機動歩兵第3連隊の思い出の地・召君墳

(包頭〜黄河〜昭君墓)


平成19年10月16日・(第3日目・その1)
朝食 朝食

真ん中の器に入っているのがミルクティー。
右の器に入っているのが粟(あわ)粥。
簡単な食事を終えて8時半ホテルをチェックアウトして出発!

ホテルの前の包頭の町の景色

“包頭”は人口230万人だという。
そのうち市内の人口は140万人。
古い町並みから新しい町並みまで23キロもあるという大きな町。
この町は市内区4区、市外区5区の9区から成り立つ。
市内には『中国兵器』という戦車を作っている軍需工場がある。
話によると人口の半分がこの工場で働いているというのだが・・・
半分って・・・100万人?
100万人で戦車を作っているのか?
どうも話が大きすぎるんだよなぁ〜
工場には学校も専用の火力発電所もあるというのだから、巨大な企業というのはわかるんだけど・・・
それにしても、話が大きすぎないかい?(笑)
そして残りの人口半分は西部にあるコンビナートで働いているという。
今は、ドンドン新しい洒落たデザインのアパートが建設中。
バブルだ!バブルだ!(笑)

ガイドさんから偶然、公園の話が出た。
この町には大きな池もある公園があるという。
「それって・・・吉松連隊長が造らせた公園じゃないですか?」と尋ねたら、「日本が作った公園じゃありません!」とキッパリと言われてしまった。
その昔、騎兵第14連隊が改編されて機動歩兵第3連隊になり、ここに駐屯していた時に、吉松連隊長の命で各大隊50万本の木を植えたのである。
当時の“包頭”はろくに緑もない町だったので、町に木を植えて緑を増やし、更に池のある公園も造って現地人の憩いの場所を作ったのだ。
昭和18年か19年頃の事だと思う。
その時に造られた公園ではないのかと思ったのだが・・・・
完全に否定された。
日本軍が植樹や公園などを造るはずはないという。
こういうわけだ・・・
良いことは全て中国人民政府のおかげ、悪いことは全て日本軍のせい・・・・である。
吉松連隊長のこの活動により、機動歩兵第3連隊(旧・歩兵第14連隊)は「緑の連隊」との異名を持つ。
日本の善行が全く伝えられていない。
「歴史」というのは自分勝手な自分に都合の良いことだけで語り継がれていく。
いかにいい加減なものかがわかる。

今日の予定は・・・『召君墳』という場所にに行くらしい。
拙者はスケジュールを全く知らない。
全て比留間さんが一人で決めている。
私は、ただ付いて行くだけ〜(笑)
というわけで、どこをどう走っているのか、どっちの方角に向かっているのかも分からない。
大体・・・地図も持っていないんだから・・・

ホテルを出発して約1時間後、「黄河」に到着。
ここに浮橋がかかっている。
この橋を徒歩で渡ってみることにした。

黄河渡河点 黄河
黄河の浮き橋 黄河の浮き橋
黄河に映る自分の影 黄河に映る自分の影

面白いから自分の影を写してみろと比留間さんに言われて撮影してみる。
泥水のように見えて実は黄河は泥の河ではないことを知る。
川の中で細かい砂の粒子が渦巻いているのが見えるのだ。
この泥水のような水をすくって、しばらく置くと、砂が沈殿して透明な上澄みを得ることが出来、それを生活用水に使っているという。
黄河の浮き橋 黄河を渡り終えた岸

昔はこの橋はなく、小船で両岸を往復していたという。
そのため、1個分隊(7名)がこの岸に派遣され、小船でやってきた人の荷物の検査などをしていたという。
時は昭和18年頃ではないかと思う。
この頃には騎兵第14連隊は機動歩兵第3連隊に改編され、第3大隊の第9中隊がこのあたりに駐屯していたからである。
比留間さんに尋ねたが・・・・
「いつだったかなぁ〜・・・とにかく1年間いたんだよねぇ〜ここに」とのこと。
まぁ、87歳だから仕方が無いかぁ〜(笑)

召君墳 召君墳(昭君墓)

浮き橋のところから車で10分も走ると、平原にヒョコンと小山が見えてくる。
これが『召君墳』
日本軍では当時は『召君墳』とも『召君噴』とも書き(ショウクンフン)と呼んでいたらしいが、もしかして現在、内モンゴル各地にあるという『昭君墓(しょうくんぼ=チャオチュンムー)』の一つではなかろうか?
『昭君墓』は紀元前33年に和親のために、対立する国の王に嫁いだ悲劇の美女、王昭君の墓だという。
この『昭君墓』は内モンゴルのあちこちにあるようだ。
どれが本当のお墓なのか・・・・

召君墳(昭君墓)

大平原にポツンとある小山のふもとに1個中隊が駐屯。
この山に兵隊1名が登って交代で黄河対岸の敵の動きを監視したという。
比留間さんもその一人だったという。
監視のため上り下りした道が今も残っている。

召君墳のふもと
召君墳(昭君墓)のふもと

比留間さんが監視哨に上り下りした道が今も残っている。
ふもとには当時も家が数件建っていたそうだが、泥で造られた家だったとか。
このふもとに中隊の兵営があったらしい。
頂上から北の方角を見る(黄河の方向) 頂上から西の方角を見る

黄河の向こうの山のほう(写真では霞んでいて見えないが・・・)を監視したらしいのだが・・・
「ずいぶん遠いんですが・・・ここから見えるんですか?」
「あ〜・・・トラックが1台でも走れば土埃があがるのですぐに分かるんだよねぇ」
黄河の向こうの山の向こうはソ連。
冬には黄河が凍るのでソ連側からスパイが歩いて川を渡ってきて“包頭”まで潜入したという。

見晴らしはいいが・・・寂しい場所だなぁ〜
「こんなところに1個中隊の小部隊がいて何の役に立ったんですか?敵が来たらあっという間に全滅しそうな気がするんですが・・・」
「いや、ここに日本軍がいるっていうことが大事だったようだね。私は何も分からず、とにかく頂上に登って監視していただけ。何がなんだかわからないんだよね。当時は・・・」
「で・・・敵の動きが見えたら・・・どうするんですか?」
「そこだよなぁ〜問題は・・・どうするんだったかなぁ?」
はぁ?
もう笑うしかない。
何とのんびりした話か・・・


  


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