年四月七日病没も年僅かに四十三平生情義に厚く門下秀才に富む
茲に胥謀りて塔を建て永く其徳を紀す
嗚呼君芸に游びて筆を■ひ根を培い筆精に韻高し 稟命永からざりしかど 芬芳は窮りなからむ
大正十二年四月
同庚の友 關巌二郎 撰并書

碑文(裏面)
発起人
(〜以下・略〜)

(説明板より)

千代田区指定有形文化財(歴史資料)
水野年方顕彰碑 一基
平成13年4月1日指定

この顕彰碑は、神田神社本殿の北側、裏参道の脇にあり、正六角形の燈籠をかたどった小塔です。
高さが3メートル78センチメートル余あまり、正六角柱断面の六角形の一辺は40.7センチメートルです。
この碑は、浮世絵系の日本画家である水野年方みずのとしかた(慶応2年・1866〜明治41年・1908)を顕彰するために、大正12年(1923)5月に門人らが建設したものです。
水野年方は、左官棟梁とうりょうの子として、江戸神田山本町に生まれています(一説に、神田紺屋町ともいわれています)。
明治28年(1895)ころまで、つまり彼の画業の前半期を神田東紺屋町で過ごしており、千代田区にとって関わりの深い画家のひとりです。
水野年方は、14歳で歌川派の月岡芳年つきおか・よしとしの門に入ります。
さらに、芝田芳州ほうしゅう・三島蕉窓しょうそう・渡辺省亭しょうていらの画風も学んでいます。
年方が実際に活躍したのは明治時代で、人物画のほか草木風景の描法にも独自の様式を樹立したといわれ、明治中後期には戦争画も描いています。
さらに、「やまと新聞」を始めとする新聞や雑誌の挿絵さしえも手がけており、新聞挿絵は年方によって一段の進展を遂げたといわれています。
年方の門弟としては鏑木清方かぶらき・きよかた・池田輝方てるかた・池田(榊原さかきばら)蕉園しょうえん・荒井寛方ひろかたらが、また鏑木清方の門弟としては伊東深水しんすい・山川秀峰しゅうほうがいるなど、水野年方一門からは近代日本画を代表する画家たちが多数輩出あれています。
この顕彰碑は、水野年方とその一門が、神田周辺に深く関わりをもっていたことを示すものであり、千代田区内における絵画の歴史を考えるうえで重要なものといえます。

平成14年3月
千代田区教育委員会

(説明板より)



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