台湾歩兵第2連隊

(通称号:海8943部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
台湾・台南 明治40年 第48師団 アロール島





「英霊軍旗と共に ここに眠る」碑

熊本県護国神社

昭和52年7月吉日建立
台歩二戦友一同


(平成23年2月8日)

【碑文】

建碑の由来

台湾歩兵第二聯隊は 幾度か海を渡り遠く異郷の山河に栄光の軍旗を先頭にして常に戦力の中核となり赫々たる武勲をたてた
然しながら此の間二千百余柱の英霊が軍旗のもとに散華され軍旗また南溟の孤島に終戦の詔勅を拝して暗涙悲憤の間に奉焼された
幸いにして軍旗の遺灰は時の聯隊長田中透少将のご遺言により祖国に持ち帰られた
我々は長い間 この軍旗の魂と英霊を永久に奉祀したいと念じていたのであるが ここ熊本県護国神社の境内に ふさわしい鎮魂の場を得ることが出来た
ここに眠る英霊は炎熱の山に屍臭の河に将又瘴癘の地に 困苦欠乏に耐えて戦い続けた戦友である
此の間 或いは敵弾に斃れ 或いは病を得て無念の涙を呑み 共に滅私奉公以て祖国に殉じた戦友である
真に祖国のあすを憂いつつ あたら若き命を遠い異国の果てに散らしていった戦友の魂は今こそ愛し続けた墳墓の地に還ったのである
しかも軍旗のもとに集まって とこしえの安住の地を得 軍旗また英霊に囲まれて安らかにその魂を鎮めるものと信ずる
この碑は生きて祖国の土を踏んだ我々の痛恨慟哭の情の凝集であり軍旗と英霊を永久に顕彰すると共に我が聯隊の戦歴を後世に伝え戦いに参加した者の純粋なる殉国の志を子々孫々に残さんと欲する我々の悲願の結晶である
復員三十周年を迎えるにあたり聯隊関係の戦友並びに遺族の総意のもとに茲に「英霊軍旗と共に眠る」の碑を建立したものである
昭和52年7月 元台湾歩兵第二聯隊戦友一同

台湾歩兵第二聯隊戦歴等の概要
一 明治40年11月7日 軍旗を授けられ 台南に創設さる
一 昭和5年 霧社事件の平定
一 昭和12年9月より台湾混成旅団の中核として支那事変に参加
  (中支) 上海周辺の戦闘から湖東作戦次で揚子江遡江作戦九江の上陸戦闘から瑞昌の戦闘次で武昌攻略戦
        昭和13年10月「感状」を授与さる
  (南支) 海南島上陸戦闘
        欽州湾上陸戦闘から南寧八塘続いて賓陽武鳴の戦闘
        昭和15年2月「感状」授与さる
        昭和15年11月 新設第48師団にその基幹として編入さる
        福州の上陸戦闘
一 昭和16年12月より太平洋戦争に参加
  (フィリッピン) ルソン島北岸の上陸戦闘からマニラ攻略戦
            昭和17年1月「感状」を授与さる
  (ジャワ) クラカンの上陸戦闘からスラバヤ攻略戦チモール島の防衛
一 昭和20年8月15日 終戦の詔勅を拝し同8月28日 小スンダ列島アロール島に於て軍旗奉焼
一 昭和21年6月5日 内地上陸 部隊解散 復員

最後の聯隊長 陸軍少将 田中 透
 辞世の歌
   百万の つわもの死せり 我もまた
      笑って 死なむ 日の本の民


【第3大隊】

バウコウにあった第3大隊の半分が、志賀大隊長指揮の下に昭和20年3月マレーへ転進した(これを海演習と称した)。
その残余部隊は、北地区隊長磨島豊少佐の指揮に属した。
昭和20年7月末、残余の第3大隊全員もマレーへ転進することになった。
敵上陸に備えて、ジャングル内の自動車作戦道路は完備し、陣地も構築して諸態勢を整えて待っていたが、敵はチモールを横目に見て比島に上陸、戦わずして終戦を迎えたのである。

(参考:鄭 春河 著 『台湾人元志願兵と大東亜戦争』 平成10年12月第1刷 展転社 発行)

(平成30年12月18日追記)


【連隊長 田中 透 (陸士26期)】

終戦間際、我が台歩二にも討伐事件が発生した。
第3大隊のスルマタ島討伐事件が終戦同時に検挙された。
田中聯隊長閣下は従容として「責任は俺に任せ、お前達は若いから帰国して祖国の復興につとめよ」と一切の責任を負われて隊員200余名の身代わりに昭和23年4月7日アンボン島で壮烈な最期を遂げた。

(参考:鄭 春河 著 『台湾人元志願兵と大東亜戦争』 平成10年12月第1刷 展転社 発行)

(平成30年12月18日追記)



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