蒲生氏郷銅像 平成16年2月7日

蒲生氏郷 がもう・うじさと

弘治2年(1556年)〜文禄4年2月7日(1595年3月17日)

三重県松阪市・松阪市立歴史民俗資料館でお会いしました。


父親は近江国蒲生郡日野城主の蒲生賢秀。
永禄11年(1568)人質として織田信長のもとに送られたが、寵遇を受けて岐阜で元服、信長の女をめとって日野に帰城しました。
本能寺の変後、豊臣秀吉に属し、天正12年(1584)小牧・長久手の戦い後、伊勢国松ヶ島(松阪)城主となり12万石を領しました。
その後、小田原攻めの戦功により陸奥国会津42万石に移りました。
奥州各地を平定して92万石に加増。
文禄4年(1595)伏見で没しました。
石田三成の陰謀による毒殺説もあるが明らかではありません。
茶道では千利休の高弟。
キリスト教に帰依して、洗礼名はレオンといいました。


蒲生氏郷像 氏郷と望郷のうた

文禄元年(1592)秀吉の命を受けて京へ急ぐ途中、武佐むさの宿(現・近江八幡市)で氏郷はうたをよんだ。
おもひきや人のゆくへはさだめなし
我ふるさとをよそに見んとは
この像は郷里の空を望む姿である。

(松阪市立歴史民俗資料館・氏郷の像の説明文より)

(平成16年2月7日)

【蒲生氏郷

氏郷は、近江おうみ(滋賀県)蒲生郡日野城主・蒲生賢秀かたひでの子として、弘治2年(1556年)に生まれた。
当時、蒲生氏は近江の守護大名・佐々木六角ろっかく氏に属していたが、やがて織田信長の支配下に入り、氏郷は人質として信長のもとに送られる。
時に氏郷13歳のときのことである。
信長は、氏郷を一目見て「眼睛がんせい常ならず」と、ただちに氏郷の才能を見抜いたといい、翌年、末娘の冬姫ふゆひめを氏郷に嫁がせることにした。
氏郷の、そのすぐれた器量は、成長するとともに一段と発揮されていった。
氏郷を文武兼備の名将とみなす評価は、かなり早い時期から諸将の間に広まっていたらしい。

次第に出世して松ヶ島(三重県松阪市)12万石の領主となった氏郷が、豊臣秀吉により会津若松に移封いほうされたのは、小田原北条氏が降伏して秀吉の天下平定がなった天正18年(1590年)のことである。
氏郷に与えられた使命は、主として伊達政宗徳川家康の動静を監視し、奥羽地方の安定を図ることであった。
禄高は12万石から42万石へと3.5倍増になったが、この推移だけをみると、いかにも秀吉の大抜擢のように感じられる。
しかし、秀吉がこの処置に踏み切ったのは、氏郷の器量を恐れ、いずれ氏郷が自分にとってかわるかもしれない可能性を、事前に摘み取るためだったともいわれる。
畿内きないから遠い陸奥むつに移してしまえば、氏郷でも豊臣政権を転覆させることはできまい、というわけだ。
俗説では、氏郷の出立を見送った秀吉が側近にそう語ったことになっている。

また文禄4年(1595年)に氏郷が40歳で病死したのは、秀吉が毒殺したのだ、という憶測もされているが、毒殺説のほうは、主治医・曲直瀬道三まなせどうさんが残した『医学天正記』収載のカルテを読む限り、荒唐無稽の説としなければならないが、ともかくそういわれるほどに氏郷は傑出した人物だったということであり、逆にいえば、それほどの才能に恵まれたことが、かえって氏郷の不幸だったということができよう。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月7日 追記)


【築城名人】

蒲生氏郷が最初に築城名人の評をとったのは、伊勢松坂においてであった。
天正12年、松坂12万石に封ぜられた氏郷は、ひとまず既存の松ヶ島城に入ったが、松ヶ島城は伊勢湾に面した海賊城の一つで、城自体が手狭なうえ、城下町を形成する余地も乏しかった。
そこで、氏郷は松ヶ島の南の四五百よいほの森に白羽の矢を立て、三重の天守閣を中心にして数々の櫓を配するとともに総延長210メートルの濠を巡らせた松坂城を、4年がかりで築城した。
松坂出身の本居宣長は、「すべて此この里町すぢゆがみ、正しからず」と述べているが、松阪市内の道が今も鍵かぎの手に曲がりくねり、袋小路が多いのは、氏郷苦心の町割りの遺産である。

氏郷は、会津若松に転封てんぽうになったときも、黒川城を大改修して名を鶴ヶ城と改め、七層の天守閣を築いている。
この天守閣は、当時としては大坂城につぐ二番目の規模のものだった。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月6日 追記)




蒲生氏郷



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