延享4年10月8日(1747年11月10日)〜文化10年12月14日(1814年2月3日)
名は孝肇たかとも、字は志尹しいん、通称良佐。
伊予国川之江の廻船業者の子。
大坂の片山北海に入門するが、頼春水・古賀精里らと正学を学び朱子学を選んだ。
大坂に開塾したが、寛政3年(1791)幕府に登用され、聖堂学問所の儒者として寛政期の学政に参画した。
寛政の三博士の一人。
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寛政の三博士 尾藤二洲生誕地 (愛媛県四国中央市川之江町1514番地・脇) 平成15年12月4日建立・川之江市観光協会 (平成19年11月12日) |
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寛政の三博士 尾藤二洲生誕地 (平成19年11月12日) |
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句碑 水聲長く耳に在り 山色門を離れず 二洲望郷の句 平成15年12月4日 190年祭記念 尾藤二洲顕彰会 (平成19年11月12日) |
尾藤二洲顕彰碑・碑文
尾藤二洲は、延享4年(1747)10月8日宇摩郡川之江村農人町に生まれる
5歳の時舟溜まりに落ち、生涯足疾となる
14歳の時祖父の勤めで村の儒医宇田川楊軒に就き徂徠学を学ぶ
24歳で大阪に遊学
片山北海に師事古文辞学を学ぶ
後に頼春水等と切磋交遊、朱子学を正学とし粗餐録を著す
寛政3年(1791)幕府に登用され昌平黌教官となり、柴野栗山・古賀精里と共に寛政の三博士と称された
65歳で官を辞する迄の21年間、学識と卓見を以てその名を四海に馳せた
謹言で酒脱、豪放で磊落、高い識見と大義に厚い性格は、多くの師弟・友人を感化教導して止まなかった
生涯梅花を愛し、酒を嗜み、故郷の風光を懐かしんだ望郷の念は、いみじくも今に伝わる詩の中に多い
文化10年(1813)12月4日、67歳で没し、東京都大塚先儒墓所に眠る
平成15年12月
尾藤二洲顕彰会
※ 顕彰碑・碑文では歿した月日が12月4日となっています。(12月14日の誤記か?)
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二洲尾藤先生碑 (愛媛県四国中央市川之江町・川之江城跡・城山公園) (平成19年11月12日) |
二洲尾藤先生碑
先生、諱いみなは孝肇こうちょう、字あざなは志尹しいん、良佐りょうすけと称す。
二洲じしゅう・約山やくざん・静寄軒せいきけんは皆其の別号なり。
伊予国宇摩郡川の江の人。
其の先は藤原姓せい、尾張より来り移る。
因(よ)って尾藤氏と称す。
曽祖そうそ、諱は之C、祖、諱は有美、孝、諱は宣■せんよう、妣ひは西山氏。
家は世々漕行そうぎょうを業とし、一郷の豪族たり。
先生、延享四年十月八日生まる。
甫はじめて五歳、足疾そくしつに罹かかり又多病。
十四、祖父は命じて、郷師宇田川楊軒ようけんに就(つ)いて陽明学を受けしむ。
二十六、疾を大阪に療りょうす。
遂に片山北海に従いて徂徠学そらいがくを修む。
時に頼春水らいしゅんすいまた同門たり。
洛■らくびんの書を得て、之を喜び、先生に読むことを勧すすむ。
先生深く信じ、以て正学と為し、相共に研鑽けんさんす。
又、中井竹山、履軒りけん兄弟と交り、益ますます朱学の蘊奥うんのうを究む。
寛政中、白河楽翁公しらかわらくおうこう、幕府の大老為たり。
陸りく・王おお・伊い・物ぶつの諸学粉興ふんきゅうし、朱学の衰替すいたいせるを慨なげき、先生及び柴野栗山しばのりつざんを抜擢して、昌平黌しょうへいこうの教官と為す。
古賀精里こがせいりを尋挙じんきょして同官と為す。
世は之これを三博士と称す。
幕府は又異学の禁を発し、三博士は旨むねを奉じ、極力之を排斥す。
諸藩また禁を奉じ、天下靡然びぜんとして再び朱学に向かい、学風一定し以もて幕末に至る。
蓋けだし先生等の力なり。
先生俸米ほうまい二百苞ぽうを受ける。
祖の足疾を以て特に官舎を黌内こうないに給たまい、朝見は正会に止む。
後、第ていは壹岐坂いきざかに賜たまい、退隠たいいんして老を養う。
文化十年十二月十四日歿、享年六十九。
大塚原に葬る。
先生は角肉巨口かくにくきょこう、音吐爽亮おんどそうりょう、性は恬淡簡易てんたんかんいにして飲酒を喜ぶ。
其の学説に曰く、聖人有りて以来、孔子の若ごとき有らず。
儒者じゅしゃ有りて以来、朱子の若き有らず。
陸・王はこれ告子の流、伊・物はこれ荀子じゅんしの流。
然しかし悪にくんでも其の美を知る。
陽明ようめいの文を評して有明一代の首出と為し、中江藤樹なかえとうじゅの画像に贊さんして近世罕まれに見る徳行と為す。
又、書を郷師楊軒に寄せて曰く、学説変ずと雖いえども、交誼こうぎは変ぜずと。
文は歸震川きしんせんを愛し、詩は陶とう・柳りゅうを愛す。
老に及んでも最も白伝を喜ぶ。
其の性に近きを以て也。
平生、述作を喜ばず。
文集の外、一時の遇筆ぐうひつに出づるもの数種あり、而しこうして稱謂私言しょういしげん最も顕あらわる。
蓋けだし幕府の盛時せいじに在りて、尊王そんのうの大義を明かにす。
其の識見しきけんは三博士の中に卓出たくしゅつす。
東遷後とうせんご、高祖こうそ以下四世の原墓げんぼを大塚に設け、遺徳阡いとくせんと曰いい、歳時転配さいじてんぱいす。
又、谷文晁たにぶんちょうに属して、郷山の図を造り、諸友に請こうて詩を題せしめ清暇せいかに披覧ひらんし、暢然ようぜんとして以て楽しむ。
其の遠きを追い、故いにしえを慕うことの厚きことまた以て見る可べしと言う。
前配ぜんはい猪川氏、三女を生む。
一女は、岡田真澄に嫁す。
余は殤しょうす。
後配飯岡氏、四男一女を生む。
男の伯はく・仲ちゅう・季き・皆殤す。
叔高嗣(つ)ぐ。
女は米田正幸に嫁す。
門人には長野豊山ほうざん、近藤篤山とくざん、最も名あり。
大正紀元、先生一百年忌辰に届とどき、郷紳胥ごうしんあい謀(はか)って祭典を説く。
来り拝するもの、先生の玄孫良興よしおき以下凡そ数千人また以て其の遺徳覃ふかく及べるを知る可べき也。
因よって又、招魂の碑を建て遠く余に銘を速もとむ。
銘曰く
予山南に横たわり 海は渺びょうたり其の北 明媚めいび描くが如き 先生の郷宅
乃ち図乃ち詩 以て羇客ききゃくを慰む 矧いわんや英魂を招いて ■きつたり斯この碑石ひせき
英魂知る有らば 歳時来り格いたれよ 千古依然として 山紫にして海碧あおし
大正三年二月
宮内儒員従三位勲二等 文学博士 三島毅 撰弁篆額及書
碑文中十四日之十字蓋誤衍
平成15年12月4日
寄贈 川之江ライオンズクラブ 例会1000回記念
(説明板より)
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尾藤二洲 (二洲尾藤先生碑・説明板より) (平成19年11月12日) |
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尾藤二洲・詩碑 (愛媛県四国中央市川之江町・川之江城二の丸跡) (平成19年11月12日) |
歌碑
碑文
この詩碑は吟道清風流清吟堂吟友会が創立30周年を記念し郷土の生んだ大儒寛政の三博士と称賛される尾藤二洲先生顕彰の一助として本会々員の拠金によりこれを建立し先生のご遺徳を敬仰するものである
昭和58年4月吉日
吟道清風流清吟堂吟友会
(副碑・碑文より)
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