(愛媛県松山市丸之内)
平成19年11月9日
松山城の沿革 |
松山城の創建者は加藤嘉明である。
嘉明は永禄6年(1563)に三河国(愛知県)永良郷加気村に生まれた。
父広明は徳川譜代の武士であったが、嘉明が6才の時に美濃国(岐阜県)で逝去する。
やがて羽柴秀吉に見出されてその家臣となり、20才の時に賤ヶ岳の合戦において七本槍の一人として武勲をたてた。
その後従五位下左馬介に補せられ、伊予国正木(伊予郡松前町)6万石の城主に封じられ、また文禄(1592)・慶長(1597)の役には久鬼・脇坂らの諸将とともに水軍を率いて活躍し、その功によって10万石に加増される。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいては徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となった。
そこで嘉明は同7年に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築くため、普請奉行に足立重信を命じて地割を行ない工事に着手し、翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名称が公にされた。
その後も工事は継続され、24年後寛永4年(1627)になってようやく完成を見た。
当時の天守は五層で偉観を誇った。
しかし嘉明は松山にあること25年、嘉永4年(1627)に会津へ転封される。
そのあとへ蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上の山城から入国し、二ノ丸の増築を完成したが、寛永11年8月参勤交代の途中、在城7年目に京都で病没し、嗣子がいないので断絶する。
その後寛永12年(1635)7月伊勢国(三重県)桑名城主松平定行が松山藩主15万石に封じられて以来、14代世襲して明治維新に至った。
なお天守は寛永19年(1642)に三層に改築されたが、天明4年(1784)元旦に落雷で焼失したので、文政3年(1820)から再建工事に着手し、35年の歳月を経て安政元年(1854)に復興した。
これが現在の天守である。
その後、昭和に入り小天守やその他の櫓が放火や戦災などのため焼失したが、昭和41年から全国にも例を見ない総木造による復元が進められた。
松山城は、海抜132mの勝山山頂に本丸を置き、中腹に二ノ丸・山麓に三の丸(堀の内)を置く広大な規模を持つ、姫路城と並ぶ典型的な連立式平山城である。
●築城工事の逸話
築城に際し、まず本丸の位置が決定され、石塁の完成に全力が集中された。
この時使用された石材は、付近の産地から産出したものも少なくなかったが、すでに廃城となっていた湯築城および正木城から運搬されたものも多かった。
この運搬に際して次のような逸話がある。
正木地域から魚類を行商する婦人をおたたと呼んだ。
このおたたが、嘉明の命を受け小砂を入れた桶を頭に乗せて正木から松山へ持ち運んだ。
このために、その桶を御料櫃と称するようになり、また嘉明の夫人が握飯を配り人々の労をねぎらったという。
その後、工事が進み瓦を山上に運ぶ頃、工事が渋滞したため、足立重信は近郷の農民を動員して三方から人垣を作らせ、手ぐり渡しにして一夜の間にその全部を運ばせ、嘉明を驚かせたと伝えられる。
●明治維新と松山城
松山藩は松平家の入部により親藩大名となった。
したがって幕末においては幕府側として「禁門の変」や「長州征伐」に参加したため明治維新では朝敵として追討を受けることになる。
当時松山藩内においては、朝廷に罪を謝すべしとする恭順論者と、薩・長藩と徹底的に戦うべしとする主戦論者が対立したが、藩主松平定昭は恭順論を入れ、ここに松山藩は朝廷に対し王命に敵対する心底のないことを明らかにし、新政府側の土佐藩の兵を城下に入れ、藩主が常信寺において謹慎することとなった。
これにより松山藩の誠意は新政府の認めるところとなり追討は免れる。
このため松山城は戦火にさらされることなく、無事にその姿をとどめた。
その後、廃藩置県により松山城は兵部省の管轄となったが、城郭廃止の令により大蔵省の管轄となり、やがて大正12年、旧藩主久松定謨氏より松山市に寄贈を受けたものである。
(『松山城』パンフレットより)
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太鼓櫓 (平成19年11月9日) |
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戸無門(重要文化財) 本丸大手の重要な固めである。 慶長年間に建造された高麗であり、昭和10年に国宝に指定されたが、法の改正により重要文化財となった。 昭和年代では12年、25年、46年、および59年・60年に修理された。 (説明板より) (平成19年11月9日) |
戸無門
この門は建築様式から見ると高麗門であるが、昔から戸がないので戸無門という。
この門と筒井門、隠門とに仕切られた所は二ノ丸・三ノ丸から本丸へ、また東郭から通ずる本丸大手の正門の固めであって、城中最も重要かつ堅固な所である。
(『松山城』パンフレットより)
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筒井門 用材は栂とが材を使用。 (平成19年11月9日) |
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扉の板戸は楠の1枚板。 縦3m、横1.5m、厚さ6cm (平成19年11月9日) |
筒井門
本丸大手の正面の固めを構成した。
慶長年間築城に際し正木城(伊予郡松前町)から移されたと伝えられ、脇戸附の櫓門である。
昭和10年国宝に指定されたが同24年2月に焼失した。
同42から3年に石垣の修理を行い、同46年3月に櫓門を古い資料に基づいて復元した。
(説明板より)
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筒井門東続櫓つついもんひがしつづきやぐら 筒井門・隠門をはじめ大手方面の防衛にあたる。 慶長年間の建造物といわれ単層櫓であった。 昭和10年国宝に指定されたが、同24年2月に焼失した。 同46年3月に古い資料に基づいて復元された。 (説明板より) (平成19年11月9日) |
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隠門続櫓かくれもんつづきやぐら(重要文化財) 隠門をはじめ大手正面を防衛する。 慶長年間の建造物といわれ、松山城城郭の櫓・門の中では最も古いものの一つである。 昭和10年国宝に指定されたが、同25年法の改正により重要文化財となった。 昭和年代では、12年・24年及び46年に修理が行われた。 (説明板より) (平成19年11月9日) |
隠門(重要文化財)・隠門続櫓(重要文化財)
この門は筒井門が移建されてのち建築されたもので、戸無門から筒井門に迫る敵の側背を不意急襲する構えとなっている。
この門と同続櫓は筒井門の脇門であり、規模が小さいけれども木割大きく豪放な構えは築城当時の面影を見ることができる。
また外部下見板張りや、窓が格子窓で突揚げ板戸となっていることなど古い城郭建築の様子を伝えている。
(『松山城』パンフレットより)
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太鼓櫓 (平成19年11月9日) |
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太鼓門 (平成19年11月9日) |
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太鼓門 太鼓櫓から巽櫓まで一直線上に構築され、大手からの侵入に対する重要な防御施設である。 太鼓門はその東端にある脇戸附の櫓門である。 昭和10年国宝に指定されたが、同20年7月、戦災で焼失したので、同47年2月に古い資料に基づいて復元された。 (説明板より) (平成19年11月9日) |
太鼓門再建工事概要
着手年月日 昭和46年5月28日
完成年月日 昭和47年2月28日
工事費 2千2百万円
建造物の名称
イ.太鼓門脇戸附櫓門 屋根本瓦葺
ロ.南北続櫓単層櫓 屋根本瓦葺
構造及面積
イ.構造 木構造大壁造り蔀板張り
ロ.面積 93平方米(28坪)
ハ.梁の大きさ 長さ7米 末口75糎
ニ.鏡柱の大きさ 長さ4米 末口75糎
太鼓門の使用材は階下冠木、大梁より下はすべて欅材であり階上櫓部分は栂材を使用した
特に階下部分の欅は特殊長尺材であるため調達に困却したのでありますが松山営林署のご協力により愛媛高知県境猪伏の国有原生林より払下げを受けました
(説明板より)
太鼓門・太鼓櫓
太鼓門・同続櫓・太鼓櫓・巽櫓は1つの防御単位を構成し、高さ6.9mの石垣の上に一線に構築され、筒井門からさらに侵入してくる敵に対し厳しい構えをみせている。
また石垣の西端には太鼓櫓があり、太鼓門との間に24.41mの渡塀があって鉄砲狭間16ヵ所、石落3ヵ所が設けられていた。
(『松山城』パンフレットより)
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巽櫓たつみやぐら 太鼓門を防衛する重要な拠点で二層隅櫓である 昭和10年国宝に指定されたが、同20年に戦災のため焼失した 同60年2月に古い資料に基づいて復元された (説明板より) (平成19年11月9日) |
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井戸 南北二つの峰を埋立てて本丸の敷地をつくった時この地にあった泉を井戸として残したといい伝えられる。 井戸の直径は2メートル深さ44.2メートル、城郭の飲料水として使用されていた。 上屋は昭和20年7月に戦災で焼失したので同27年3月に再建された。 (説明板より) (平成19年11月9日) |
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馬具櫓ばぐやぐら 太鼓櫓とともに、二ノ丸方面を防衛する二層隅櫓である。 昭和9年国宝に指定されたが、同20年7月に戦災のため焼失した。 同33年3月に鉄筋で復元し、いまは松山城防災施設の総合操作室として使用されている。 (説明板より) (平成19年11月9日) |
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野原櫓のはらやぐら(重要文化財) 本丸の西北方および北側を防衛する重要な二層櫓で、騎馬櫓ともいわれた。 慶長年間の建築物で、その構造は戦国時代における望楼の面影を偲ぶ遺構として注目される。 昭和10年国宝に指定されたが、同25年法の改正により重要文化財となった。 同26年及び59年・60年に修理が行われた。 (説明板より) |
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乾櫓いぬいやぐら(重要文化財) 乾一ノ門・乾門とともに搦手を防衛する重要な構えを持つ二重の隅櫓で、本丸の西北櫓に位置したのでその名がある。 慶長年間に正木城(伊予郡松前町)から移建されたと伝えられ、城郭のなかで最も古い構造物の一つである。 昭和10年国宝に指定されたが、同25年法の改正により重要文化財となった。 同39年及び59年・60年に修理が行われた。 (説明板より) |
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乾門東続櫓いぬいもんひがしつづきやぐら 乾門に続く櫓で単層入母屋造の隅櫓。 石落し附で、搦手のなかで重要な構えをなしている。 慶長年間築城の際正木城(伊予郡松前町)から移建されたといわれる。 昭和10年国宝に指定されたが、同20年7月に戦災のため焼失したので同57年11月に古い資料に基づいて復元した。 (説明板より) |
(左から北隅櫓、十間廊下、南隅櫓)
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伯爵久松定謨頌徳碑 徳川家定 謹書 (平成19年11月9日) |
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艮門うしとらもん・同東続櫓 本壇の東あたり、この方面の防備を担当するとともに虎口として寄手が長者が平から揚木戸門に、あるいはまた搦手の乾門方面に迫ったときこの門から出撃し寄手の側面をつく戦法を考慮していたものである。 昭和59年3月古い資料に基づいて昔日の姿に復元された。 (説明板より) (平成19年11月9日) |
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紫竹門しちくもん(重要文化財)(後方は左が小天守、右奥が天守) 城郭の大手と搦手の仕切りをなし、この門の北側に紫竹が植えられていたのでこの名がある。 天明4(1784)年雷火のため天守閣とともに焼失し、嘉永期の再建と見られる。 昭和10年国宝に指定されたが、同25年法の改正により重要文化財となった。 同26年・46年・平成4年・5年に修理が行われた。 (説明板より) |
(後方は南隅櫓、写真左端は奥から乾櫓、乾門東続櫓)
紫竹門(重要文化財)
本壇に接して紫竹門および続塀がある。
この門と続塀によって本丸の大手とからめ手を大きく仕切ったところで、からめ手を堅める重要な構えである。
(『松山城』パンフレットより)
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紫竹門東塀しちくもんひがしべい(重要文化財) 乾門方面から攻撃に備えたものである。 天明4(1784)年雷火のため天守閣とともに焼失し、嘉永期の再建と見られる。 昭和10年国宝に指定されたが、同25年法の改正により重要文化財となった。 同26年・46年及び59年・60年、平成4年・5年に修理が行われた。 (説明板より) (平成19年11月9日) |
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天守 左:小天守 右:一ノ門南櫓 (平成19年11月9日) |
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一ノ門(重要文化財) 脇戸附の高麗門で本壇の入口になるのでこの名があり、木割りも豪放である。 二ノ門南櫓・三ノ門南櫓・小天守閣から射撃される構えとなっている。 天明4(1784)年雷火のため天守閣とともに焼失し、天明6(1786)年に再建された。 昭和10年国宝に指定されたが、同25年法の改正により重要文化財となった。 同25年・43年及び59年・60年に修理が行われた。 (説明板より) |
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二ノ門(重要文化財) (平成19年11月9日) |
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二ノ門(重要文化財) 本壇における第二番目の門で、薬医門の形式を持つ。 天守閣三ノ門東塀から射撃される構えとなっている。 天明4(1784)年雷火のため天守閣とともに焼失し、安政元(1854)年再建された。 昭和10年国宝に指定されたが、同25年法の改正により重要文化財となった。 (説明板より) |
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天神櫓てんじんやぐら 本壇東北の隅に位置し、艮櫓・艮門および小筒櫓を防衛する。 またこの櫓には松平家の先祖である菅原道真(天満神社)の像を安置し、城の安全を祈ったので、この名がある。 昭和20年戦災により焼失したので同54年9月に古い資料に基づいて昔日の姿に復元された。 (説明板より) |
再建工事概要
着手年月日 昭和53年12月22日
完成年月日 昭和54年8月末日
工事費 3千3百万円
建造物の名称
松山城天神櫓、同南塀、同西折曲り塀
構造及び面積
イ.天神櫓―木構造大壁造り外部蔀板張り、石落し1ヶ所、内部厚板張り
ロ.同南塀、同西折曲り塀―木構造大壁造り
外部蔀板張り控柱附き、南塀石落し4ヶ所、西折曲り塀石落し3ヶ所
ハ.櫓面積 68.11平方米(20.64坪)
ニ.塀延長さ 64.36米(35.4間)
この櫓、塀の使用材は主に栂材で、その再建にあたり、用材の確保に困却したのでありますが松山営林署のご協力により国有林から調達したものであります。
(説明板より)
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三ノ門南櫓(重要文化財) 一ノ門・二ノ門・三ノ門を防衛する役目を持つ一重櫓である。 天明4(1784)年雷火のため天守閣とともに焼失し、安政元(1854)年再建された。 昭和10年国宝に指定されたが、同25年法の改正により重要文化財となった。 (説明板より) |
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筋鉄門東塀すじがねもんひがしべい(重要文化財) 一ノ門南櫓・一ノ門・小天守閣を防衛する。 天明4(1784)年雷火のため天守閣とともに焼失し、安政元(1854)年に再建された。 昭和10年国宝に指定されたが、同25年法の改正により重要文化財となった。 同59年・60年に修理が行われた。 (説明板より) |
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筋鉄門すじがねもん 脇戸附の櫓門で、門の柱に鉄板が張ってあるのでこの名がある。 櫓は天守閣と小天守閣の通路となり、三ノ門を防衛する構えとなっている。 天明4(1784)年雷火のために焼失し、安政元(1854)年に再建された。 昭和8年に放火によって焼失した。 同43年もとの姿に復元された。 (説明板より) |
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小天守閣 天守閣につぐ重要な二層二階の櫓で、大手・搦手を防衛する絶好の位置にある。 純白の外壁が天守閣の黒塗の板壁と対比して美しい。 慶長年間創建当時は着見櫓といわれていた。 天明4(1784)年雷火のため焼失し、安政元(1854)年に復興した。 国宝に指定直前の昭和8年に、放火によって焼失した。 昭和43年5月に昔日の姿に復元された。 (説明板より) |
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左:多聞櫓たもんやぐら 中央:南隅櫓みなみすみやぐら (平成19年11月9日) |
多聞櫓たもんやぐら
南隅櫓と小天守閣とを連結する建物で、南隅櫓と紫竹門とを防衛する。
天明4(1784)年雷火のため焼失し、安政元(1854)年に再建された。
国宝に指定される直前の昭和8年放火によって焼失した。
同43年5月に昔日の姿に復元された。
(説明板より)
南隅櫓みなみすみやぐら
本壇の西南隅に位置し、乾門方面を防衛するとともに、二ノ丸・三ノ丸を監視する二層櫓である。
天明4(1784)年雷火のために焼失し、安政元(1854)年に再建された。
国宝に指定される直前の昭和8年放火によって焼失した。
同43年5月に昔日の姿に復元された。
(説明板より)
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十間廊下じっけんろうか 北隅櫓と南隅櫓を結び、その桁行が十間であるのでこの名がある。 乾門正面を防衛する重要な位置にある。 天明4(1784)年雷火のために焼失し、安政元(1854)年再建された。 国宝に指定される直前の昭和8年放火によって焼失した。 同43年5月に昔日の姿に復元された。 (説明板より) |
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玄関多聞げんかんたもん 玄関を上ったところで、内門櫓を経て天守閣に通じる仕切門・内門・北隅櫓を防衛する。 天明4(1784)年雷火のため焼失し、安政元(1854)年に再建された。 国宝に指定される直前の昭和8年放火によって焼失した。 同43年5月に昔日の姿に復元された。 (説明板より) |
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天守閣・穀倉(重要文化財) 天守閣の地下1階にあたり、俗に米蔵という。 内部に防腐力のつよい樟材を使用し、床に素焼きの煉瓦を敷いて湿気を避けている。 平面積89.25平方メートルで約2千俵の米を収蔵せられる。 現在は天守閣の入り口に使用されている。 (説明板より) |
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仕切門と仕切門内塀しきりもんうちべい(重要文化財) (平成19年11月9日) |
仕切門(重要文化財)
脇戸附の高麗門であって、天守閣の北側に位置し、内門との間が桝形となっている。
天守閣・玄関多聞によって防衛される仕組である。
天明4(1784)年雷火のため焼失し、安政元(1854)年に再建された。
昭和10年国宝に指定されたが、同25年法の改正により重要文化財となった。
昭和25年・43年および59年・60年に修理が行われた。
(説明板より)
仕切門内塀(重要文化財)
乾門方面に対し側防の構えとなっている。
天明4(1784)年雷火のため天守閣とともに焼失し、安政元(1854)年に再建された。
昭和10年国宝に指定されたが、同25年法の改正により重要文化財となった。
昭和59年・60年に修理が行われた。
(説明板より)
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三ノ門(重要文化財) 本壇における第3番目の門で高麗門の形式を持つ。 三ノ門南櫓・天守閣から射撃される構えとなっている。 天明4(1784)年雷火のため天守閣とともに焼失し、安政元(1854)年再建された。 昭和10年国宝に指定されたが、同25年法の改正により、重要文化財となった。 昭和25年・43年に修理が行われた。 (説明板より) |
道後温泉から見た松山城
年 | 城主 | 摘要 | 出来事 |
慶長8年 (1603) |
加藤嘉明 (禄高20万石) (25年間治封) |
慶長6年築城許可 同7年着工 同8年正木城より移る 天守五層 寛永4年会津40万石に転封 |
慶長8年(1603) 徳川家康、江戸幕府を開く 慶長13年(1608) 姫路城完成 慶長15年(1610) 名古屋城完成 慶長16年(1611) 松江城完成 |
寛永4年 (1627) |
蒲生忠知 (禄高24万石) (7年間治封) |
蒲生氏郷の孫 出羽上の山城より移封 二ノ丸完成 寛永11年逝去 嗣子なく断絶 |
寛永9年(1632) 駿府城主徳川忠長を上野に移封 熊本城主加藤忠広を庄内に移封 |
寛永12年 (1635) |
松平定行 (禄高15万石) (24年間治封) |
寛永12年伊勢桑名より転封 徳川家康の異父同母弟松平定勝の子 寛永19年天守を三層に改築 |
寛永12年(1635) 参勤交代制が確立 寛永15年(1638) 島原の乱 寛永16年(1639) 鎖国を断行 |
万治元年 (1658) |
松平定頼 (5年間治封) |
明暦4年(1658) 江戸城本丸再建 |
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寛文2年 (1662) |
松平定長 (13年間治封) |
寛文4年(1664) 宇和島城完成 |
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延宝2年 (1674) |
松平定直 (47年間治封) |
今治藩主松平定時の子 | 貞享4年(1687) 生類憐れみの令発布 |
享保5年 (1720) |
松平定英 (14年間治封) |
享保12年(1727) 高知城焼失 享保17年(1732) 西国虫害、大飢饉起こる |
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享保18年 (1733) |
松平定喬 (31年間治封) |
寛保3年(1743) 甘藷栽培を奨励 宝暦6年(1756) 米価騰貴により蓄米を禁ず |
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宝暦13年 (1763) |
松平定功 (3年間治封) |
宝暦13年(1763) 銅の採掘を奨励 |
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明和2年 (1765) |
松平定静 (15年間治封) |
明和2年(1765) 関東の農民20万人の大一揆 安永元年(1772) 田沼意次、老中になる |
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安永8年 (1779) |
松平定国 (26年間治封) |
天明4年天守落雷で焼失 | 天明3年(1783) 天明の大飢饉 天明7年(1787) 松平定信、老中筆頭になる 倹約令を発す 寛政5年(1793) 伊予吉田藩紙専売反対の一揆 寛政12年(1800) 伊能忠敬、蝦夷地を測量 |
文化元年 (1804) |
松平定則 (6年間治封) |
文化5年(1808) 間宮林蔵、樺太を探検 |
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文化6年 (1809) |
松平定通 (27年間治封) |
文政3年天守再建工事にかかる | 文政8年(1825) 異国船打払令 文政9年(1826) 伊予に逃散起こる 天保3年(1832) 全国的大飢饉 天保5年(1834) 水野忠邦、老中となる |
天保6年 (1835) |
松平勝善 (22年間治封) |
安政元年天守再建なる | 天保8年(1837) 大塩平八郎の乱 天保10年(1839) 蛮社の獄 嘉永6年(1853) ペリー、浦賀に来航 |
安政3年 (1856) |
松平勝成 (13年間治封) |
安政5年(1858) 安政の大獄 伊予吉田領一揆 コレラ流行、死者3万人 万延元年(1860) 桜田門外の変(井伊直弼害死) |
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慶応3年 (1867) |
松平定昭 (1年間治封) |
慶応3年(1867) 王政復古の大号令 ええじゃないか運動全国に波及 |
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明治1年 (1868) |
松平勝成(再任) (2年間治封) |
松平姓を返上し旧姓の久松となる | 明治元年(1868) 明治維新 |
明治2年 (1869) |
版籍奉還 明治3年三ノ丸全焼 同5年二ノ丸焼失 |
明治2年(1869) 東京・横浜間電信開通 明治3年(1870) 平民の苗字を許す 人力車の発明 明治5年(1872) 太陽暦を採用する 新橋・横浜間鉄道開通 |
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大正12年 (1923) |
久松定謨伯より城郭を寄贈される (松山市の所有となる) |
大正12年(1923) 関東大震災 |
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昭和8年 (1933) |
小天守・南北隅櫓・多聞櫓放火のため焼失 | 昭和7年(1932) 5.15事件 昭和8年(1933) 国際連盟脱退の詔書 |
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昭和20年 (1945) |
乾門など戦火のため焼失 | 広島・長崎に原爆投下される | |
昭和33年 (1958) |
馬具櫓を鉄筋で復興 | 新特急こだま号運転開始 東京タワー完成 |
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昭和43年 (1968) |
小天守・南北隅櫓・多聞櫓・十間廊下を復興 (木造) |
小笠原返還 文化庁発足 川端康成、ノーベル賞受賞 |
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昭和46年 (1971) |
筒井門を木造で復興 | 沖縄返還協定調印 ドル=ショック |
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昭和47年 (1972) |
太鼓門を木造で復興 | 沖縄復帰 田中角栄首相、中国訪問 あさま山荘事件 |
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昭和48年 (1973) |
太鼓櫓を木造で復興 | 金大中事件 江崎玲於奈、ノーベル賞受賞 |
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昭和54年 (1979) |
天神櫓を木造で復興 | 昭和53年(1978) 成田空港運営開始 昭和54年(1979) グラマン・ダグラス疑獄事件 木曽御嶽山噴火 |
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昭和57年 (1982) |
乾門同東続櫓を木造で復興 | IBM産業スパイ事件 東北新幹線開業 |
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昭和59年 (1984) |
艮門同東続櫓を木造で復興 | グリコ社長誘拐事件 長野県西部地震 |
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昭和61年 (1986) |
巽櫓を木造で復興 | 東京サミット開催 経済企画庁、景気後退を宣言 英皇太子夫妻来日 ダイアナ妃フィーバー |
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平成2年 (1990) |
太鼓門西壁を復興 | 株価の暴落始まる 国際花と緑の博覧会 |
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平成18年 (2006) |
天守ほか6棟保存修理工事完了 |
【久松松平家】
久松松平家は、寛永12年(1635年)に伊予松山に入封にゅうほうした。
この家は松平姓を名乗る親藩しんぱんではあるが、来歴は少々複雑で、徳川家康の異父弟の流れを汲む家柄である。
家康の生母お大だいの方は、実家の水野家が織田家に与くみしたのを理由に、家康の父・広忠ひろただから離縁され、その後、久松家に嫁いで子をなした。
後に、家康がその子を家臣に迎えて松平姓を名乗らせたのが、久松松平家の始まりである。
(参考:『歴史街道 2009年12月号』)
(平成23年11月11日追記)
【松山城】
文禄4年(1595年)、伊予の半分を領していた福島正則が尾張清洲へ転封となったので、加藤嘉明よしあきらはさらにその半分の伊予4郡6万石を与えられて松前まさき(正木)城に入った。
ついで嘉明は、関ヶ原の合戦では東軍に与し、先鋒として石田三成軍を破るなどの大手柄を立て、戦後、家康から21万石の大大名に取り立てられる。
松前まさき城は、現在の松山城の西南方向、松前町の海岸に面したところに設けてあった。
そのため、ちょっと強い風が吹くと、砂塵がもうもうと巻き起こり、城内にしぶきが飛来して誠に住みにくい。
しかも、21万石の大名の居城としては、あまりにも手狭であった。
そこで、嘉明が太守にふさわしい城として構想したのが、松山城である。
松山城のあるところは、かつて勝山かつやまといい、標高132メートル、今の松山市の中心となっているように、城下町も含めた近世城郭を築くには格好の要地であった。
しかし、関ヶ原の合戦後に新たに城を築くには、家康の許可が必要であった。
家康は当時、諸大名からの新城築造の要請に対し、候補地を3ヵ所あげることを要求した。
その時々によって、家康が何番目の候補地を認めるかには違いがあったようだが、嘉明が申請したころは2番目が採用される傾向にあったので、嘉明はそこを読んで、申請書の2番目に勝山を書き込んだといわれる。
勝山築城が許可されたのは、慶長6年(1601年)6月のことである。
しかし、嘉明は、築城に取り掛かる前に、重臣の足立重信に命じ、いずれ城下町を営むべき先行投資として、伊予川・石手川の大改修を行わせた。
城の築造工事は、勝山を杉山と改称し、翌慶長7年正月を期して始められた。
資材は、松前城、道後の湯月ゆづき(湯築ゆづき)城などから徴発したが、勝山の二つの峰を削って鞍部あんぶを埋めねばならず、整地作業はかなり難航したようである。
現在の松山城天守は三層だが、嘉明の創建時は五層であった。
また、天守の構造は大天守を中心に小天守・南隅櫓・北隅櫓などが重なる極めて厳重な縄張の連立式天守となっており、このような構造は他に姫路城にしか現存していない。
さらに嘉明は、海から離れた立地の不利をカバーするため、中世からの港だった三津みつ浜を松山城の外港として整備した。
三津浜に御舟手おふなて(水軍)を置き、松前まさき旧城下から町人を招いて港町を形成させたのは、築城と同時期のことである。
嘉明は松山城とその城下の建設に邁進したが、嘉永4年(1627年)2月、40万石に加増されたうえ、会津若松に転封となり、残念ながら松山城の完成を見ることはできなかった。
松山城は、嘉明と入れ替わりに入封した蒲生忠知がもうただともの代にほぼ完成したが、最終的な完成は次の松平定行の代に持ち越される。
(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)
(令和2年7月15日 追記)
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