満蒙開拓青少年義勇軍


【満蒙開拓青少年義勇軍】

関東軍は満州国支配をより徹底させるために満州農業移民100万戸・500万人計画をもって日本の農村各地からの農業移民を図ったのであるが、ひとり関東軍ということではなく、軍部中央や政府業務実行は当時の拓務省が主体となって国を挙げてこの実行を図った。
長野県の大日向村は村の全戸数の半数が分村移民した。
これが世にいわれる開拓団である。
おりから戦争も拡大の一途を辿り、20代、30代の農村青年が次々と兵役に召集されて行く。
拓務省が移民の必要性をいくら声を大にして叫んだところで、目的達成はおぼつかない。
ここに登場したのが満蒙開拓青少年義勇軍編成の建白書である。
それにより、健康な日本の青少年たち満15歳から19歳までの者を募集、編成し、茨城県下中津村内原に内地訓練所を設置し、満蒙開拓の中堅人物を育成することになった。
所長は加藤完治である。
加藤完治は日本国民高等学校の校長であったが、熱烈な天皇制的農本主義者であって、近代的な教育者というより塾風教育者として、教え子を非常に愛したが、集団訓練を大事にし、小銃を持っての歩哨巡察など兵農移民として軍隊的訓練方式が多く取り入れられた。
ここで一定期間の訓練を終わり、満州、主として北満各地の訓練所で農業訓練と軍事訓練を経ておよそ300名単位に1ヶ中隊として編成し、開拓地へ入植させた。
農機具はもとより武器も与えられた。
これが武装移民の青少年義勇開拓団であった。
全部で251個団、内原訓練所から送り出された総員は86,530人に及んだ。
かくして南方戦線に兵力を抽出して弱体化した関東軍は、在満日本人の根こそぎ動員を敢えてし、昭和19年も終わりに近い頃、満蒙開拓青少年義勇開拓団からも召集した。
残された老幼婦女子の一般開拓団はもちろんのこと、義勇開拓団も大半は後方に引き下がった関東軍より前方にあったから、怒涛の如く押し寄せるソ連軍に蹂躙され、現地人の暴行虐殺に晒され、言葉も尽くせぬ阿鼻叫喚があったのである。

(参考:内蒙古アパカ会・岡村秀太郎共編 『特務機関』 平成2年 国書刊行会発行)

(平成23年6月23日追記)


【満蒙開拓青少年義勇軍】

満蒙開拓青少年義勇軍の起源は、青少年の武装移民の発想であり、これは満洲武装移民の推進者として知られる陸軍の東宮鉄男とうみやかねお大尉(戦死後大佐に進級)と農民教育者加藤完治の合作で誕生した。
東宮が昭和12年(1937年)11月に中支で戦死した後は、加藤の中心的指導により遂行された。
加入資格は満14歳~19歳の男子で、茨城県東茨城郡下中妻村内原の訓練所で2、3ヶ月ほどの訓練を受けた後に渡満し、10町歩の耕作地を与えられた。
拓務省の監督下に満洲移住協会を窓口として募集者を集め、訓練所で心身を鍛練し、建国精神の徹底及び協同精神の涵養かんようをさせ、武装農業移民として満洲に送り出すものであった。
彼らには「満蒙開拓青少年義勇軍手牒」という皮張りの手帖が所長の加藤完治から手渡され、「よく読んでこれを守ってください」との言葉が添えられたそうである。
彼らが与えられた満蒙の耕作地は中国人農民等から強制的に買い上げられたものであったり、食糧事情の悪さから周辺から食料を盗んだ等の様々な理由から中国農民の反感を買い、敗戦時に襲撃を受けて多大な犠牲を出した。
敗戦までの義勇隊員総数は約8万6000名で、そのうちの死亡者は約2万4000名であったという。

(参考:『歴史読本 2009年9月号 特集・石原莞爾と満洲帝国』 新人物往来社)

(平成23年6月24日追記)






満蒙開拓青少年義勇軍之碑
熊本県護国神社




(平成23年2月8日)

【碑文】

義勇軍之碑建立の由来

昭和12年「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書」が閣議で決定され 国策として満洲開拓の聖業に参加せし者 当時十二、三才より十九才に至る純真なる青少年 全国で約九万名 本県から約三千名の多きを数えた
満洲の広野に第二の祖国を建設し五族協和の先駆者たるべく旺盛なる開拓精神を発揮し 着々と、その成果を収めつゝありし時 昭和二十年八月九日ソ連軍の進攻に始まる戦争終結によりそのすべてが消滅し去り 県出身三百数十名の拓友が 或は戦場に或は病魔に斃れて満ソの土と化した
こゝに生存者相集い 浄財を以て 満蒙開拓青少年義勇軍之碑 を建立し 今は亡き拓友の霊石を納め 御霊の永遠に安からんことを祈念すると共に 満蒙開拓青少年義勇軍の偉業を後世に伝えんとするものである。

昭和53年8月13日

中隊名 内原入所年月
第一次 赤坂中隊 昭和13年 2月
 〃   伊藤中隊   〃    3月
 〃   内 中隊   〃    4月
 〃   酒井中隊   〃    6月
 〃   大江中隊   〃    9月
第二次 柴垣中隊 昭和14年 1月
 〃   松井中隊   〃    2月
 〃   青柳中隊   〃    4月
 〃   間瀬中隊   〃    6月
 〃   高橋中隊   〃   12月
第三次 後藤中隊 昭和15年 3月
 〃   佐藤中隊   〃    3月
 〃   川村中隊   〃    9月
第四次 丸山中隊 昭和16年 3月
 〃   磨田中隊   〃    3月
第五次 川元中隊 昭和17年 3月
 〃   長田中隊   〃    3月
第六次 当山中隊 昭和18年 3月
第七次 田中中隊 昭和19年 3月
第二次勝間田中隊 昭和13年11月

  われらは若き義勇軍

われらは若き
      義勇軍
祖国の為ぞ
      鍬とりて
万里涯なき
      野に立たむ
いま開拓の
      意気高し
  いま開拓の
       意気高し
われらは若き
      義勇軍
秋こそ来れ
      満蒙に
第二の祖国
      うち樹てむ
輝く緑 空をうつ
   輝く緑 空をうつ





満洲開拓青年義勇隊慰霊之碑
栃木県護国神社

栃木県知事横川信夫書


(平成22年10月14日)

【碑文】

満洲開拓青少年義勇隊は昭和12年に創設され、14歳から19歳までの青少年が、茨城県内原訓練所を経て満洲(中国東北地方)に移住し、前後3年間、各種の訓練に従事しつつ北方守備の一翼を担ったものである。
当時政府は、民族協和、王道楽土、第二の祖国建設等の政策を掲げ、全国の青少年がその国策推進に協力することを奨励した。
この政策に夢と理想を見出した幾多の純粋な若い魂は、進んで義勇隊に入り、内原での厳しい訓練に堪えて渡満した。
この数全国で9万余、本県からも2千数百余名が応じた。
この間義勇隊の訓練と生活は言語を絶するものがあったが、夢と使命感を秘めていた拓友は、酷寒猛暑を克服してひたすら開拓の鍬を振るい、初志貫徹のため日夜精励した。
そしてその苦闘も報いられ、理想郷の実現する日も近くにあるやに思っていた。
しかるに昭和20年8月、敗戦という苛酷な現実に、若い情熱と努力の結晶は水泡に帰した。
その後の苦難は筆舌に尽くし難く、酷寒と飢餓、病魔に侵される悲惨な日が続き、斃れて若い生命を奪われた者、本県のみでも3百6十有余名に及んだ。
幸いわれわれは、励まし合い助け合って九死に一生を得、なつかしい母国の土を踏むことが出来たが、大陸の広野に空しく消えた拓友を忘れることは出来なかった。
ここにかれらの魂魄を故郷に幾久しく鎮めるため、生還し得た本県の有志が相集まり、相謀って、聖なるこの地に慰霊の碑を建て、その冥福を祈念するものである。
願わくは友よ、安らかに眠られんことを。


拓魂碑



拓魂碑
(広島県福山市・備後護国神社



(平成22年5月2日)

碑文

満洲開拓の悲願に燃えて 勇躍決起した満洲開拓青年義勇隊は北満の広野において極寒猛暑と闘いながら敢然と開拓の鍬を振う
然るに 壮図半ばにして或る者は病魔に冒され 或る者は戦場に赴き 終には敗戦という歴史的大惨事に遇い君の悲願は一瞬にして壊滅した 拓友の多くは痛恨望郷の思いを込めて 異国の丘に骨を埋めた
  嗚呼痛ましい哉
九死に一生を得て帰還した拓友相図り ここに碑を建て君の御霊を迎えて永遠に祀る
国策に殉じた君の開拓魂は 平和国家日本の礎石として 永劫に光を放つであろう

昭和48年3月
元満洲開拓青年義勇隊備後地区生還者一同

副碑・碑文

この碑は昭和13年から昭和19年の間 広島県より送出された満洲開拓青少年義勇隊約5千人のうち中国大陸に於て短い生涯を終えた677柱の霊を祀り再びかゝる事の起こらないため民族融和と恒久平和を祈念して備後地区生還者によって建立されたものである

武田中隊慰霊碑



満蒙開拓青少年義勇軍 武田中隊慰霊碑
(大分県大分市・大分県護国神社





(平成20年11月18日)
武田中隊慰霊碑



満蒙開拓青少年義勇軍 武田中隊慰霊碑
(大分県大分市・大分県護国神社)





(平成20年11月18日)

満蒙開拓青少年義勇軍 武田中隊慰霊碑

今ここに永遠にやすらめ我が友よ
      祖国のために散りし英姿を

昭和18年2月
大分県初の単獨郷土中隊として内原訓練所に入所
昭和18年5月
渡満、満州国四平省昌図訓練所にて原野開拓の農作業と軍事訓練にはげむ
昭和20年8月
終戦と共に武装解除、収容所生活や食を得るための重労働の生活が続き、発疹チフス等の流行、栄養失調等により死亡者続出す
昭和21年10月
内地へ引揚げ、大分県庁にて解散す

極寒・酷暑の異国で倒れた左記の霊よ 安らかに眠られん事を祈る
昭和53年10月21日
武田中隊生存者一同

(碑文より)

留魂碑



留魂碑
(大分県大分市・大分県護国神社)





(平成20年11月18日)

留魂

この碑に若き義勇軍が満蒙開拓のため昭和13年より大東亜戦争終結に満蒙の土となった拓友の魂魄を留る

            開拓の父 加藤 完治 詩
さし昇る朝日と共に鍬取りて
     磨け益良夫 義勇軍

   義勇軍歌
我等は若き義勇軍
   祖国の為ぞ鍬取りて
万里涯なき野に立たむ
   いま開拓の意気高し
      いま開拓の意気高し

殉国者名(~略~)

(碑の裏)
一 碑石 
沖縄宮古島産貝殻化石
寄贈者 沖縄拓友会一同

一 立像建立
第4次 前田中隊
大分豊国拓友会

一 碑建立
大分豊国拓友会
高知拓友会
沖縄拓友会

一 施工
宇佐市 森田建設(株)
代表者 森田政治

一 発起人
杵築市 大分豊国拓友会
会長 田辺■信


昭和49年4月吉日 建之

(碑文より)

慰霊像



満蒙開拓義勇軍慰霊像
(大分県大分市・大分県護国神社)





(平成20年11月18日)

北村中隊の碑



満州開拓青年義勇隊北村中隊の碑
(長野県長野市箱清水1-9-24・聖心侍女修道会前)

昭和16年度第4次満蒙開拓青少年義勇隊



(平成20年10月28日)

この碑をおとずれる方に

私たちが国策のきびしい求めのまゝに北満州の開拓の任をあたえられたのは昭和16年でした。
総勢269名。
その主力は15歳代の少年でした。
以来 異境の広野にいくたの苦しみを重ね 加えて第二次大戦の戦乱を身をもって経てまいりました。
その間 尊い数々の犠牲者を出しました。
測りがたい心のいたでをも受けてまいりました。
そして、あれから二十有余年。
ここに生存者一同 相計り 今は亡き友の霊をしのび あわせて 私たちの歩みの記録として、ここに一基の碑を建立いたしました。

昭和38年9月吉日
北信拓友会
元満洲開拓青年義勇隊 北村中隊

(碑文より)


拓友の碑



満蒙開拓青少年義勇軍第7次斉藤中隊
拓友之碑
(長野県松本市・長野県護国神社




(平成20年10月25日)

碑文

元満蒙開拓青少年義勇軍斉藤中隊は 217名の隊員をもって編成
昭和19年6月 斉藤義男中隊長指揮のもとに14・5才の少年達が肉親と別れ  遥か満蒙の広野に開拓の意気高く 時の国策を信じ大陸に渡る
しかし昭和20年8月 国境を突破したソ連軍の怒涛の進攻の前に なんら為す術もなく全員捕虜となる
銃口を背に 過酷な重労働を強られ 寒さと飢えと疲労のため つぎつぎに病に倒れ 実に120余名の隊員が 異国の土となる
あれから30余年の星霜が流れ とかく忘れがちなこの厳粛な事実に思いをいたし きょう茲にわれら生存者は美須々の森に集い 亡き師 亡き友を偲び  御霊の安からんことを祈願し この地に拓友の碑を建立する
歳月は流れども われらはいつもこの碑に集い 師を憶い 友を語り やがていつの日にか碑下にて相まみえんことを誓い 以て恒久平和への礎としたい

昭和51年11月吉日建立
興安拓友会

斉藤中隊足跡

昭和19年3月 南北佐久、東西筑摩、南北安曇松本より217名にて編成  内原訓練所へ入所
昭和19年6月 元北満州  満蒙開拓青少年義勇軍嫩江大訓練所へ入所
昭和19年10月 元西満州 興安訓練所へ移行 入所
昭和20年8月 ソ連軍の進攻により訓練所を撤収し避難行軍を開始
昭和20年9月 武装解除後収容所へ収容される 以後多数の隊員が病死
昭和21年10月 第一陣の帰国にはじまり昭和34年をもって生存者の帰国を終る

表字 小川袈裟男謹書
原石 山口村 寄贈
設計 有賀元彦
施工 白沢建設
石工 大谷石材店

(碑文より)

拓友の碑



拓友之碑
(長野県松本市・長野県護国神社)





(平成20年10月25日)

碑に寄せて

思えば昭和14年満蒙開拓青少年義勇軍大いなる夢と希望を抱いた3百余名の14、5才の少年が国策の第一線興亜の大業をめざして遠く異国の地に骨を埋める決意も固く懐かしい故国を後に敦賀港より壮途につきました。
満洲国勃利訓練所への道は遠く一日48キロの行程に大陸の野の花を見るゆとりもなく空腹と疲労を克服し一人の落伍者もなく到着
涙なくして開拓の途は歩めない辛苦の4年有余
やがて大東亜戦争勃発数多くの者が応召され或は病に倒れ終戦を迎えました
其の間の労苦は筆舌に尽し難いものがあります
不幸にして病に倒れ戦果に散り永遠に満蒙の地に眠る同志に対し哀惜の感に堪えません
終戦後同志を捜し求むる術もなく20数年の歳月は水の如く流れ去りましたが同志の熱意によりここに「拓友の碑」の建立を見ましたことは同志と共に歓喜に堪えません

当時中隊長佐藤剛吉

昭和48年4月17日
拓友会一同建之

(碑文より)

佐藤中隊の足跡

昭和14年4月 茨城県内原訓練所入所
同     6月 満洲国三江省勃利訓練所入所
同 16年4月  同 腰林子訓練所入所
同 17年3月  義勇隊訓練期間終了
同 18年3月  樺川県田録村大堆峯に移行 国美義勇隊開拓団となる
同 20年8月  終戦と同時に苦難の祖国復帰への途を辿る

建設委員長 大西 節
施工      深沢建設
石工      上條石材

(碑文より)


拓魂碑



拓魂碑
(愛媛県松山市・愛媛県護国神社





(平成19年11月9日)

碑文

国のため旧満洲へ渡り再び祖国の土を踏むことなく散華されし愛媛の開拓者の御霊よ永遠に安らかに

昭和48年
満洲開拓者殉難碑
建設委員会建之
題字 愛媛県知事 白石春樹


顕彰碑



顕彰碑
(和歌山県和歌山市・和歌山県護国神社





(平成19年4月13日)

碑文

昭和12年11月30日満洲建國の一翼を担う平和部隊として青少年義勇軍を訓練送出することが國策として決定せられ昭和20年迄に総数8万6千有余名が送出された
之等15、6才の青少年達は義勇軍綱領「我等義勇軍は天祖の宏謨を奉し心を一にして追進し身を満洲建國の聖業に捧げ紳明に誓って天皇陛下の大御心に副ひ奉らんことを期す」を遵奉してひたすら心身をかため世界青史に燦として輝く基礎を着々かためつゝあった秋予期しない終戦によって世紀の偉業は屯座し言語に絶した犠牲は永久の礎石として現地に残ったのである
わが和歌山県選出の義勇軍千5百有余も此の聖業に参■し自ら刻んだたくましい拓魂は今新しい意気と力となって生きている
茲に同志相計らい顕彰碑を建て後世に伝えるものである

昭和38年10月12日
和歌山県選出隊員一同

副碑・碑文

土の戦士として大陸に渡り第二の故郷建設と北辺鎮護の任務を遂行中 不幸にして若い命を国に捧げた亡き拓友のみ魂永久に安らかに

和歌山県拓友会

昭和38年10月12日建碑
昭和54年3月30日改修


拓魂


拓魂
(奈良市・奈良県護国神社

昭和47年11月吉日建之
奈良県拓友会



(平成19年4月10日)

碑文

この碑は 奈良県送出満洲開拓犠牲者の偉業を讃えその霊を慰めるため広く県民の参加を得て建てたのである
満洲事変後国策の根幹として満洲政策の重要な基盤をなしたのが満洲開拓で 本県からも満洲開拓青少年義勇軍に 開拓団に 報国農場隊に 約3千数百名が渡満した
右手に鍬左手に銃度々の匪襲を退けて開拓に国境警備に或は軍の協力部隊として奉公に専念した
然し終戦は我々開拓者には特に残酷の極みを体験させた
無一物の逃避行 衣食なく医薬なく次々に斃れた 凍死した 隊員は自決した 捕虜で死んだ その数千2百名
開拓関係の諸問題は未解決のまま今尚迎えられる事なく酷寒の異境に居る
我々も肉親も忘れることは出来ない
止むに止まれぬ同志は 兄等を迎える安らぎの場として最良の地を選んだ
どうぞ還って永眠されよ
我々は衷心より感謝を捧げその功を永久に残したい
真の平和の守護神となられんことを

奈良県拓友会

奈良県送出義勇隊
第1次 混成中隊 第2次 木場中隊 第2次 兵藤中隊 第3次 河野中隊
第4次 加藤中隊 第5次 甲元中隊 第6次 中西中隊 第7次 石畝中隊
奈良県送出開拓団
第10次十津川開拓団 第11次大塔開拓団 第12次芳野開拓団 第12次天理村開拓団
第1次汪清報国農場隊 第2次汪清報国農場隊 十津川報国農場隊  

(外柵碑より)


満蒙開拓慰霊塔



満蒙開拓 慰霊塔
満蒙開拓青少年義勇隊栗田中隊
(岐阜市・岐阜公園)




(平成19年4月3日)

碑文

昭和16年3月美濃若人弐百余名茨城県内原訓練所に満洲開拓義勇隊栗田中隊を編成
同年6月渡満浜江省一面波訓練所及び北安省鉄驪訓練所に多年開拓訓練に励む
19年4月永住地北安省綏稜県南長英屯に入植第4次岐阜義勇隊開拓団生まる
20年8月太平洋戦争終戦
団は解散の悲運
幾多団員は業ならず開拓の礎石と仆る
茲に生存者集ひ殉難同志の霊を慰め開拓の雄図を永く後世に伝う

昭和36年9月吉日
岐阜義勇隊開拓団生存者一同建立

栗田会のあゆみ

風雲急をつげる昭和16年3月当時の国策であった満洲國建設の使命と新天地開拓の夢と希望に燃え 県知事始め各市町村長より激励の言葉と祝辞を受け 県民からは日の丸の旗と歓呼の声援で見送られ岐阜県郷土中隊として日本を後に大陸に渡ったのである
年齢は八割強が14才の少年であった



  昭和16年3月8日
満蒙開拓青少年義勇軍として 茨城県内原訓練所に入所した
第3大隊第13中隊に編制された
中隊長は栗田英太郎
  昭和16年6月
敦賀港より渡満の途につく元満洲国浜江省珠河縣一面波 一面波訓練所に入所した
  昭和16年7月
一部留守隊員を残し関東軍特別演習勤労奉仕隊として ソ連国境近くの軍務についた
  昭和16年9月
軍勤解除で鉄驪に移行となった
北安省慶安県鉄山包 鉄驪訓練所 第5大隊栗田中隊
  昭和17年
大半の隊員は農作業と軍事訓練が日課となる
約50名は将来の村造りに備えて特殊技能修得の為訓練本部特科隊に編入された
  昭和19年春
北安省綏稜県北黒馬劉へ 第4次岐阜義勇隊開拓団として入植した
草葺き掘立て小屋の住居建設から村造りを始めた
村造りの進んでいる隣村の四国村に種々便宜を受けた
十余名が技能修得の為派遣された
  昭和20年5月
昭和18年頃より年長者から現地現役入営した
20年5月には一度に70余名が入営した
団に残った拓友は43名となった
  昭和20年8月
ソ連が参戦し国境を越えて進攻して来た
日本國敗れて終戦となる
その間にも 召集令状が来て一時は二百余名居た同志が 栗田団長他男子が7名女子子供5名となった
最後の入営者が即時帰団で43名となった
  昭和20年9月
団本部襲撃を受け付近の開拓団と共に四国村開拓団に集結した
四国村も襲撃を受け死亡者28名 我々同志からも負傷者が2名出た
  昭和20年10月
四国村を出て過酷な避難民の旅が始まった
哈尓浜市に向けて南下 途中ソ連軍に連行されシベリヤ行きになった者が3名居た
この頃5月の入営者の大半はシベリヤの収容所に送られ厳寒と食料不足や強制労働で苦労した
  昭和20年10月~翌年8月
この間哈尓浜で生活するも 不衛生と栄養不足 マイナス30度を越す寒さでほとんどの者が発疹チブスにかかり生死をさまよう日々であった
この時岐阜市出身の高井勇氏と知り合い世話になった
病気を克服した者から 思い思いに中國人の住み込み働いた
  昭和21年8月
哈尓浜を出て新京 奉天の難民収容所を経て 南下コロ島へ集結した
  昭和21年10月
夢破れて避難民の姿で帰国した
帰国早々高井氏の発案に協力 栗田の同志により岐阜駅前に ハルピン街を建設した
これが岐阜市のアパレル産業の源となった
事は岐阜新聞の「終戦から半世紀」の連載記事に紹介されたとおりである
  昭和21年~24年
一部中途で進路を変え離農した者も同じく入営しシベリヤに多くが抑留されシベリヤ収容所で苦労した者も逐次帰国祖国の土を踏んだ
  昭和27年
戦病死等で不帰の人となった同志の第1回慰霊祭を行ない次年度からは各地で会合を開き旧交を温めた
  昭和36年
拓友同志の霊を祀るため 尊い浄財を集めて慰霊塔を金華山水道山に建立した
爾後9月に慰霊の会を催す事を決めた
  昭和48年9月
栗田会として発足した
  平成元年
四国村引揚者と交流が始まり旧交を温めた
  平成3年
栗田会の会員による渡満50周年を記念し思い出の書「青春の追憶」を発行した
日中友好訪中団を結成し栗田会の有志が昭和57年61年と平成3年に訪中し ゆかりの地を訪問残留孤児と対話激励等を行った。
  平成7年
終戦後50年水道山からこの地に再び浄財を募り慰霊塔を移設併せて追碑を建立し慰霊祭を行ない生存者の念願を叶えて今は亡き拓友に心から哀悼の誠を捧げる

平成7年9月吉日
栗田会生存者一同

(追碑より)

追碑文

昭和の歴史に残る五十有余年前昭和16年国策としての大事業に僅か14 5歳の少年が中国東北部旧満州に 満蒙開拓青少年義勇軍として我ら栗田中隊二百有余名は 鋤 鍬あるときは銃を手に王道楽土の建設 五族共和の夢を胸に北満の地に渡りしが 図らずも昭和20年敗戦に夢破れ九死に一生を得 裸一貫で帰国 戦後の荒廃した社会のなかで郷土復興 自活の為と根性で恵まれた郷土社会を築き上げた 不運にも異国の地に骨を埋めた拓友同志の霊を祀るため 昭和36年金華山中腹に慰霊塔を建立 慰霊祭を行い青春を追憶慰霊し歓喜してきた今日 年老いて金華山での慰霊祭も至難となり 寂しさを痛感するとき岐阜公園に移設することとなった
この機を記念し拓友同志の名を刻み 後世に記す追碑を建立す
拓友生存者の念願を叶えた戦後半世紀の記念すべき年である
   兵戈無用  世界はひとつ

平成7年9月吉日
栗田会 拓友生存者一同

(追碑より)

拓友之碑




拓友之碑
(岐阜市・岐阜公園)




(平成19年4月3日)

碑文

■時大東亜戦争熾烈の半昭和18年錦秋我々満蒙開拓義勇隊岐阜県中隊は日本民族繁栄の一翼として墳墓の地に袂別し■■■■■■現地の酷寒酷暑と闘いつつ開拓に専念す
然るに図らんや戦争の終結に遭遇しその夢と事業は遂に水泡に■し死亡或は雄図空しく生還し今日に至る
而して戦後二十星霜を閲したる現在と雖も吾々愛国の至誠は不変■■■母国の永遠の平和と郷土発展に努力せんことを誓い併せて義勇開拓精神の同志の魂の寄り処としてこの聖地を選び記念の碑を建立す

昭和40年8月15日
旧横山中隊 朋友会一同
教士 馬渕 勲 文

拓魂


満蒙開拓青少年義勇軍
田中中隊之碑
拓魂
(岐阜市・岐阜公園)




(平成19年4月3日)

碑文

昭和19年3月若冠14才の少年我等232名は昿漠たる満蒙の原野に理想の開拓団を建設すべく第7次岐阜県田中中隊を編成その名満蒙開拓青少年義勇軍として茨城県内原訓練所にて2か月間の基礎訓練を終え同年5月勇躍渡満ハルピン訓練所に入所するや夏は熱砂の昿野に鍬振い冬は厳寒の国境に警備の銃を執る
時折りしも大東亜戦争は益々危急を告げ拓友150名は同20年4月及び6月の再度にわたり軍命により戦時勤労挺身隊として奉天市満洲車輌株式会社に派遣され鍬持つ手にハンマーを握り兵器増産に努め残りし友は訓練所に在りて食糧増産に励む
忘れ得ぬ日昭和20年8月15日戦局利あらず国破れ少年柘士の夢は悉く水泡に帰す我等ここに国の庇護なく同胞の愛の手薄く望郷の念日々に高まり加えて酷寒零下30度の冬季を迎う迫り来る寒気と飢餓は恐るべき悪疫伝染病と相まってあたら若き命を次々と奪い我が友41名は思いを遥かな祖国に馳せ父母の名を呼びつつ遂に異国の土と化す
亡友の霊靖からんと願いながらも徒らに過ぎ去りし二十幾星霜今ここに生ある拓友相起ちて逝きし友の冥福を祈りその拓魂を永遠に称えんとこの碑を建立す

昭和43年4月
田中中隊帰還者一同

田中先生略歴

1915年土岐市に生まる。
1936年岐阜師範卒、1976年土岐市立泉中学校長退官まで教職ひと筋40年奉職。
この間1944年満洲開拓の志に燃える県下の少年230余名を引率自ら中隊長として満洲開拓青年義勇隊ハルピン訓練所に赴く。
義勇隊創設以来最若年(29才)の中隊長ながら訓練生の指導に心血を注ぎ訓練本部長から全満義勇隊の最優秀中隊と賞賛を受く。
1974年海外引揚げ功労、外務大臣表彰。

平成6年12月吉日

(副碑・碑文より)

拓魂
満蒙開拓青少年義勇隊伊藤中隊之碑

(岐阜市・岐阜公園)

拓魂

満蒙の
野に鍬とりし開拓の
勇士の夢を
とわに忘れじ

(平成19年4月3日)

碑文

昭和17年3月5日満蒙の曠野に開拓を夢見 小さな胸に大望を抱いて第3次岐阜中隊を編成
中隊長伊藤喜馬太氏外289名
茨城県内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所に入所
同年4月27日親兄弟と別離の哀しみを胸に秘め曠漠たる満洲の地四平省昌図青年義勇隊訓練所に入所
夏は水沸く猛暑に悪疫と闘い 冬は零下30余度の酷寒をものともせず農事に亦軍事訓練に励み一意祖国日本の為と信じつゝ互いに励まし助け合い 昭和20年3月 3ヶ月の義勇隊訓練を模範中隊として修了した
その後大東亜戦争酣と成り一部は軍奉仕に出動他は銃と鍬を肩に氷雪未だ解けやらぬソ満国境 虎林県五十鈴開拓団に入植
開拓精神に則り日夜健闘したが同年8月10日未明突如ソ聯軍の参戦により我等の夢は空しく破れ去り宝西城外にて最悪の戦闘状態となり中隊長外若い義勇隊員49名 父母を呼びつゝ異国の夏草を血に染め散った同志のなきがらを手厚く葬むる事も出来ず心ならずも二十有余年の歳月は流れた
幸い 我等無事帰国した者 会い集い茲に同志の冥福を祈り永遠にその栄光を称えて故郷の地にこの碑を建立する

昭和41年3月
伊藤中隊帰還者一同

追碑文

雄途心ざし、満蒙開拓青少年義勇軍として国策に呼応し、華々しく満蒙の荒野の地に移住し、希望の達成に全魂を傾け、食糧増産、軍事訓練にいそしむも、戦局は悪化し敗戦の終結となり、志し半ばにして戦後九死に一生を得て帰郷し、国土復興に、又自らの生活のため苦難に打ち勝ち最善を重ね、今日の繁栄ある郷土と社会を築き挙げ、ここに歓喜に満ちた人生を期して居ることに万福の感がある。
時を追憶すれば日時の経つのは早いもので、渡満半世紀を得る年齢を重ねてきました。
ここに生ある者として、残れる同志拓友は、50周年を記念として現碑に無き友の銘記、併せて生存者の拓友名を刻み、永遠の拓魂に追碑を建立するものである。

平成4年4月吉日
五十鈴拓友会生存者同志


拓魂の碑



拓魂

(鹿児島市・鹿児島県護国神社





(平成19年3月30日)

碑文

昭和12年を契機として、五族共和、王道楽土建設と云う当時の国策の旗印のもとに、満蒙開拓、鍬の戦士、としてこの鹿児島県からも15、6才の少年達が続々と、歓呼の声に送られて満蒙(現在の中国・東北地方)の大陸に勇飛して往った。
その数、志友を含め実に6千余名もあった。
新天地での開拓生活の途上、我が志を果たさず次々と病魔に倒れ又敗戦によって、リュック一つを頼りに我が子を抱きしめ、銃撃の間をくぐりぬけて我に還ってみれば、主人や妻の姿は見えず既に愛児も愛児も息絶えていた。
悲惨その極に達した。
この予期せざる祖国の敗戦により、その理想も亦楽土も烏有うゆうに帰し、一大悲劇裡にその幕が閉じられた。
あれから既に30余年、今日に於ける我が国の現状を見るとき、この平和と発展の礎として散華して逝った、数多くの開拓戦士の存在と多大な貢献とを、瞬時も忘れてはならない。
ここに満蒙開拓の国策に殉じた鹿児島県出身の、満蒙開拓青少年義勇軍を始め同志関係者の、御霊みたまを祀り永遠とわに拓友、同志の遺徳を顕彰し後世にこの偉業を知らしめるため、拓魂之碑の建立実現を図った。
願わくば我等の眞意を諒とせられ、嗚呼 我が同志の諸霊よ、安らかに眠り給え。

昭和52年10月
鹿児島県満蒙開拓之碑建立委員会

鹿児島県送出義勇隊隊名
連桂義勇隊開拓団 昭和13年4月渡満 油田中隊 昭和13年4月渡満
和気中隊 昭和13年6月渡満 内中隊 昭和13年6月渡満
三井義勇隊開拓団 昭和13年7月渡満 双葉義勇隊開拓団 昭和13年9月渡満
笹岡中隊 昭和13年9月渡満 圏泡義勇隊開拓団 昭和13年11月渡満
寛溝義勇隊開拓団 昭和13年12月渡満 野上中隊 昭和14年4月渡満
秋津島義勇隊開拓団 昭和14年6月渡満 勝武義勇隊開拓団 昭和14年9月渡満
大和鎮義勇隊開拓団 昭和14年12月渡満 三州義勇隊開拓団 昭和15年7月渡満
大宮義勇開拓団 昭和16年9月渡満 五花義勇隊開拓団 昭和17年5月渡満
竹下中隊 昭和18年9月渡満 宇慶中隊 昭和19年6月渡満
篠原中隊 未渡満 頭道義勇隊開拓団 昭和13年6月渡満
中山中隊 昭和13年9月渡満  

(碑文より)


拓魂の碑



拓魂 旧満洲国

(長崎市・長崎県護国神社





(平成19年3月27日)

碑文

昭和初期五族共和国策遂行の先駆者として満洲の地に骨を埋めんと彼の地に渡りし長崎県出身開拓者2150有余名を数うるも生死不明の者未にその数さだかならず
終戦後現地での無慙極りなき惨状を今こゝに語ずとも満洲開拓史等の記録に雄弁に綴られ、実録筆舌に盡し難きものなり
今茲に生を得し者相語り関係多数の協賛を得て拓魂の碑を建立す
希は在天の御霊来りて之をうけ冥福あらんことを祈念す

不二義勇隊開拓団  豊春義勇隊開拓団
日高義勇隊開拓団  山前義勇隊開拓団
鏡泊湖義勇隊開拓団  万宝義勇隊開拓団
八千穂ヶ丘義勇隊開拓団  新千穂義勇隊開拓団
南英義勇隊開拓団  弥進義勇隊開拓団
圏泡義勇隊開拓団  広根義勇隊開拓団
伊和生義勇隊開拓団  当山中隊
豊里義勇隊開拓団  福田中隊
大通河開拓団 他長崎県出身開拓団

昭和53年4月29日
長崎県拓友連合会


満洲開拓青年義勇隊碑



満洲開拓青年義勇隊碑
(京都市・京都霊山護国神社)





(平成19年3月17日)

満洲開拓青年義勇隊碑の由来

この碑は京都府から送出された2千名の満洲開拓青年義勇隊(内地では満蒙開拓青少年義勇軍と呼ぶ)の事績を顕彰し殉難隊員慰霊のため建立するものである。
我が國の生命線と言われた満洲の開拓は日本民族発展の重要國策として推進され、その中核となったのがこの義勇隊である。
隊員は歳ようやく14、5才にして家郷を離れ辺境に新しい村づくりを志し、大陸に鍬を振い銃を執って食糧増産と北辺鎮護に挺身したのである。
しかるに昭和20年8月敗戰によって建設の夢破れ、戰乱の大陸を砲火に追われ飢えと病の死の避難行となり5百名の隊員は夏草の下、凍土の上に斃れて未だ帰らず戰後25年経たのである。
かつて大陸開拓に寝食を共にした同志拓友相はかり各方面の協力を得て、靖國の神となり護國神社に合祀された霊山の聖地を選び拓魂安らかに鎮まり、永遠に祖國の平和と繁栄を守り給えと祈るものである。

(副碑・碑文より)

京都府送出満洲開拓青年義勇隊
昭和13年 混成京都義勇隊開拓団 日高、依吉美、大和鎮
昭和14年   寛溝、図南、八栄、五花、朝日、慶山、龍湖、三道冲河、晨明
昭和15年   大黒河、大日■、万宝、昭國
昭和16年 第一次京都芦田中隊 大仙
昭和17年 第二次京都前原中隊 大崗
昭和18年 第三次京都大槻中隊 勃利
昭和19年 第四次京都藤田中隊 大石頭
昭和20年 第五次京都中村中隊 勃利

(碑文より)
※ ■は判読不明文字


モニュメント



拓魂のモニュメント

(静岡県静岡市・静岡県護国神社





(平成18年4月13日)

建立の由来

満洲開拓とは現在の中国東北地区に五族協和王道楽土世界創建の大理想のもとに生まれた満洲国に国造りの基礎としてこの地に眠る広大ななる未墾の沃野に大量の移民送出が国策として推進された大規模農業開発のことである
満洲建国より太平洋戦争の終結に至るまでの十有三年間全国から実に32万余人本県から開拓団満洲開拓青少年義勇隊併せて6520余名の入植を見たが昭和20年8月15日祖国日本の無條件降伏満洲国の崩壊により悲運の幕を閉じたのである
農は善なりの素朴な哲学に徹し聖業の名のもとに土の戦士として不撓不屈の開拓精神をもって村創りに精進これ努めたのであるが あたらその血と汗と涙の成果は歴史の断層に難民と化し非命に斃れた者約8万有余人
本県人も1670余名に及び実に世界植民史上空前の惨憺たる終末を迎えたものである
時流れて二十八春秋日中国交正常化を契機に昭和48年9月合同慰霊祭並に総決起大会を県の後援を得 駿府会館の於て挙行し大会決議によって拓魂碑を建立することになった
爾来相寄り回を重ね慎重協議の結果護国神社静霊奉賛会の厚志と県当局県下市町村の協賛助成を賜わり一般多数の協賛浄財と会員の拠出金により本県送出の全物故者を奉祀いたし永く拓魂を顕彰し併せて慰霊供養の誠を捧げ不滅の開拓精神を後世に伝え戦争なき真の平和の希いをこめて茲に拓魂の建立を見たのである

昭和50年4月20日
拓魂碑建立委員会

(副碑・碑文より)

拓魂碑



拓魂碑

(静岡県護国神社)





(平成18年4月13日)

あゝ拓魂

民族の悲劇に散った 満洲開拓の霊やすかれと祈りをこめて護国の英霊を祀る神域に拓魂の碑を立つ
五族協和道義世界建設の理想のもとに永遠の平和を希がった君たちは国家と運命を共にし国策に殉じたのである
かつて日本の生命線とまで叫ばれた赤い夕日の満洲に眠る君たちを憶うとき雄図空しく歴史の断層に斃れた非命に痛恨の涙はつきない
日本人として この前に ぬかずくとき新たな民族の使命を感じ君たちの遺志を無にすることなく自由と平和の道を拓くことを誓うものである
開拓精神は創造発展の真髄 真理探究の■である 君たちの永遠の生命を信じ冥福を祈る

昭和49年4月23日
静岡県知事 竹山祐太郎

(碑文より)

※ ■は判読できなかった文字です。


拓魂碑


拓魂碑
(滋賀県彦根市・滋賀県護国神社

昭和47年12月
滋賀県知事 野崎欣一郎謹書



(平成18年4月10日)

顧みるに 満蒙開拓事業は 昭和7年より20ヵ年 百万戸移住計画に基づき  民族共和の理想実現と 日本民族の発展とをめざした当時の国策であった
この要請にこたえて本県送出の44個団隊千八百余名の開拓者たちは 現地の苛烈な気候風土を克服し あらゆる困苦欠乏に耐えながら営々と未墾の沃野を拓き 着々その成果を挙げつつあった
然るに 昭和20年8月終戦によって その雄図は挫折したのみならず 異境で遭遇した開拓者の末路はあまりにも悲惨であった
戦火に追われ 混乱する治安のなかで 一家は離散し 母子相擁して命を絶つ者  逃避放浪の末生死不明の者 ひたすら帰国を夢みつつも遂に飢餓と病魔に斃れた者 四百余名を数え この渦中に可憐な14・5歳の青少年義勇隊員もあたら青春を犠牲にしたのである
爾来二十幾星霜 辛うじて生還した拓友をはじめ 同志相計り 多くの賛同を得て 此の地に拓魂碑を建立するに至った
悲運の肉親同胞を偲び 諸霊の冥福を祈願するとともに われわれもまたこの碑に集い祖国永遠の平和と弥栄を冀うものである

昭和47年12月9日
滋賀県満蒙開拓物故者慰霊碑建立委員会

(副碑より)

滋賀県関係満洲開拓団名
昭和 7年 磨刃石拓振開拓団 牡丹江省
昭和 8年 青根村開拓団 牡丹江省
昭和11年 開原城子河開拓団 吉林省
黒台村開拓団 東安省
昭和13年 高根義勇隊開拓団 北安省
七道嶺義勇隊開拓団 龍江省
聚和義勇隊開拓団 龍江省
龍爪開拓団 東安省
日高義勇隊開拓団 吉林省
伯根義勇隊開拓団 北安省
東光村開拓団 東安省
黒石屯開拓団 吉林省
万竜義勇隊開拓団 東安省
東海村開拓団 三江省
昭和14年 図南義勇隊開拓団 北安省
八栄義勇隊開拓団 北安省
青溝子開拓団 吉林省
豊秋義勇隊開拓団 興安東省
慶山義勇隊開拓団 北安省
紫苑義勇隊開拓団 龍江省
梧桐義勇隊開拓団 三江省
大南山義勇隊開拓団 北安省
昭和15年 北星義勇隊開拓団 東安省
大蒙義勇隊開拓団 興安南省
大日紀義勇隊開拓団 黒河省
檜山義勇隊開拓団 三江省
清渓義勇隊開拓団 東安省
瑞代義勇隊開拓団 浜江省
大栄義勇隊開拓団 黒河省
伊漢通農工開拓団 三江省
大黒河義勇隊開拓団 黒河省
昭和16年 小波義勇隊開拓団 間島省
葵義勇隊開拓団 黒河省
満宝義勇隊開拓団 興安南省
昭和17年 三道沖河義勇隊開拓団 浜江省
鳳翔義勇隊開拓団 三江省
敦化宇檢開拓団 吉林省
廟嶺京都開拓団 吉林省
凌雲義勇隊開拓団 東安省
昭和18年 天理村集合開拓団 浜江省
信楽窯業開拓団 吉林省
孫呉農工開拓団 吉林省
北島中隊 對店訓練所
昭和19年 甲賀郷分村開拓団 間島省
琿春報国農場勤労奉仕隊 間島省
昭和20年
大塚中隊 一面波訓練所
昭和17年
昭和18年
昭和20年
東寧報国農場勤労奉仕隊 牡丹江省

(副碑・銘板より)

拓友碑


満洲開拓青年義勇隊北島中隊
拓友碑
(滋賀県彦根市・滋賀県護国神社)

昭和44年9月建之
三滋北義會


(平成18年4月10日)

顧ミルニ昭和7年カラ仝十九年ニカケテ我国ハ満蒙ノ開拓ヲ国策トシテ日本各県カラ大陸移民ヲ奨メ又満洲各地ニ満洲青年義勇隊訓練所ヲ設ケテ北満ノ守リヲ兼ネ開拓部落建設ニ当ラせメ三年ヲ勉学教練農事ノ訓練期間トシテ十五六歳ノ青少年ヲ全国各県カラ続々其訓練所ニ入所セシメタ
昭和十八年三重滋賀両県カラ集マッタ青少年二〇三名ハ滋賀県甲西町針出身ノ北島光三ヲ隊長トシテ大志ヲ抱イテ元満洲国北安省対店義勇隊ニ入所シタ
爾来三年炎熱ノ大平原二千里果ナイ銀世界ニ理想実現ヲ目サシテ青春ノ情熱ヲ傾ケタノデアッタガ太平洋戦争ハ敗北シ其雄図ハ空シク挫折シタ
昭和二十年九月満洲ニ進駐シタソ聨軍ノ命ニヨッテ北安捕虜収容所ニ収容ノ憂目ヲミタ
厳寒ノ冬■ル頃出所ヲ見タモノノ乏シイ糧ヲ分ケ合ヒ幾十日カヲ過シタ収容生活ニ体力ノ消耗甚シク其上アラユル強制労役ニ服スル事一年有余
加エテ混乱スル治安ハ言語ニ絶シ五十一名ノ若イ命ガ赤イ夕日ノ荒野ニ悲シク露ト消エタ
此碑ハ只管帰郷ノ夢ヲ見ツツ今尚寂シク異国ノ土ニ眠ル友ト且又漸クニシテ故国ノ土ヲ踏ンダガ幸薄クシテ早ク逝ッタ友ノ霊ヲ慰メル為ニ此地ニ昭和四十四年九月建立シタ墓石ト礎石ハ隊員数二〇三個ノ郷土ノ石ヲ我等ガ持寄ッタモノデアル
毎年秋生存者一同ガ墓前ニ集マリ永眠スル拓友ノ冥福ヲ祈ルモノデアル

昭和48年9月
元満洲国北安省対店青年義勇隊北島中隊
三滋北義會

中隊長 北島光三
教学・教練幹部 藤田重孝
農事・畜産幹部 白藤正雄
庶務幹部 楠本■■蔵
寮母 杉江志げ

贈 宇野繁一

(副碑より)
※ ■は判読不可・パソコン上での表示不可の文字です。

献木


献木「桜」
(滋賀県彦根市・滋賀県護国神社)

元 北島中隊
平成14年3月吉日



(平成18年4月10日)

拓魂の碑
満蒙開拓青少年義勇軍
『拓魂』の碑

(島根県松江市・松江護国神社

昭和52年10月建立
満蒙開拓青少年義勇軍 島根県拓友会連合会
島根県知事 恒松制治 書


(平成16年11月20日)

碑文(副碑)

われらは若き 義勇軍
祖国のためぞ 鍬■りて
万里果てなき 野に■■ん
いま開拓の 意気高し
義勇の歌

顧みれば 昭和12年 国の重要政策として 満蒙開拓青少年義勇軍が創設され 民族■和の理想を実践し 王道楽土の建設の礎石たらんとした
爾来 本県から選出された少年千三百余名 希望に燃えて満蒙の曠野に赴き 酷寒灼熱をしのぎ 祖国の安泰を願いながら 一意開拓の鍬を振ったのである
時に昭和20年8月 突如祖国の敗戦により 雄図空しく悲惨な運命に殉じた拓友三百余柱 往時を偲べば想うも涙す
今年まさに33年に当り 生存者相はかり 緑深きこの聖域に雄魂を永遠に讃えて之を建立す
友よ安らかに眠り給へ

昭和52年10月
満蒙開拓青少年義勇軍島根県拓友会連合会

※■は判読できなかった文字です。


満蒙開拓青少年義勇軍之碑


満蒙開拓
青少年義勇軍之碑

(岡山県護国神社)

厚生大臣 橋本龍太郎 書
1980年9月 義勇軍之碑建立委員会 建立

(平成16年10月3日)

碑文

我等義勇軍は
天祖の宏謨を奉じ
心を一にして邁進し
身を満洲建國の聖業に捧げ
神明に誓って
天皇陛下の
大御心に副ひ奉らんことを期す

この言葉に従って昭和13年より昭和20年にいたる8年の間に9萬人の少年達が五族協和王道楽土建設の名のもとに満洲に渡っていった
今その事の是非についての論は置き昭和20年8月15日大東亜戦争の終結によって飢餓と悪疫の流行により阿鼻叫喚の巷と化した満洲に少年達は放置され幾多の同志を失った
幸いにして一命を得て故郷に帰ったもの相語らい空しく逝った同志の上を思い三十余年を経て今ここに満蒙開拓青少年義勇軍の碑を建つ

渡満中隊名 渡満年月 現地訓練所名 渡満人員
内中隊(混成) 昭和13年6月 旧満洲国北安省鉄驪 140
池田中隊(混成) 昭和13年8月 旧満洲国北安省嫩江 143
萩野中隊(混成) 昭和13年10月 旧満洲国東安省勃利 20
阿部中隊(混成) 昭和13年11月 旧満洲国北安省嫩江 72
研谷中隊(混成) 昭和13年12月 旧満洲国濱江省哈爾濱 36
佐藤中隊(混成) 昭和14年2月 旧満洲国牡丹江省寧安 35
兵藤中隊(混成) 昭和14年4月 旧満洲国北安省鉄驪 38
中沢中隊(混成) 昭和14年6月 旧満洲国北安省鉄驪 105
間瀬中隊(混成) 昭和14年9月 旧満洲国東安省勃利 37
高橋中隊(混成) 昭和15年3月 旧満洲国濱江省哈爾濱 31
谷本中隊(混成) 昭和15年6月 旧満洲国北安省嫩江 91
宮野中隊 昭和16年7月 旧満洲国吉林省大石頭 245
西中隊 昭和17年4月 旧満洲国吉林省大石頭 238
近藤中隊 昭和18年5月 旧満洲国北安省嫩江 250
村上中隊 昭和19年5月 旧満洲国東安省勃利 227
赤木中隊 昭和20年3月 旧満洲国北安省鉄驪 320
大久保中隊 昭和20年5月 旧満洲国北安省鉄驪 210
藤森中隊 昭和20年5月 旧満洲国東安省勃利 175

満洲開拓義勇軍の碑



「満洲開拓 義勇軍之碑」

(愛知県名古屋市・愛知県護国神社

愛知県知事 桑原幹根書


(平成15年11月28日)

碑文

戦後30年曽て14、5歳の少年が国策のため はたまた己の人生を自ら拓くけなげなる意思のもと酷寒零下40度の極北の地に入植せり。
明治百年の歴史は、この満洲開拓の歴史を外にして語ることはできぬ。
無慙なる敗戦後の惨状は体験せし者のみの知るところなり。
北満広野に骨をさらせし友 シベリヤの土と化せし友 敗戦の現地で消息を絶ちたる友 県送出二千七百余名の中 生死不明者その数さだかならず。
今茲に生を得たる者相語り護國神社の聖域に義勇軍之碑を建立し これら亡き友の霊を慰めんとす。
天は語らず人をして語らしむアジア大陸東北の地こそ古より民族興亡角逐の場たりしことは史実の示すところにして、これ我等が身をもって感得せしことなり。
民族の協和その彼方にこそ眞の平和もあり得るものと信ず。
数千年の血と文化によって結ばれたアジアの盟友と苦しみをわかちアジアの天地に眞の平和を拓く礎とならんことを、この碑のもとに誓うものなり

赤石中隊 昭和13年2月内原入所 昭和13年4月渡満 寧安訓練所入所
高橋中隊 昭和13年2月内原入所 昭和13年4月渡満 鉄驪訓練所入所
中山中隊 昭和13年3月内原入所 昭和13年6月渡満 昌図訓練所入所
遠藤中隊 昭和13年5月内原入所 昭和13年7月渡満 ハルピン訓練所入所
斉院中隊 昭和13年8月内原入所 昭和13年12月渡満 昌図訓練所入所
研谷中隊 昭和13年9月内原入所 昭和13年12月渡満 ハルピン訓練所入所
勝間田中隊 昭和13年11月内原入所 昭和14年3月渡満 鉄驪訓練所入所
野上中隊 昭和14年2月内原入所 昭和14年4月渡満 昌図訓練所入所
木場中隊 昭和14年4月内原入所 昭和14年6月渡満 ハルピン訓練所入所
崎園野中隊 昭和14年6月内原入所 昭和14年9月渡満 一面波訓練所入所
山本中隊 昭和14年8月内原入所 昭和14年11月渡満 鉄驪訓練所入所
羽賀中隊 昭和14年10月内原入所 昭和15年3月渡満 勃利訓練所入所
西村中隊 昭和14年12月内原入所 昭和15年3月渡満 ハルピン訓練所入所
坂下中隊 昭和15年2月内原入所 昭和15年5月渡満 昌図訓練所入所
桧山中隊 昭和15年3月内原入所 昭和15年6月渡満 一面波訓練所入所
片桐中隊 昭和15年6月内原入所 昭和15年10月渡満 鉄驪訓練所入所
村木中隊 昭和15年9月内原入所 昭和16年3月渡満 鉄驪訓練所入所
小野中隊 昭和15年11月内原入所 昭和16年5月渡満 鉄驪訓練所入所
中島中隊 昭和16年4月内原入所 昭和16年6月渡満 嫩江訓練所入所
柴山中隊 昭和16年11月内原入所 昭和17年3月渡満 寧安訓練所入所
砂長中隊 昭和17年3月内原入所 昭和17年4月渡満 孫呉訓練所入所
小林中隊 昭和18年3月内原入所 昭和18年10月渡満 孫呉訓練所入所
野村中隊 昭和19年2月内原入所 昭和19年6月渡満 鉄驪訓練所入所
増田中隊 昭和20年3月内原入所 昭和20年8月終戦に依り解散

其の外義勇軍関係者一同

昭和50年2月11日 愛知県拓友連絡協議会


拓魂の碑 「拓魂」の碑
山口県護国神社

我らは若き義勇軍
われらは若き 義勇軍
祖国の為ぞ 鍬をとりて
万里涯なき 野に立たむ
いま開拓の 意気高し
いま開拓の 意気高し

(平成15年7月27日)

碑文

昭和13年 満蒙開拓青少年義勇軍の制度ができ 満洲の地に青少年を送った
山口県で応募する者 二千四百六十九名 
あらゆる困苦に耐え訓練をかさね 希望に燃えて開拓の鍬を振った
昭和20年8月終戦により 開拓の夢はくだかれ 苦難は言語に絶した
異国に骨をうづめる者 三百有余名
茲に生還する者相図り 碑を建て 往時の気概をしめすと共に 亡き拓友の 遺徳をしのび 永遠の平和を祈る

山口県送出隊員
昭和13、14、15年混成中隊県出身隊員
昭和15年度 郷土中隊西尾中隊
昭和16年度 郷土中隊浴木中隊
昭和16年度 郷土中隊中島中隊
昭和17年度 郷土中隊清水中隊
昭和17年度 郷土中隊兼重中隊
昭和18年度 郷土中隊阿武中隊
昭和18年度 郷土中隊八木中隊
昭和19年度 郷土中隊徳田中隊

昭和49年11月17日
山口県満蒙開拓青少年義勇軍拓友会建之


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満蒙開拓




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