戦艦武蔵比島方面戦歿者慰霊之碑 (フィリピン共和国ルソン島バグサンハン・比島寺) 戦艦武蔵戦没35周年 昭和54年10月吉日 武蔵会建之 (平成18年11月2日) |
戦艦武蔵乗員戦没地
昭和19年 3月19日 パラオ島
昭和19年10月24日 シブヤン海
昭和19年11月23日 バシー海峡
昭和20年 4月24日 クラーク地区
昭和20年 4月 コレヒドール島
昭和20年 4月 マニラ港湾地区
昭和20年 4月 インファンタ地区
(碑文より)
艦長猪口敏平海軍中将始め武蔵戦歿者の御冥福をお祈りいたします
昭和54年10月29日
元武蔵副長 加藤憲吉
(副碑・碑文より)
比島寺 (フィリピン共和国ルソン島・バグサンハン) (旅日記参照) (平成18年11月2日) |
【猪口艦長の判断】
巨艦「武蔵」は、次々に攻撃に入る米機に対し、対空射撃の精度を高めるために、操艦による回避を行わずに直進を続けた。
このため、多数の魚雷、爆弾の命中を受け、大量の浸水を喫してしまった。
これは、出撃前のリンガ泊地での研究会で「武蔵」の猪口敏平艦長が、「飛行機だろうと船だろうと、主砲で撃ちまくればいいんだよ、武蔵は沈みはしない」と言い、命中弾を気にせずに射撃する方がよいとの考えで行動した結果であった。
猪口艦長は海軍有数の砲術家であり、射撃には絶対の自信を持っていたための判断であった。
(参考:戸高一成 著 『海戦からみた太平洋戦争』 角川書店 2011年11月初版発行)
(平成29年7月30日 追記)
「大和」型戦艦の弱点
「武蔵」の沈没については、空襲に対する猪口艦長の姿勢に問題があったことはもちろんである。
しかし実は「武蔵」には被雷時の重大な弱点が判明しており、それが同年の8月に艦長に就任したばかりの猪口艦長に十分伝えられていなかったのではないかと考えられる。
牧野茂氏(終戦時技術大佐)は戦艦「大和」建造時の設計主任をつとめ、戦後は一貫して「大和」の技術的な追跡調査を行っていた方で、晩年に至るまで、「『大和』『武蔵』は船体強度に関して、もう少し検討すべきであった」と述べていた。
構造的には問題は無く、防御的にも要求を満たしていたと思っていたはずであったが、1ヵ所の魚雷命中という部分的な衝撃が振動となって、船体全体にどのように波及するか、といったことは充分には検討されなかった、というのである。
「大和」は昭和18年(1943年)12月に、トラック島沖で米潜水艦の雷撃を艦尾付近に受けたことがある。
その際、被雷に気が付かなかった乗員がいたほどで、不沈艦の名を高めたとされたが、のちに主砲方位盤にズレがあったことが判明。
しかし、あまり深刻に受け止めることなくこれを修理してしまった。
レイテ沖海戦では、「武蔵」が同じく魚雷1発の命中で主砲の方位盤の旋回が不能になり、主砲の発射ができなくなった。
これは、レイテ湾に突入しても敵を射撃できないことを意味し、猪口艦長が意図した対空戦闘に寄与しなかったことにつながってしまったのである。
日本海軍は世界最大最強の戦艦を造ることには成功したが、そのメカニズムはあまりに複雑繊細であり、わずかな被弾で戦闘力の多くを失うという技術上の欠陥があったのである。
(参考:戸高一成 著 『海戦からみた太平洋戦争』 角川書店 2011年11月初版発行)
(平成29年7月30日 追記)
【武蔵の最期】
「武蔵」の猪口艦長は、艦の最期の近いことを感じ、とりあえず、パラワン水道で敵潜に轟沈されて臨時乗組中の「摩耶」の将兵たちを、「島風」に移乗させることにした。
「島風」に、ふたたび移乗することになった「摩耶」の乗組員は、砲術長以下607名であった。
ただ、このほかに44名の「摩耶」乗組員が「武蔵」応急員として残され、撤収作業の手伝いをすることになった。
その後、猪口艦長が総員退去を下令したのは、もうすでにあたりが夕闇に包まれる午後7時15分であった。
その後、それは栗田艦隊が東進を始めて間もない頃、「武蔵」は2回の大爆発を起こし、午後7時35分、猪口艦長を乗せたまま、その巨体を消していった。
北緯13度7分、東経122度32分(水深800メートル)。
乗組員のうち、「清霜」に499名、「浜風」には830名が救助されたが、戦闘を通じて、准士官以上39名、下士官・兵984名は、「武蔵」と運命を共にした。
(参考:小板橋孝策 著 『下士官たちの戦艦大和』 光人社NF文庫 1999年2月発行)
(平成29年7月28日 追記)
【暗号書と稲葉少尉の最期】
「武蔵」は沈んだ。
稲葉稀一少尉(東大出身)は、退艦命令と共に海中に飛び込んだが、彼はその手に重い「呂」暗号書をしっかりと抱えていた。
背表紙の裏に太い鉛板がはいっている縦30センチ、横20センチぐらいの分厚い赤表紙の暗号書はずしりと重い。
彼はそれを小脇に抱え浮遊物につかまりながら必死になって駆逐艦「浜風」の舷側までたどりついた。
しかし舷側から垂れ下がっているロープにしがみつき、自力で這い上がることは生易しいことではない。
甲板の上から駆逐艦の乗組員たちが口々に叫んだ。
「荷物を捨てろ!そんなものを持っていては駄目だ」
しかし彼はそれでもなお暗号書をしっかりと抱えて離さなかった。
暗号書は海水につかると、その文字はすべて消えるようにできているし、手離せば鉛板の重みで海中に沈んでいく。
だが暗号書は暗号士にとってすべてであり、彼はそれを守ることに自分の生命をかけたのである。
見るに見かねた「浜風」の乗組員が、甲板からロープの先に輪を作って稲葉少尉に投げ下ろした。
こうして彼はようやく甲板上に引き揚げられた。
しかし海面に厚い層をつくった重油を飲み過ぎた稲葉少尉は、そのまま意識不明となり、やがて息が絶えた。
彼が死ぬまで離さなかった暗号書の活字はすでに真っ白に消えていた。
(参考:小島精文 著 『栗田艦隊』 1979年4月・2版発行 図書出版社)
(平成27年8月7日・追記)
【生存者のその後】
巨大戦艦「武蔵」の生存者たちは他の艦の生存者とは別に、例外的な措置がとられた。
それは、世界に誇示した巨艦「武蔵」が沈没させられたという事実を、国民に知られるのを恐れた海軍中枢部がとった措置である。
この「武蔵」は、最大の犠牲者を出している。
乗組員総員2299名のうち、1023名が戦死し、「武蔵」とその運命を共にして海底に沈んだ。
しかし、残りの生存者1276名は、駆逐艦「清霜」と「浜風」に乗せられ、マニラに向かったのである。
彼らはコレヒドール島の山腹に造られた仮兵舎に隔離され、副長加藤大佐を長とする加藤部隊と名付けられた。
しかも、この部隊はその後、いくつもの小さな部隊に分けられ、それぞれ、各々の方向に散っていった。
その中に、マニラ地区のクラーク飛行場の作業員として、使役作業に従事した320名あまりがいた。
彼らは武器というものを所持していないので、すぐ突撃隊に編入され、敵上陸軍に対する最後の肉弾戦に使われた。
にわか作りの爆薬を手に、あるいは、それを背負い、突進してくる敵の戦車のキャタピラめがけて飛び込み、四散玉砕したのである。
このようにして、戦艦「武蔵」の生存者たちは、最終的に生き残り、内地に生還した者は全くといっていいほどに少なかった。
(参考:小板橋孝策 著 『下士官たちの戦艦大和』 光人社NF文庫 1999年2月発行)
(平成29年7月28日 追記)
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