平成19年10月21日
生没不詳
栃木県大田原市・『大田原市那須与一伝承館』前でお会いしました。
鎌倉前期の武士。
下野国那須郡の住人。
父は藤姓資隆。
実名は宗隆(宗高)。
「平家物語」によると、文治元年(1185年)屋島の戦に源義経指揮下で参戦し、平氏方の船に掲げられた扇の的を一矢で射落とし、両軍の喝采を浴びたという。
このほかには確かな史料上の所見もなく、実像は不明。
幸若舞曲・浄瑠璃・能『八島』など後世の芸能に取り入れられ広く親しまれた。
与一像 (『道の駅・那須与一の里』・大田原市那須与一伝承館) (平成19年10月21日) |
那須与一と武茂郷 |
治承4年(1180)平家追討の以仁王令旨を受け、源頼政らの挙兵によって、下野武士団は複雑な対応に迫られることになった。
平家物語によれば、元暦元年(1184)2月18日の屋島の合戦の折り、平氏の漕ぎ出す小舟に立てられた扇の的を射止めるよう義経に命じられた与一は、日光・宇都宮二荒山神、那須温泉神に祈願して見事武門の誉れを得た。
『那須記』には、そのお礼として「那須郡の内武茂12郷を宇都宮明神に寄進した」とある。
また、文治5年(1189)源頼朝が奥州征伐の帰途、那須郡の内5ヶ郷を寄進したこともある。
これらによって武茂郷は社務職を兼ねていた宇都宮氏の所領となったことは事実である。
文献名 | 期日 |
平家物語 | 元暦2年2月18日 |
吾妻鏡 | 文治元年2月19日 |
源平盛衰記 | 元暦2年2月20日 |
那須記 | 〃 |
那須与一霊和讃 | 〃 |
長門本平家物語 | 元暦2年2月21日 |
長嶋壇浦源平合戦縁起 | 元暦2年3月20日 |
(参考:馬頭町教育委員会『武茂一族の興亡』)
大田原市那須与一伝承館 (栃木県大田原市南金丸1584−6) (平成19年10月21日) |
『平家物語』で有名な「扇の的」の物語。
元暦2年(1185年)2月、源義経は四国屋島に陣を構える平氏を背後から攻めたて、慌てた平氏は船で海に逃れ海辺の源氏と対峙することになりました。
沖から立派に飾った一艘そうの小舟が近づき、美しく着飾った女性が、日の丸を描いた扇を竿さおの先端につけて立っています。
「この扇を弓で射落としてみよ」という挑発でした。
義経は、弓の名手那須与一を呼び寄せ「あの扇を射て」と命じました。
与一は何度も辞退しましたが、聞き入れられず意を決して馬を海中に乗り入れました。
与一は鏑矢かぶらやを十分に引き絞ってひょうと放ち、正確に扇の要かなめから一寸ほど離れたところを射切りました。
扇は空に舞い上がったのち春風に一もみ二もみもまれて、さっと海に散り落ちました。
紅色べにいろの扇は夕日のように輝いて白波の上に漂い、浮き沈みしました。
沖の平氏も陸の源氏も、これには等しく感動しました。
大田原市は中世から近世にかけて那須氏の拠点が置かれ、ここで那須与一が誕生・成長したと伝えられるなど、与一および那須氏とのゆかりが深いところです。
大田原市那須与一伝承館では、この与一の活躍をロボットと映像でお楽しみいただくとともに、与一や那須氏に関連する資料をご覧いただくことができます。
【休館日】
毎月第2・第4月曜日
(その日が国民の祝日に当るときは、その翌日)
1月1日〜1月3日
【開館時間】
午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
【入館料】
大人 300円
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