岡山県岡山市奥市3-21
平成16年10月3日
岡山縣護國神社は備前藩主池田章政あきまさ公が、明治2年4月3日御後園(後楽園)裏竹田河原に於いて、戊辰の役戦死者半大隊令官、太田万治正順命始め34柱の招魂祭を執行せしめられ、次いで同年6月岡山市東山公園内に社殿と碑石を建て奥羽、函館両戦争戦死者55柱を祭祀されたのを起源とし、全国各地にある護国神社の多くは、明治2年東京招魂社(靖國神社)が創建されたのに併せ「招魂社しょうこんしゃ」が建てられ、後に護国神社と改称されました。
御祭神である「英霊えいれい」とは、明治維新の頃の戊辰戦争より大東亜戦争(太平洋戦争)までの戦いにより亡くなられた方々の功績を讃えてそう呼んでいます。
御祭神には、戦いの中で病気になり亡くなられた方、負傷された方の看護の為に戦地に向かい亡くなられた方、終戦後シベリアに抑留され強制労働により亡くなられた方々もお祀りしています。
戦後の今日の平和は、私たち県民のために犠牲となり尊い命を捧げられた御英霊によるものと感謝し、御霊安かれと日々慰霊顕彰に務めております。
(リーフレット『岡山縣護國神社』より)
拝殿 (平成16年10月3日) |
御祭神
岡山県出身並に縁故ある殉国の英霊56,681柱 (平成15年5月4日現在)
由緒
備前藩主池田章政公が、明治2年4月3日御後園裏竹田河原に於て、奥羽戦争戦死者監軍、雀部八郎時宜命始め34柱の招魂祭を執行せしめられ、次いで同年6月上道郡門田村幣立山地180坪に社殿と碑石を建て奥羽、函館戦争戦死者を祭祀されたのが起源で、明治7年3月17日官祭招魂社に列せられ、祭祀並に修繕費共一切官費支給を逹せられました。
明治11年加納太郎氏等十余人が幣立山地内に社殿建築の工を起こし13年落成。
同16年7月社殿を同字内北方高地に移転し、更に塚本芳五郎氏指定寄附15,000円を以て奥市公園内1,440坪に移転、大正4年4月26日社殿竣工し同28日本殿遷座祭斎行。
昭和14年4月1日内務大臣指定と共に岡山縣護國神社と改称、昭和15年11月境内拡張社殿総改築に着工、同17年5月竣工、同月25日本殿遷座祭を斎行。
偶々敗戦の結果連合軍の進駐により護国神社に対し殊に干渉抑圧が加わったので昭和21年11月29日操山神社と改称しましたが講和条約の発効に依り昭和27年7月4日岡山縣護國神社と復称しました。
20年に近い星霜を経て、社殿御屋根の破損甚だしくなり昭和36年3月社殿修復に着工し銅板に葺替竣工、8月25日本殿遷座祭を斎行。
昭和37年10月23日天皇皇后両陛下の御親拝を仰ぎ昭和44年4月3日御創立百年大祭を執行現在に至ったのであります。
(リーフレット『岡山縣護國神社略誌』より ※旧漢字は現代漢字に直して記載しました。)
忠霊塔 (平成16年10月3日) |
宝物遺品館 開館:毎月1日 開館時間:午前10時~午後3時 但し1月1日を除く |
訪問記
宝物遺品館は、毎月1日が開館日でしたが、社務所の方にお願いして開けていただき見学させていただきました。
この中には、歩兵第10連隊の復元された軍旗や、土肥原賢二大将の書の掛軸などが展示されていました。
慰霊碑 |
工兵第54連隊忠魂碑
歩兵第154連隊忠魂碑
満蒙開拓青少年義勇軍之碑
歩兵第110連隊50年記念碑
騎兵第26連隊之碑
平和の女神像(歩兵第53連隊顕彰碑)
自由の男神像(歩兵第54連隊顕彰碑)
独立臼砲第18大隊慰霊碑
慰霊碑趣意(碑文)
過グル太平洋戦争ニ於ケル南太平洋ソロモン諸島ノ攻防ハ戦局ノ天王山ヲナセルモノナリ
ブーゲンビル島ハ群島西北端ニ位置シ文明社会ヨリ隔絶セル密林ノ島ナルモ我ガ軍枢要ノ最前線基地トシテ、昭和17年ヨリ陸海軍ノ大軍ココニ拠リ、東南ガダルカナル島ヲ中心トスル米軍に対峙セリ
然レドモ戦局日々ニ不利ニ傾キ、18年11月米豪軍ノタロキナ地区上陸以来、補給ハ途絶シ、戦闘、悪疫、飢餓ニヨリ数万ノ将兵ノ空シク仆たおルル中ニ戦ヒハ終リタリ
岡山県出身者ハ殊ニ犠牲多ク、慰霊ノ心厚キ御遺族、生還者ニヨリ昭和48年岡山県ブーゲンビル会ノ設立ヲ見、トモドモ相依リテ戦没者ノ英霊ヲ慰メ現地ニ赴キ収骨巡拝スルナド、活発ナ活動ヲナシツツ今日ニ至レリ
而シテ昨昭和63年、会創立15周年ヲ機ニ岡山県護国神社境内ニ戦没者ノ慰霊碑ヲ建立スル議ノ決セラルルヤ会員ノミナラズ国ノ内外、多数ヨリ副う翕然タル賛同御芳志ヲ得、慰霊碑ノ完成ヲ見、遺骨遺品ヲ収メ、永代供養ヲ頂クニ至リタルハ、英霊ヲ悼ム心ノ如何ニ未ダ深ク広キ力ちからヲ示スモノト言ハム
茲ニブーゲンビル島及ビ周辺ノ島嶼ノミナラズ全ソロモン諸島海域ニワタル南溟ノ地ニ今ナホ眠リ給フ多数ノ英霊ノ鎮魂ヲ末長ク祈念シ、併セコノ地域ノ永遠ノ平和ヲ願ヒテ慰霊碑建立ノ趣意トス
平成元年5月吉日
岡山県ブーゲンビル会 撰
碑文
ここに比島の砂を亡き戦友の御霊として永遠に御祭祀します
太平洋戦争にて散華した比島海軍各部隊の戦歿者及び海軍と運命を共にした日本人、韓国人、中国人、比島人の戦歿者の御霊よやすらかに眠り給え
1980年8月建之
碑の由来(碑文)
1944年10月20日 約20万の米軍が比島(フィリピン)のレイテ島に上陸し ここに苛烈な比島攻防の火蓋が切られました
我が連合艦隊が全軍突撃を以って決戦を挑んだ比島沖海戦も 艦艇航空機多数を喪失し惨敗を喫しました
爾後 米軍は比島各島嶼に次々上陸 所在の海軍部隊は陸軍と共同して善戦力闘しましたが 圧倒的火力の相違と無限とも言える彼等の武器弾薬の補給に対し 我が方のそれは無に等しく各部隊とも止むなく山中に立て籠って遊撃戦に転じました
撃つに弾丸なく 生命の糧の塩も盡き 草根木皮を食みながら歯を食いしばって頑張った将兵は 米軍の急追と風土病や栄養失調で次々と斃れ 万斛の涙を飲んで異境の土と化したのであります
此の碑は 遺族戦友相謀り 比島海軍関係全ての戦歿者(外国人も含む)約10万の御霊を永遠にお祀りするため建立されました
尚 毎年8月最後の日曜日に招魂祭を行っています
以上
比島海軍招魂会
碑文
先の第二次世界大戦終了後、60万人余りの日本人がシベリア各地に強制抑留され長期に及ぶ苛酷な労働と厳しい寒さと飢え栄養失調等により、祖国の土を踏むことなく、無念の死を遂げられた。
望郷の念に駆られながら亡くなられた方々を偲び冥福と平和を祈念し、この碑を建立する。
(岡山県内の死亡者は九百七十数名)
平成7年9月吉日
財団法人
全国強制抑留者協会岡山県支部
全抑協岡山県連慰霊碑建立委員会
趣意書(碑文)
岡山県全海軍戦没者慰霊碑の建立について
明治維新以降、大東亜戦争に至る、岡山県内の全海軍出身の戦没英霊10,952柱に追悼の誠を捧げるため、ここに岡山県全海軍戦没者慰霊碑を建立した。
菊水塔の再建について
宇垣纒中将と17勇士の追悼のため菊水塔を昭和47年10月に建立、30年を経過し、崩壊寸前の状態となり、自然石により再建を図ったものであります。
願わくば在天の英霊よ安らかにお眠り下さい。
岡山県全海軍戦没者慰霊碑建立
菊水慰霊碑再建実行委員会
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