長崎市城栄町41番67号
平成19年3月27日
長崎県護国神社の由緒
長崎県護国神社は明治2年12月初代長崎府知事沢宣嘉、長崎市梅ヶ崎の地に市社宇を建立し戊申の役にて戦死せし43柱の英霊を奉斎し梅ヶ崎招魂社という、またその後台湾の役の戦没者536柱を市内佐古の地に招魂社を建立し奉斎、これを佐古招魂社と称した。
昭和17年3月両社を併せ長崎県護国神社と改称し、護国神社の指定を受ける。
昭和19年10月現在の城山の地に本殿以下竣功し遷座祭を斎行するも翌昭和20年8月9日、原爆により不幸にも本殿以下悉く焼失し灰となり、仮殿を営み祭祀続けて昭和38年10月再建、本殿以下現在のたたずまいとなっています。
昭和44年、長崎国体にご臨席の砌、昭和天皇、皇后両陛下にご親拝を賜り、また幾度とない幣帛料のご奉納をはじめ厚いご皇室のご崇敬をいただいています。
(リーフレットより)
案内板
当護国神社は本県出身の橘周太命たちばなしゅうたのみこと(橘 中佐、教育学者、大正天皇のご教育係を務められた)を始め同じく国の為に殉ぜられた方の和霊にぎみたま(幸福を持たらす神霊みたま)を等しく神様として国の平和と郷土の繁栄並びに家内安全の守護神としてお祀りされています。
皆様ご参拝して家運繁栄を祈りましょう
長崎県護国神社社務所
天皇陛下・皇后陛下 御親拝記念碑 (平成19年3月27日) |
碑文
昭和44年10月26日
長崎国体に御臨幸の天皇皇后両陛下におかせられては 特別の思召をもって 當神社に御立寄り御親拝あそばされた
両陛下の御親拝をまのあたりに仰いで 遺族は勿論われら戰友は 英霊とその遺族に寄せ賜まう御哀悼と御鳳情の深さに 感激と敬慕の念いよいよ極わまり 高らかに 両陛下の萬歳を唱和した次第である
本年は恰も 聖壽めでたく古希にわたらせ給ふ
ここにわれら奉祝の誠を結集し 廣く県民の協賛により 謹みて御親拝記念碑を建立する
両陛下御訪欧の秋
昭和46年10月26日
長崎水交会之碑 平成17年5月27日建立 (平成19年3月27日) |
碑文
明治5年に発足し、昭和20年に消滅した栄ある大日本帝国海軍時代の将兵及び海軍生徒により水交会を結成し、年2回会合して海軍時代の思い出を語り合った。
明治38年の日本海海戦の勝利の日から百年目にあたる平成17年5月末をもって散会した。
帝国海軍の栄高なる精神を永久に伝えるため、本碑を建立するものである。
長崎縣消防殉職者之碑 (平成19年3月27日) |
長崎市傷痍軍人之碑 (平成19年3月27日) |
碑文
この碑は戦争に従軍して傷痍の身となり物故した戦友の御霊を慰めると共に、あの様な悲惨な戦争のない世界が永遠に平和であるよう祈念して会員一同によってこれを建立する。
昭和51年5月吉日
長崎市傷痍軍人会
母の像 (平成19年3月27日) |
碑文
強くきびしく
やさしかった 母
おかげで私がある
お母さんありがとう
私たちのかなしみが
くりかえされることの
ないように
昭和50年春
長崎県連合遺族会青年部
慰霊碑群 (平成19年3月27日) |
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