敷設艦 常磐 ときわ


軍艦常磐殉職者の碑



軍艦常磐殉職者之碑
(長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地





(平成20年11月23日)

碑文

大正二年八月一日聯合艦隊附属軍艦常磐大分縣佐伯湾ニ於テ戦技ニ際シ機雷實装中午前九時三十九分俄然機雷爆發シ之ニ従事セル将士悉ク其ノ職ニ斃ル最後洵ニ壮烈ト謂フベシ

昭和二年八月一日

軍艦常磐戦没者慰霊之碑



軍艦常磐戦没者慰霊之碑
(長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地)





(平成20年11月23日)

碑文

昭和20年8月9日(1945年)大東亜戦争参加
青森県大湊沖ニ於テ日本海軍最後ノ海空戦ニテ被爆戦死ス(109名)

平成14年8月9日 軍艦常磐第9分隊乗組員
                   建主 増岡 ■
軍艦常磐医長
建主 織田五二七

軍艦常磐殉職者之碑

敷設艦
明治32年5月18日英国で竣工
一等巡洋艦
大正10年9月1日一等海防艦
大正11年9月敷設艦に類別変更

昭和2年8月1日、大分県佐伯湾において、敷設艦常磐艦上で、甲種戦技演習として実装機雷炸薬装填作業中の機雷が爆発し、水雷長峰木少佐以下35名が殉職、負傷者68名を出す事故が発生。
海軍はこの事故を機に既成電池を使用した繋維式慣性機雷(5号機雷)を触角式醸成電池式機雷(6号機雷)に改めた。
同艦は日清事変以後各戦役に活躍。
太平洋戦争では終戦直前の8月9日に空襲により被爆。
大湊の葦崎東方海岸に擱座。
艦齢46年に達する明治建造の軍艦でレーダーを装備したのは本艦のみであったといわれている。
碑は戦技殉職者を祀るものと、空襲による戦死者109名を祀るものの2基が建立されている。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)


【敷設艦】

艦艇の底に触れると炸裂する機雷(水中爆弾の一種)を海中に敷設するという任務を受け持つ。
日露戦争でロシア太平洋艦隊の旗艦を機雷により一撃で撃沈したのに味をしめた日本海軍は、太平洋戦争中、各所で係留式触発機雷を敷設した。
しかし、機雷の技術が幼稚だったため、敵艦艇で日本の機雷により沈没したものは、ごくわずかであった。
敷設艦の艦尾にはレールが敷かれ、その上の機雷を車で押しつつ機雷庫から艦尾へ移動、海上に投下する。
日本海軍は航洋型の敷設艦を比較的多数持っていた。
敷設艦の一部は敵性水域へ夜、こっそりと強行敷設に赴くが、その際、敵駆逐艦とい遭遇することも考えられるため、軽巡と同じ14センチ砲を備えた艦もあった。
敷設艦は2隻以上で戦隊を編成することが多かった。
なお、その艦尾が外へ張り出しているのは投下時、機雷で自己の艦尾を傷つけぬためである。

(参考:『日本兵器総集』 月刊雑誌「丸」別冊 昭和52年発行)


常磐

排水量:9240トン
速力:21ノット
機関:18248馬力
武装:20センチ砲×2、15センチ砲×8、8センチ砲×2、8センチ高角砲×1

日露戦争の装甲巡洋艦で、大正11年に敷設艦となる。
第4艦隊の第19戦隊としてクェゼリンにあり、昭和19年には海上護衛司令部の第18戦隊に入った。
昭和20年1月、米潜水艦の南シナ海侵入を防ぐため、ルソン海峡に機雷を敷設。
その直後、米第38機動部隊がここを通過したが、対潜用として深度を深くしたため、惜しくも戦果はあがらなかった。
終戦直前、大湊で空襲の空襲のため大破。

(参考:『日本兵器総集』 月刊雑誌「丸」別冊 昭和52年発行)


【機雷】

日本海軍は、日米開戦時に、触角式機雷29,250個を貯蔵し、他に港湾防備の防潜網用機雷、管制機雷、潜水艦用機雷を保有していた。
主力の触角機雷は昭和9年に制式化された九三式鉛錘係維機雷で、直径、高さは共に86センチ、重量700キロ、炸薬100キロで、係維索の最大全長は1,000メートル、最大敷設深度72メートル、最大海深度は1,072メートル。
深度72メートルでは下を潜って入る潜水艦が出そうだが、実用潜航深度は50メートル程度だから、一応十分といえようし、機雷の缶体の外殻を厚くすれば、100メートルぐらいまでの水圧に耐えるのは可能だった。
水上艦もしくは潜水艦が4〜9本ある触角に触れると、起爆薬が爆発し、缶体の中の炸薬に引火する仕組みで、基本は日露戦争期と変わらず、連合国やドイツが開発した磁気機雷、音響機雷、水圧機雷などの感応式に比べると、一時代遅れていた。

開戦初頭に敷設艦や潜水艦でシンガポール港外やアナンバス群島付近、フィリピンのサンベルナルディノ、スリガオ両海峡などに機雷を敷設したが、いずれも水上艦を狙ったもので、規模が小さかったせいもあって効果は不明のまま終わった。
昭和17年後半に入って、米潜水艦の動きが活発化したので、本土東岸の沿岸航路を防衛するため対潜機雷堰の設置に着手したが、作業ピッチは遅く、昭和18年中期以降、米潜水艦の通商破壊戦が手の付けられぬ惨状を呈するに至り、ようやく対潜戦術と船団護衛の強化に乗り出した。
この任務に専念するため、昭和18年11月に連合艦隊と同格の海上護衛総司令部が新設され、緊急対策の一環として機雷堰の建設も含まれていた。

ところが、海上護衛総司令部作戦参謀の大井篤大佐が軍令部に交渉しても、機雷は対ソ戦に備えて備蓄する必要があると反対され、すったもんだの末、やっと昭和19年に入って東支那海への敷設作業がスタートした。
この機雷堰は半年かけて計1万2千個の九三式機雷を大陸棚の縁に沿って並べるもので、総延長は400キロに達した。
しかし時すでに遅く、台湾より南方には手を付ける余裕がなく、米潜の侵入を食い止めることはできなかったが、それでも多少の効果はあった。
判明しているだけでも8隻以上の米潜水艦が三陸沖などの機雷に引っかかり未帰還となっている。

敷設艦は「常磐」(9,240トン)、「沖島」(4,470トン)、「八重山」(1,135トン)など10隻ちかくあった。
九三式機雷の寿命は索切れなどで半年〜1年程度で、しかも敵潜が触角に触れない限り爆発してくれない原始的兵器だった。
威力を高めるには磁気機雷などの感応式に切り換えていく必要があった。
磁気機雷だと近くを潜水艦が通過するだけで作動するから、威圧度は飛躍的に向上し、必要数量も少なくて済む。
日本海軍は大正末期から磁気機雷の研究に着手はしていたが、兵器化できず、昭和17年秋にドイツから供給された磁気機雷をコピーして三式機雷を製造した。
この機雷は実戦には使っていないが、その気になれば緒戦期に間に合ったと思われる。

(参考:秦 郁彦 著 「絶対不敗態勢は可能だったか」・『歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い』所収 中央公論社 昭和60年8月発行)

(令和2年10月14日 追記)




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