日本兵の顕彰碑

(アメレーのホベ村)


平成21年(2009年)3月2日・第3日目

続いてアメレーという場所へ向う。
途中、日本陸軍の第20師団が歩いたという場所を高台から見下ろす・・・・・が・・・・
ジャングル!
密林である!
う〜ん・・・あの密林を歩いたのか?
いやはや大したものである。


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“やよい”さんの案内でホベ村という小さな集落を訪問する。
ここの責任者である45歳の神父の案内でジャングルの中に入る。
ジャングルといっても、ここは彼の家の“庭”らしいのだが・・・
女性、子供も同行。
どうやら家族らしい。
上から見たら平坦な地形にジャングルの樹海という感じだが・・・・
ジャングル内に足を踏み入れると、その起伏の激しさに驚く。
土は粘土質でヌルヌル・・・・湿度は軽く90%近いだろう。
「昼なお暗い」と形容される薄暗く蒸し暑いジャングルの中、急峻な坂を登ったり降りたり・・・・
いやぁ〜キツイ!

ホベ村 ホベ村

日本軍がこのニューギニアで苦労した理由の一つは、このジャングルである。
航空写真からの判断では平坦な樹海にしか見えない。
空から見ると歩くのは簡単そうに見えるが・・・・
実際には、その樹海の下は極端な起伏に富んでいる。
これじゃいつまで歩いてもなかなか先に進めない。
これが作戦計画の破たんをきたす原因にもなったことは、実際に歩いてみるとよくわかる。
体力の消耗と病魔に侵されては進むに進めまい。
日本軍はニューギニアの各地でこの苦労に遭ったに違いない。
簡単な地図だけではわからない世界である。

このホベという場所は第1次世界大戦時にドイツ軍がジャングルを切り開いて小道を作った場所であるという。
日本軍は、アメリカ軍がこの道を使って進撃してくるだろうと考えて、この地点に監視所を設けたらしい。
この集落に約10名の日本兵が駐屯していたという。
結局ここでは戦闘は行われなかったらしいので、戦跡というほどのものではないが・・・・
彼の敷地内のジャングルに彼が手作りで記念碑を建てていた。

手作りの記念碑 手作りの記念碑(顕彰碑?)

落差20メートル程度の瀧の脇の粘土質のヌルヌル滑る崖を降り・・・・
汗だくになってたどり着いた平坦なところに小屋掛けの記念碑・・・・
誰のために建てたのかというと、自分の子孫のためだという。
ここは日本軍が監視のための櫓(監視哨)を建てていた跡だという。
日本軍と彼の祖父たちの交流について語ってくれた。
食糧や物品などをお互いに交換したりと、非常に良好な関係だったらしい。
そのような日本兵のことを後世に残すために記念碑を建て、子供たちに語り継いでいるという。
「こういう風にしていつも話して聞かせているので、私の子供たちはみんな日本兵の話を知っているんですよ」と神父さんは自慢する。
なんと素晴らしい話ではないか。
ニューギニアの人が「良き日本兵」として子孫に語り継いでいるのである。
それに比べて我が日本人はどうだろうか?

碑文
In these cruel.years captain Josuca and his men took position of Jungle trees,cliffy,rocky stream.
Their watchman been directed up on the Selsi tree 60-70 meters away from the camp,selfguard
Anti aircraft machine gun.
From the observation at the foot of the tree a meter above the groun surface on the stern of the
Selsi tree were abreviations depecting letter "C and U" done using nails.

このすぐ近くに、この日本兵たちが住んでいた場所があるという。
今は建物も何もないが、その場所にも案内するという。
「場所は・・・あそこ!」と指さす方向を見る。
あ〜あそこね・・・と気楽に考えたが・・・
そこまで行くのが大変・・・
どうして、こんなところを上り下りしなくちゃならないの・・・
すぐ目の前にあると思ったのが間違いだった。
確かに目の前にあることはあるのだが・・・道は急峻だった。
ヌルヌルと滑る道を上り下り・・・

出発して5分後には到着したのだが・・・
ん?すぐ目の前にある場所に行くのに5分もかかったのか?
なんとも、よくわからない。
これがジャングルというものなのだろう。
だから日本軍も移動には苦労したわけだ・・・と思った。

日本兵の駐屯場所跡 手作りの記念碑(顕彰碑?)
小銃弾 小銃弾などが置かれてあった
碑文
Japanese Hide out
a historical revied of the existience of Japanese soldiers during the second world war who have
recided here on this site.In 1942 the Japanese soldiers moved quickly from coastal to inland
of Madang in various directions for occupation as to capture territory in a war.In 1943-1944
the Japanese defensive became more tough.Here were captain Josuca and his men:
MAGIHARA MAGINA GISIMOTO

彼が祖父から聞いた日本兵の名前を4人だけ覚えているという。
「祖父は全員の名前を覚えていたが、私は4人しか覚えていない。本当に申し訳ない」と彼は言う。
その名前は、碑文にも記されているが・・・発音を聞いてもよくわからない。
キャプテン・JOSUCA(ジョシュカ?)は、隊長の名前だろうが、こういう発音の日本人はいない。
MAGIHARA(マギハラ)は「まきはら(牧原・槙原)」ではないだろうか?
“G”を「き」と発音すれば・・・GISIMOTO(ギシモト)は「きしもと(岸本・岸元)」となる。
しかし、MAGINA(マギナ)は「まきな」としても日本にそういう苗字があったかな?
「まきな」ではなく「まきの(牧野)」か?

「正確な発音は知らないが、祖父はこう言っていた」と彼は言う。
その発音を文字にしたのだという。
音声を文字に表すというのは難しいもので・・・・
パプアニューギニアでは、どういう音を、どのアルファベットで表記するのかを知らないと解読できないような気がする。
日本でいえば「五十音表」みたいなもの・・・・

例えば、フィリピンの地名でSANJOSEというのがある。
我々がこれをそのまま読むと「サンジョセ」であるが、正しくは「サンホセ」である。
“J”を「ほ」と発音する。
試しにこれを当ててみると、JOSUCA(ジョシュカ)という隊長の名は「ほすか」となる。
「ほすか」・・・「ほすかぁ〜」・・・
「ほそかわ(細川)」に近いような気がするなぁ〜
日本人の発音が彼らの耳にはどう聞こえるのか・・・・
それを文字にするとどういう文字を当てるのか・・・・
そういうことを一つ一つ実験していかないと無理なような気がするので・・・・この件は諦めた。(笑)
でも、これをやり始めたら、かなり面白い研究になるような気がする。

この日本兵たちは近くに駐留していた第20師団(朝鮮で編成)所属の兵ではなかろうか?
そうなると、朝鮮で日本軍に入った朝鮮人兵士もいたわけだし・・・・
そうなると、朝鮮人の「本名」の発音も知らないと解明できないかも・・・・

「日本兵達がこの地を立ち去る時、刀で空を突き刺し、その次に地面を突き刺して、敬礼して行った・・・と祖父から聞いたことがあるが、これは一体何だろうか?」と尋ねられた。
もしかして・・・「捧げぇ〜つつっ!」という、あの仕草ではないだろうか?
そこで、彼の前で、これを演じて見せた。
軍刀を顔の前に掲げると・・・剣先は空を向く。
つまり、空を突き刺すように見える。
続いて軍刀を斜め下に払うと・・・・剣先は地面を向く。
つまり、地面を突き刺すように見える。
「おじいさんは、この儀式を見て、そう言ったのだと思いますよ。これは、相手に敬意を表す儀式なのです。日本兵は皆さんに敬意を表して移動して行ったのでしょう」とお話しさせて頂いた。(多分、間違っていないと思うが・・・)
この時、村人は“勝利の舞”という踊りを披露して見送ったという。
日本流で言えば、武運長久を祈ってくれたのだろう。
なんと嬉しい話しではないか・・・・

この日本軍の移動の時に、村人が荷物の運搬などを手伝ったそうだが、「一部の人は帰ってきたが、一部の人はとうとう帰って来なかった」と彼が言ったので、「アイム・ソーリー」と言ったところ、彼の表情が変わった。
「何であなたが謝るのですか?あなたが謝る必要はない。これは戦争なんです。わかりますか?戦争なんですよ。帰って来なかった人は可哀そうですが、仕方がないことなのです。あなたが謝ることじゃありません!」と怒った顔でピシャリと言われてしまった。
思いがけない反応にさすがに驚いた。
我が隣国には何度謝罪してもネチネチといつまでも謝罪を要求する連中がいるというのに・・・・
これにはさすがに驚いた。
で・・・また「アイム・ソーリー」と言っちゃった。(笑)

子供たち “先生”のカメラ機材などに興味津々の子供たち。

この撮影後、私のデジカメのモニター画面を見せたら大騒ぎ!(笑)
こんなことならポラロイドカメラも持ってくればよかったなぁ〜
本当にかわいい子供たちである。

時刻は3時半。
そろそろ戻ることにする。
途中の小さな滝の側に、いくつか人工的に作られたように見える窪みがあった。
当時、ここにいた日本兵が退避壕として作ったのだろうか?

謎の窪み 謎の窪み

日本兵もこういうところを歩いたんだろうなぁ〜と思いながら歩く。
追体験である。

村に戻ったら果物などでおもてなしを受ける。
いやぁ〜ありがたい!
皆さん大人しい方たちで・・・
話しかけてくるわけでもなく、ニコリともしないのだが、とても親切なのである。

村の人たちが手分けして、ザボンのような大きなミカンやバナナ、ヤシの実などを採って来て、もてなしてくれた。
カメラを向けたら緊張されてしまった・・・(笑)
蘭の花 庭に蘭の花が咲いていた。
この花は日本では結構高価なのだそうだ・・・

時刻は4時半。
それでは、そろそろ帰ります・・・・ということで、村の皆さんの見送りを受けて帰途につく。
が・・・・
村の入り口の上り坂で、車のタイヤがスリップ!
道が泥濘のため完璧に空転している。
仕方がないので、バックでスルスルと出発地点に戻る。
「いや〜こんにちは!」(笑)
ここから加速を付けて一気に坂道を登ろうとするのだが・・・・
坂の途中で、またもやタイヤが空転!!(笑)
で・・・・また、戻る・・・・
なんとも格好が悪い。
村の皆さんが手を振ってくれているんですが・・・なかなか帰れないのです。(笑)
子供たちが車を押してやろうか・・・とばかり近づいてくるのでハラハラする。
車の後ろなんかに立たれたらスリップして後退したら轢いてしまう。
なんとかしろ!ドライバー!
それにしても・・・・この車・・・4輪駆動だよね?
フルタイム4WDじゃないのなら、どこかにスイッチがあるんじゃないの?
スイッチ入ってる??
何で4WDなのにスリップするの?(笑)
俺が運転代わろうか?

ドライバーが必死でギア―をいじりまわし・・・・
何度も坂の下(みんなが手を振っている場所)まで戻っては、勢い付けて・・・・
なんとか、坂を登った!
いやぁ〜冷や汗かいたぁ〜


 


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