王陽明石像 平成17年4月9日

王陽明 おう・ようめい

1472年9月30日~1528年11月29日

滋賀県高島市安曇川町・陽明園でお会いしました。


名は守仁。字は伯安。陽明は号。
中国浙江せっこう省余姚よようの出身。
官は南京兵部尚書・兼都察院左都御史にいたる。
文臣としては明代を通じて武功第一と称され、江西福建の賊乱、宸濠しんごうの反乱、広西瑶やお族の乱などを平定。
はじめ朱子学を修めたが、宦官かんがんの劉瑾りゅうきんに反対して流された貴州省竜場山中で、南宋の陸象山の心即理説をうけ、これを根本原理として、知行合一・万物一体・致良知を主張する陽明学を確立。
陽明学は客観的哲学である朱子学とは対照的に主観的哲学の色彩が濃く、朱子学と並ぶ儒学の二大潮流の一つとなった。


王陽明石像

王陽明石像

(滋賀県高島市安曇川町・陽明園)

皇帝に拝謁する時の姿を描いた等身大の石像は、余姚市に古くから伝わっている王陽明画像にもとづき、余姚産の花崗岩を使用して制作したものです。


(平成17年4月9日)

王陽明先生石像

名は守仁。字(あざな)は伯安。中国・明代における哲学者・政治家であり、また浙江省余姚市が輩出した最大の偉人であります。
陽明学の始祖。
この等身大の石像は、余姚産の花崗岩を使用し、余姚市の人々によって1991年に製作されました。

王陽明略年譜

1472年  1才 余姚の瑞雲楼に生れる。
1489年 18才 婁一斎と会い、聖人学んで至るべしと教えられる。
1492年 21才 浙江の郷試に合格する。
1499年 28才 会試に合格する。
1506年 35才 劉瑾一派のため下獄、廷杖40を受ける。貴州の竜場駅丞に左遷される。
1508年 37才 竜城に至る「格物致知の説」「心即理」を悟る。
1509年 38才 席元山に「知行合一」を論ずる。
1513年 42才 「天理を存して人欲を去る」「事上磨練」を説く。
1518年 47才 『大学古本』『朱子晩年定論』『伝習録』を刊行する。
1520年 49才 「致良知」の説をとなえる。
1521年 50才 『陸象山文集』を刊行する。
1524年 53才 南大吉の稽山書院、翌年には陽明書院にて講学する。
1527年 56才 命により広西の思・田の征に向かう。
1528年 57才 思・田を平定する。南安にて卒する。

(説明板より)

陽明園



陽明園

(滋賀県高島市安曇川町・近江聖人中江藤樹記念館の裏)




(平成17年4月9日)

陽明園

陽明園は、昭和61年(1986)からはじまった王陽明(1472―1528)先生の生誕である中国浙江省余姚市と、日本陽明学の祖・中江藤樹(1608―48)先生生誕の地である滋賀県安曇川町との友好交流シンボルとして建設した中国式庭園です。
この設計にさいしては、上海の豫園、蘇州の抽政園や留園など、中国における代表的庭園を参考にしました。
「太湖石」と呼ばれる池の周囲などに配した奇怪な形をした岩石や塀の「龍瓦」をはじめ、陽明園に用いられている建築材料のほとんどは、中国から輸入したものばかりです。

[陽明亭]
八角平面の二層式あづまやの陽明亭は、王陽明が講学した中天閣に残されている建物にならって建築しましたが、このたびの陽明園における陽明亭は、余姚市文物管理委員会の時代考証をへて500年前の建築様式にもとづき、余姚市城郷建設委員会の監修によって復元したものです。

(リーフレットより)

交通案内:JR湖西線安曇川駅より徒歩15分
入園料:無料


【陽明学】

12世紀の中国で、陸象山りくしょうざん(1139~92 南宋の哲学者)によって始められ、そして王陽明によって確立された陽明学は、一言でいえば、朱子学が「性理学」として形式合理化をめざすのに対して、「心の主体性」とでもいうべきものに関心を寄せたのである。
ここで心の主体性というのは、「義」をめぐる情念がいかに決断そして行動へと展開されていくか、という精神の政治学のことといってよい。
それは、三島由紀夫もいうように「危機の哲学」である。
人間の生はいつも危機に直面しているのであり、簡単に形式化することのできないものである。
その危機を突破するときにどういう心の構えが必要であるか、それを考究するのが陽明学である。

(参考: 西部邁 著 『国民の道徳』 扶桑社 平成12年11月 第2刷発行)

(令和2年8月31日 追記)


王陽明



 トップページに戻る   銅像のリストに戻る

SEO [PR] !uO z[y[WJ Cu