(通称:会津若松城)
(別称:若松城・黒川城)
会津若松市追手町1−1
平成20年5月5日再訪問
「史跡若松城跡 鶴ヶ城」パンフレットより
鶴ヶ城は至徳元年(1384年)葦名直盛が造った東黒川館が始まりといわれている。
その後、会津領主だった葦名盛氏が改築し現在の城郭の原型を築いた(黒川城)。
その後文禄2年には蒲生氏郷が本格的な天守閣を築城、名前も「鶴ヶ城」と改められた。
この時に積まれた石垣が現在の天守台で、400年経た今でも朽ちることなく往時の姿を偲ばせている。
慶長16年(1611年)会津地方を大地震が襲い、石垣はもとより天守閣は大きく傾いた。
この天守閣を改修し、西出丸・北出丸といった出丸を築き、ほぼ現在の姿を作り上げたのが加藤明成である。
幕末、鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争も、戦いの場は会津へと移り、約1ヶ月の籠城戦を戦い抜いた鶴ヶ城も明治7年には陸軍省の命令により取り壊された。
その後、城跡は旧会津藩士遠藤敬止らの尽力により、陸軍省から払い下げられ、昭和9年に国から史跡として指定を受けた。
現在の天守閣は昭和40年に昔の姿をそのままに復元されたものである。
鶴ヶ城は奥羽の要・鎮守の意味もあり、名だたる戦国大名・勇将が相次いで入部した。
独眼流で知られる伊達政宗、「天下人」と目された蒲生氏郷、関ヶ原の上杉景勝、賤ヶ岳の七本槍で名高い加藤嘉明、そして、名君誉れ高い保科正之である。
その武人たちが築いた広大な縄張りは東日本一の規模を誇っている。
『鶴ヶ城跡』碑 (平成20年5月5日再訪問) |
若松城(鶴ヶ城)跡
南北朝の頃、葦名氏によって築かれた黒川城は、文禄元年(1592年)蒲生氏郷によって七層の天守閣を築き、城郭は甲州流の縄張りを用いて整備し黒川の名を若松と改め、城の名を鶴ヶ城と命名した。
寛永16年(1639年)加藤明成は七層の天守を五層とし、北馬出、西馬出を北出丸、西出丸に改築し現在の形態となった。
昭和9年(1934年)12月若松城跡として文部省の史跡指定を受けた。
(説明板より)
枡形 (平成20年5月5日) |
枡形(ますがた)
ここに見られる石垣は今から約370年前の加藤時代に整備された石垣です。
若松城の大手門として堅固けんごな石垣に囲まれ(枡形)、さらに右に曲がった場所には内部を見透かされないように門(北出丸大手門きたでまるおおてもん)がありました。
この枡形ますがたは敵を三方から攻撃できる利点がありました。
(説明板より)
北出丸 (平成20年5月5日再訪問) |
北出丸
寛永16年(1639年)加藤明成のとき、北馬出を出丸に造りかえたもので、本丸を守る重要な出丸であった。
東は二の丸と伏兵郭に、南は本丸に、西は西出丸に濠をへだて相対し、攻防の際には最も重要な位置にあったため城の生命線であった。
北出丸に侵入した敵は三方からせん滅することができるので、「鏖丸みなごろしまる」ともいわれていた。
(説明板より)
太鼓門 (平成20年5月5日再訪問) |
太鼓門
北出丸から本丸に通じる大手門(追手門)のことで、そこには多聞櫓と呼ばれた櫓が建てられ、胴の径5尺8寸(約1.8メートル)の大太鼓を備え、藩主の登城や非常事態、その他の合図に使用されていたところから太鼓門と呼ばれていた。
(説明板より)
本丸埋門 (平成20年5月5日再訪問) |
本丸埋門ほんまるうずみもん
天守閣の北東にあって本丸奥御殿の北側から本丸帯郭に通じる枡形の城門である。
城内の他の門や建築物に比較して低い門構えで埋うずみ門の形態をとっていた。
大手口が東であった築城当時は表門であったが、寛永16年(1639年)の加藤明成による改築後は裏門となっている。
本丸奥御殿の勝手口としても重要な門である。
(説明板より)
御三階 (平成20年5月5日再訪問) |
御三階ごさんかい
御三階は、数奇屋風の楼閣状の建物で、城内の他の建物とは趣が異なっていました。
密議を行う場所として使われていたといわれています。
戊辰戦争後、鶴ヶ城の取り壊しが行われる前に、七日町の阿弥陀寺に移築され、現存しています。
(説明板より)
天守閣(昭和40年再建) | 鉄門くろがねもん |
干飯櫓・南走り長屋(平成12年復元) |
1384年(至徳元年) | 葦名直盛が東黒川館をつくる。 |
1543年(天文12年) | 葦名盛氏により会津地方の戦乱に終止符が打たれる。 |
1589年(天正17年) | 伊達政宗が会津に入る。 |
1590年(天正18年) | 蒲生氏郷、会津領主として黒川城に入城。 |
1593年(文禄2年) | 七層の天守閣完成。 黒川を若松に改め、町割りを作る。 城の名を鶴ヶ城と命名。 |
1598年(慶長3年) | 上杉景勝が会津入りし、出羽3郡、佐渡3郡を加えて120万石が与えられる。 |
1601年(慶長6年) | 上杉景勝が米沢に転じ、蒲生氏郷の子・秀行が会津に入る。 |
1627年(寛永4年) | 伊予松山から加藤嘉明が会津に入る。 |
1639年(寛永16年) | 天守閣は五層に改められ、西出丸、北出丸が整備される。 |
1643年(寛永20年) | 嘉明の子・明成が会津40万石を幕府に召し上げられる。 三代将軍家光の弟・保科正之が最上から23万石で入部。 |
1696年(元禄9年) | 幕府の命により松平姓と葵の紋を用いる。 |
1862年(文久2年) | 容保、京都守護職を命じられる。 |
1868年(慶応4年) | 鳥羽・伏見の合戦。容保、会津に帰る。奥羽越列藩同盟成る。 戊辰戦争にて1ヶ月の籠城の末、鶴ヶ城開城。 |
1874年(明治7年) | 鶴ヶ城が取り壊される。 |
(参考:リーフレットより)
(平成20年10月31日追記)
鶴ヶ城ボランティアガイドもあります。
破却直前に撮られた古写真をもとに、昭和40年に外観復元された。 |
【若松城】
会津若松は、古くは黒川といい、文治5年(1189年)、奥州藤原氏攻めの功により佐原義連さわらよしつらが鎌倉幕府から与えられて以来、代々、佐原氏(のち蘆名氏と改姓)に伝領されてきた。
会津若松の地に初めて城を築いたのは、義連から数えて7代目の葦名直盛あしななおもりである。
蘆名直盛が城を築いたのは南北朝時代も末の至徳元年(1384年)の頃で、地名を冠して黒川城と呼ばれたが、その実態は規模の小さい館やかたのたぐいだったらしい。
蘆名氏が戦国大名として成長するにつれ、黒川城も次第に拡大・修築されていったが、直盛の築城から200年経っても、なお中世城郭の域を抜けられなかったようだ。
天正17年6月、蘆名氏を屠ほふった伊達政宗が黒川城に入った時、家臣の一人が、こんな粗末な城では外聞が悪い、と政宗に修築を言上した記録が残っている。
しかし、政宗も関東進出という野望を持っていたため、黒川城に手を加えようとはせず、そのうちに蒲生氏郷の入部をみることになる。
氏郷は黒川に到着すると、ただちに根本的な大改修のプランを練り、文禄元年(1592年)から工事に取り掛かる。
黒川を若松と改め、黒川城に鶴ヶ城の雅名を付けたのは氏郷である。
氏郷は城下の町割りにも腐心し、近江・伊勢(三重県)の旧領商人や職人を呼び寄せて殖産興業のための手も打った。
ちなみに、いま会津若松の特産となっている会津塗は、このとき氏郷が招いた近江職人の技法を母体として生まれたと伝えられている。
五重七層の大天守の鶴ヶ城が一応完成したのは、文禄2年5月。
嘉永4年(1627年)2月、松山から加藤嘉明が会津若松に転封されたが、4年後に会津若松で没し、その跡は子の明成あきなりが継いだ。
会津若松城は、この明成の代に大改修が加えられる。
一説によれば、天守を除いた、ほとんどあらゆる部分に手を加えるという徹底した大改修だったという。
おそらく、この大改修のプランを立てたのは、父の嘉明だったのだろう。
余命がもっとあれば、嘉明自ら大改修の指揮をとるつもりだったに違いない。
ちなみに、北出丸から横手坂を上り切った桝形ますがたの構造などは、松山城にそっくりだという。
鶴ヶ城が紛れもなく名城であることは、戊辰戦争の際、あざやかに立証された。
鶴ヶ城は、一見、平城に見えるが、東山ひがしやま渓谷から流れ出る扇状地の高台に位置する平山城である。
したがって、高台に接する方面が一番の弱点とみなされ、そこに防備の主眼がおかれた。
だが、それは、最も威力のある飛び道具が鉄砲ぐらいしかなかった時代の発想である。
鶴ヶ城本丸の東南の方向1.7キロに小田おだ山という標高379メートルの小山がある。
山頂に登ると、眼下に鶴ヶ城の全容を見渡せる位置関係にある。
だから鉄砲攻撃に対してはさして脅威ではなかった小田山が、戊辰戦争当時には、鶴ヶ城最大の弱点となった。
官軍は、小田山山頂に四斤山砲を据えつけ、鶴ヶ城に猛撃を加えた。
四斤山砲は、口径8.6センチ強、重さ4キロの弾丸を撃ち出す当時最新の大砲である。
だが、鶴ヶ城は、次々と落下する炸裂弾に耐えて、降伏開城のときまで燃えもせず崩れもしなかった。
(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)
(令和2年7月7日 追記)
会津戊辰戦争終結の地 (福島県会津若松市東栄町8) (平成20年5月5日) |
会津戊辰戦争終結の地
泣血氈きゅうけつせんの誓い
明治元年(1868)9月22日午前10時、1ヶ月の籠城戦に耐えた鶴ヶ城に、遂に降伏の白旗が掲げられ、会津戊辰戦争は終結しました。
この日の正午、錦旗を擁した西軍の軍監・中村半次郎等を迎え、会津降伏式が行われました。
式はここ甲賀町通りの路上で行われたのです。
式場には、薄縁という畳表に縁布を付けた物を敷き、そのうえに十五尺四方(約4.5m)の緋毛氈が敷かれました。
その上で、松平容保かたもり、喜徳公父子によって降伏の調印がなされました。
それは天皇家に忠誠を尽くした会津が、逆賊の汚名を着せられての敗戦でした。
終了後、会津藩士たちはこの日の無念を忘れぬために、その場に敷かれた緋毛氈を小片に切り刻み、おのおの懐中深く持ち帰ったといわれています。
後にその毛氈は「泣血氈」と呼ばれ、会津人の心の奥深く刻み込まれる事となりました。
明日よりは いづくの誰か ながむらん
なれし御城に残す月影
開城前夜 山本八重子 詠
(後に同志社大学創設者・新島襄の妻となる)
(説明板より)
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