愛媛県護国神社

愛媛県松山市御幸1−476


 平成19年11月9日

愛媛縣護國神社御由緒(略)

1.鎮座地
松山市御幸1−476番地

2.御由緒
当神社は、明治32年(1899)県内188名の有志により、私祭招魂社として当時官有地(温泉郡持田町現東警察署地)に建立、仝年3月戊辰の役、西南の役、竹橋事件、台湾守備、日清戦争等における郷土出身戦歿者484柱の御霊を御奉斎申し上げたに始まる。
その後大正2年(1913)同地に愛媛県立農業学校を建設することとなり多賀神社(松山市新立町)にお遷し、昭和14年(1939)現在地に御遷座 愛媛縣護國神社として御奉斎された。
御祭神は右記の外、日露戦争を経て、大東亜戦争に至るまでの事変、戦争において護國の重任に当り、遂にその尊い生命を捧げられた愛媛県出身の戦歿者の御英霊を奉斎し、その後社会公共のために尽して県民に恩恵をもたらされた先賢諸士、即ち松山城を築城された加藤嘉明命、宇和島今治城主藤堂高虎命、松山初代藩主久松定行命、宇和島初代藩主伊達秀宗命、その他藩主及び公共事業に功労のあった足立重信命、又建武中興(1334)より明治維新(1868)に至るまでの国事に殉じて御贈位になった方々、産業功労者としては、義農作兵衛命、下見吉十郎命、鍵谷カナ命、文化人として尾藤二洲命、近藤篤山命、矢野玄道命、正岡子規命等を合祀、さらに軍属、女子学徒、看護婦、電話交換手、報国隊、義勇隊、冨士丸、東予丸犠牲者、警察官、消防団、自衛隊等の公務殉職者を併せて御祭神数は49720柱を御奉斎申してあります。

3.御祭神柱の内訳

戊辰の役 13 社会文化功労者 66
西南の役 70 軍属 34
竹橋事件 報国隊 124
日清戦争 352 義勇隊 311
台湾守備 48 警察官 59
日露戦争 2813 学徒挺身隊 31
第一次大戦 109 自衛隊 28
満洲上海事変 61 消防団員 63
大東亜戦争
(含支那事変)
45509 看護婦 11
交換手 15
(陸軍) 38480 公務員
(海軍) 10496 744
48976 合計 49720

(説明板より)

拝殿




拝殿






(平成19年11月9日)
奉祝記念之碑



御創立百年 御鎮座六十年
奉祝記念の碑





(平成19年11月9日)

碑文

明治32年招魂社を創立
大正2年多賀神社境内に移設
その後27年を経た昭和14年現在地に社殿を造営愛媛縣護國神社と改称す
御祭神は幾多の事変戦役において、護國の重責を荷い、ひたすら祖國の弥栄を祈りつつ散華された御霊をはじめ、社会公共のため殉職された方、郷土産業開発に貢献された方の御霊を合祀し、四万九千七百十一柱を奉斎する。
本年御創立百年、御鎮座60年を迎ふるにあたり、記念碑を建立し以て、御霊の安鎮を祈念し、御加護に感謝の誠を捧ぐ所以である。


平成10年3月吉日
責任役員
波爾荘 松下鶴行 西村誠次郎 立町芳行 佐伯正春 藤家高美 田坂春 八木音松 武井正

(碑文より)

彰功碑



殉職警察官 消防組員 彰功碑
伯爵 清浦奎吾 書





(平成19年11月9日)
愛馬の像




愛馬の像






(平成19年11月9日)

愛馬の像建立について

忠勇な将兵の忠実な同伴者として、幾多の事変戦役に、戦線万里の荒野を暑さ寒さにも耐え、喜びも悲しみもともにしたその軍馬は、あるいは陣地に傷つき、病に倒れて骨を戦野に、さらしたものが少なくありません。
これを思うと傷心哀愁の情まことにせつないものがあります。
このたび、大東亜戦争50周年記念事業として、英霊の伴侶とすべく軍馬の功を称へ、霊を慰めるため、「愛馬の像」を建立した次第であります。

愛媛縣護國神社宮司 波爾荘 識

零戦のプロペラ




零戦のプロペラ






(平成19年11月9日)
零戦のプロペラ




零戦のプロペラ






(平成19年11月9日)

日本海軍零戦プロペラ

このプロペラは太平洋戦争当時最新鋭戦闘機として活躍した日本海軍の零式戦闘機に使用された可変ピッチ式(恒速プロペラ)のものである。
恒速プロペラは発動機の公称回転をたもつように速度の変化に敏速に応じて移動的にプロペラのピッチが調節される仕組になっているもので当時においては最高水準をいくものであった。
昭和43年10月宇和島市神田川原3区加藤勉氏が西宇和海で操漁中網にかかったものを回収し当松山駐とん部隊に寄贈されたものである。
(平成13年9月愛媛縣護國神社に移転しました)

(説明板より)

鎮魂碑

鎮魂

第3航空教育隊
西部第99部隊 中部第571部隊 終焉地

沿革
この鎮魂碑は昭和54年6月城山公園堀の内の第3航空教育隊跡地に建立され、平成16年4月吉日に移設したものである。


(平成19年11月9日)
殉職女子挺身隊員慰霊之碑



挺身
殉職女子挺身隊員慰霊之碑





(平成19年11月9日)

碑文

殉職者
竹内和栄 武替悦子 渡部節子

太平洋戦争激化の昭和19年県立松山高等女学校卒業と同時に祖国の危急に応じて女子挺身隊員となり呉海軍工廠に赴き電気部三次電池工場に勤務中終戦を三ヶ月程に控えた昭和20年6月22日米機B29の爆撃を受け殉職された三柱の霊を慰め併せてこれら乙女達が身命をかけてかち得た国の平和が永遠に続く事を願ってこの碑を建てる

昭和52年12月
愛媛県立松山高等女学校
42期生

殉職女子学徒追憶の碑




殉職女子学徒追憶之碑






(平成19年11月9日)

殉職女子学徒追憶之碑

戦はよしや無謀侵略の師であったにしてもこれら乙女達がその最期まで祖国に捧げた熱情は至純であった
時恰も終戦直前の昭和20年8月5日今治市空襲の夜波止浜へ通ずる通稱近見縣道に於て散った真白の花二十四遺骨は名勝波止浜の丘上に安らけく眠って戦なく争なき天国に久遠の楽を享けているがそのみ魂をこゝに清じて亡き友への追慕の誠を捧げると共にうまし国わが日の本のこの地上に永遠に戦火の災あらしめ給うなと■るはわれら生けるものゝ心からなる願いである

昭和26年11月
安倍能成題字
坂本良介撰文
真鍋士鴻書丹
同窓生有志建之

殉職者 愛媛縣立松山城北高等女学校
一色恭子 辻田恵美子 宮本操 岡田淑美 西村京子 三好郁子 久保キミ子 林繁子 森田昭恵 黒子美江 弘津幸 森松啓子 小林澪子 細井恵美子 山本歌子 佐久間則子 升本芳子 余田ノリカ 周布野ミヤ 松本千枝子 曽我部みはる 松友笑子
殉職者 愛媛縣立松山高等女学校
一色佳 金子弘子

(碑文より)

慰霊碑群




慰霊碑群






(平成19年11月9日)

歩兵第22連隊忠魂碑・歩兵第22連隊記念之碑
拓魂碑
満洲第712部隊 歩兵第43連隊・慰霊碑
鯨部隊 歩兵第234連隊・慰霊塔
殉国二十二烈士之碑
歩兵第122連隊 南洋第1支隊・忠魂碑

熟田津の歌碑




熟田津の歌碑






(平成19年11月9日)

副碑

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎ出でな

紀元1321年 今から1306年の昔 唐と組んだ新羅が 百済をくだして日本に向うのを憂えられた斉明天皇は 皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)その弟君の大海人皇子(後の天武天皇)などとともに 百済を助けるため 筑紫に軍を進められようとされた その途中 熟田津の石場の行宮に泊らせられて 伊予水軍を集結し 兵船を整え 進発の時を待たれたのである。
時は来た!十五夜の月はまさに出でようとし 潮は満ちふくらんできた 軍を統率する中大兄皇子のかたわらに侍する額田王の詩情は高まってくる 天皇をようする大軍船団と 月の光と満潮とが融合して豊にたゆたい その大生命が満ちきった一瞬 充実しきった額田王の心気は発せられた 「今はこぎ出でな!」渾身の力をこめて しかも優容迫らず 清明雄大 緊密なる流動の節奏と磐石の重き格調をもって歌いあげられたのである 天皇の大号令が この歌にはこもっている
古今の絶唱がここに生まれたのである
この歌は 日本女性の詩歌として世界に誇り得るものであり また 日本の歴史的意義をもつものである
「今はこぎ出でな」と進発した当時の伊予水軍が 武運つたなく白村江の戦いに敗れ 国難に殉じたことをしのぶとき 哀悼の情切なるものがある しかし 潔く山桜のように散った伊予水軍の心気は ついに唐 新羅をして日本を侵させなかったのである
この歌碑を仰ぐもの よくこの大生命を感受し 雄大清明なる気象を養い 「いざ!」の充実した心気に生きられんことを
附記
この歌碑は 少年たちの壱円から特別の寄付まで また県内から県外まで 数多くの人々の心からなるきょ金によってできたのである
しかし すべてその名をとどめないことにして ただ「熟田津の歌を讃うる会」とし ゆかしく千載までのこることを願うのである この歌碑の字は 元暦本万葉集から採ったものである
なお この碑は熟田津の場所をここと決定して建てたものではない

昭和42年7月5日
熟田津の歌を讃うる会

(碑文より) 

殉職自衛官等慰霊の碑


殉職自衛官等 慰霊之碑
元防衛長官 増原恵吉

創建 隊友会愛媛県支部連合会
昭和53年9月建立
平成2年3月改修


(平成19年11月9日)

碑文

この慰霊碑は昭和25年警察予備隊創設以来自衛隊に勤務しわが国の平和と安全のために■された愛媛県出身者でその職に殉ぜられた方、志半で物故された方、予備自衛官としての勤務期間中、物故された方、隊友会員として活躍中物故された方々の御霊をおまつりしてお慰めするため隊友会愛媛県支部連合会全員の意志により多くの方々の御理解御協力御厚志により建立したものであります

昭和53年9月24日
社団法人 隊友会 愛媛県支部連合会

海軍戦没者慰霊碑



海軍戦没者慰霊碑


平成7年12月8日建立
愛媛県海交会



(平成19年11月9日)

碑文

終戦50年の節目に当り、日本民族の繁栄と、世界平和を念じながら散華された、郷土出身1万496柱の英霊と、戦後復員し荒廃した祖国の復興に貢献された御霊に対し、永遠にその偉業を讃え、愛媛県海交会相図り愛媛縣護國神社の神域に慰霊碑を建立することができました。
ここに謹んで国家悠久の大義に殉じた海軍戦没者に鎮魂の誠を捧げて、その栄光と、併せて日本国の安泰と繁栄を祈念して、この慰霊碑を建立するものであります。

平成7年12月8日
愛媛県海交会
会長 清水義隆
会員一同

シベリア抑留者慰霊之碑


シベリア抑留者慰霊之碑

平成9年12月吉日建之
愛媛県シベリア抑留者慰霊碑建立委員会




(平成19年11月9日)

碑文

悲惨な第二次世界大戦は、日本のポツダム宣言受諾により、昭和20年8月15日を以て終結した。
然るに旧ソ連は、その宣言を守ることなく、終戦後、60余万人の日本人を酷寒のシベリア、モンゴル、北朝鮮、サハリン及び千島等の各地に連行抑留し、長期に亘る過酷な労働を強制した。
飢えと寒さと重労働の生き地獄の中、祖国日本への帰還の願いも空しく、本県出身者1千余名は、遂に力尽きて無念の死を遂げた。
誠に痛恨の極みである。
幾多の辛酸に耐えて帰国した抑留者、及び最愛の夫又は肉親を悲しくも失った遺族の私達は、苦節50余年を経た今日、この事に深く想いを致すとともに、その事実を後世に正しく伝え、且つ抑留死没者の冥福と恒久の平和を祈念し、財団法人全国強制抑留者協会の助成、及び県内外各界各層の温かい賛助を得て、ここにこの碑を建立する。

平成9年12月吉日
愛媛県シベリア抑留者慰霊碑建立委員会

慰霊碑群




慰霊碑群






(平成19年11月9日)

雄飛 豫科練鎮魂之碑
戦没陸軍少年飛行兵・慰霊顕彰碑

愛媛万葉苑




愛媛万葉苑






(平成19年11月9日)

愛媛万葉苑えひめまんようえん

昭和28(1953)年、八木繁一が中心となり、この護国神社境内に、御霊を慰めるために「郷土植物園」として造られたのがはじまりである。
その後、園内に万葉集の傑作「熟田津にぎたつの歌」の碑が建立され、それを契機として、一帯に万葉歌人の詠んだ植物を蒐集栽培し、昭和43(1968)年に『愛媛万葉苑』として開苑した。
「万葉集」4516首の歌のうち約1500首に約150種の植物が詠まれている。
本苑にはムラサキ、フユアオイ等の希少植物や、食用のアワ、薬用のキキョウ、和紙衣料の原料のカジノキ、ミツマタのような日常的に有用な植物など百余種が植えられている。
苑内を散策しながら、和歌と植物を鑑賞することで、古人が植物に寄せた関心の深さ、観察眼の確かさ、大宮人の心のゆかしさ、古名と現代名の違いの驚きなど、各季節の味わいの中で、豊かな時間を過ごすことができる。

松山市
松山市教育委員会

(説明板より)


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