ここが“忠孝台”か?

(マニラ東方高地)


平成18年(2006年)11月1日

外は湿度も高く蒸し暑く、ホテルの中は冷房がガンガン利いていて寒くて仕方なし。
さすがに昨晩は冷房を切って寝る。

午前8時、ステラさんに迎えに来てもらい、旅行社手配の車に乗ってマニラ東方高地に向かう。
昨日のうちにお墓参りの為多くの人が地方に行ったのだろうか。
マニラ市内はガラガラ、車はスイスイ。
渋滞に巻き込まれることもなく快調なドライブとなる。

出発して30分程度で“マリキナ”を通過。
ここは靴の生産で有名な町なのだそうだ。
しかし、中国製の格安の靴に押されて倒産に追い込まれた工場もあるとか。
かなりの経済的ダメージを受けているらしいが、最近は品質の問題で少しずつ仕事が戻りつつあるという。

マルコスハイウェイを走って“アンチポロ”を通過して東方高地に入って行く。
途中で“忠孝台”と思われる山を車中から撮影する。

忠孝台 忠孝台?

この山はマニラの方角は切り立った絶壁。
その反対側はなだらかな斜面という特徴のある形をしている。

昨年『山吹を偲ぶ会』の慰霊団に同行した時に、参加者の中に野戦重砲兵第22連隊のご遺族の方々が参加されていた。
それで事前に調べておいたのだが、この部隊は“忠孝台”に布陣していたのである。
昨年は“忠孝台”はどこかなぁ〜と地図と睨めっこしてバスの窓から外を見ているうち通過してしまったので、今回こそはとカメラを構えてジッと撮影のチャンスを窺がっていたのだ。

野戦重砲兵第22連隊は昭和15年に東京で編成され、中国にいたが、一部を残して昭和19年夏に比島に転進。
8月22日マニラに到着。この時第4中隊が乗った輸送船が沈められ第4中隊は海没。
連隊主力は“リンガエン”の陣地構築、この時第1大隊がこの“忠孝台”に陣地を作っていた。
11月には第3中隊をレイテ島に派遣。後に第3中隊は全滅して1名だけが生還したという。
昭和20年1月には連隊主力もマニラ東方高地に転進し、“忠孝台”に砲列を敷いた。
2月にはここからケソン大学に進出していた米軍の司令部を砲撃で吹き飛ばしたが、3月には米軍の攻撃で火砲を全て破壊され、3月18日に生存者約400名が“忠孝台”を脱出。
更に奥地に転進して戦い続け9月14日に武装解除を受ける。
マニラでの補充兵を含めた総員1,019名のうち復員したのは61名だった。

忠孝台 忠孝台?

私が入手した資料では、ここが“忠孝台”としているものがあるが、別の場所を“忠孝台”としているものもある。
更には“忠孝台”ではなく“忠孝山”としているものもあるからややこしい。
どの資料を信じてよいのやら・・・・
実際にこの山に登ってみて遺留品やら陣地跡を示すものを発見できれば確実なのだろうが・・・

この“忠孝台”では野戦重砲兵第22連隊は過去のニューギニアやガダルカナルの戦訓から横穴洞窟陣地を構築し、この中に装備されていた10センチ加農砲を隠して射撃する時だけ外に出して砲撃をし、また洞窟内に隠すという戦法を取っていた。
ということは・・・横穴洞窟陣地が見つかれば、ここが“忠孝台”ということになる。
砲兵連隊の観測所は“岩山”と呼ばれたところに設置されたそうなのだが、手元の資料にはこの“岩山”という場所が書かれていない。
さて・・・“岩山”はどこか?
この“忠孝台”と思われる山の山肌はゴツゴツとした岩肌。
頂上に登ればマニラ市内は一望の下に見下ろせる感じ。
観測所を置くには最適と思われる。
ということは・・・ここがもしかしたら“岩山”か?

さぁ〜わからなくなっちゃったぞぉ〜
自分の足で歩き回れば何とかなるかもしれないけど・・・・
勝手に他人の山の中に入っちゃうわけにもいかないだろうしねぇ〜
陣地跡を探してみたいが・・・無理かぁ〜


 


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